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検索対象: 歴史と戦争
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1. 歴史と戦争

ければ戦車を、文句はぬきだ。国亡びれば我ら又亡びる時、すべてを戦いにささげつく すがよい。学校はそのまま工場としてもよく、学生はそのまま職工となるも不可あらん ゃ。僕もそのときはいさぎよく筆をすてハンマーを握るつもりである」 のちに無頼派といわれる安吾までかここまで思いつめたように、あるいは当時の大人 たちはみな、戦況がぐんと傾きだしたことにある種の予感を抱きはじめたのかもしれな 『面昭和史』 次の世紀までも記憶しておくべき昭和十八年の夜郎自大 対米英戦争は、アジアの植民地解放という崇高な目的をもった戦いであった、ゆえに 土↑もし J 、さい」、さいる。 , わた′、ーレ 大東亜戦争と呼称すべし、と抗議の手紙をよこす人が、い が太平洋戦争といつも書いているのが気に入らないらしい。わたくしは、この対米英戦 争を自存自衛のための戦争と位置づけている。「開戦の詔書」はそう明記している。

2. 歴史と戦争

177 第四章戦後を歩んで 私が週刊文春創刊号に書いた記事 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 四月、まさにご成婚に合わせて「週刊文春」が創刊されま した。私も編集部員として参加し、創刊号ではご成婚のトップ記事を書きましたが、今 じゃり 読むと手放しのお祝いをせず、「馬車がゆく、砂利がきしむ音がする、その音は何百万 わかげ の戦死者のうめきと聞こえるであろう」なんて調子で、若気の至りと言いますか、そん なこともありました。 『昭和史戦後篇 1945 ー 1989 』 東京五輪音頭の歌詞を書いたひと 昭和三十九年 ( 一九六四 ) です。この年は問題なく、オリンビックと新幹線なのです が、その前に四月一日、日本人の海外旅行の自由化が実施されます。

3. 歴史と戦争

17 第一章幕末・維新・明治をながめて 天皇陛下という存在については、現代に生きる私たちが考えるような、あるいは戦前 の日本人が考えていたような意識は、幕末の日本人にはなかったんです。幕末にも尊王 攘夷がもてはやされて「尊王」ということばが盛んに飛び交いましたが、その場合でも 文字では「尊王」と書いたはずで、「尊皇」と書くのはまれだったと思います。つまり、 誰か王様になってもよかったんです。そうでもないと、明治新政府ができたとき、島津 久光が言ったという「なんだ、俺が新しい王になるのではないのか」という台詞は出て こないですよ。 『仁義なき幕末維新』 ( 菅原文太氏との対談で ) コチコチの愛国者というものは コチコチの愛国者ほど国を害する者、ダメにする者はいない。これ、私の持論なんです。 あべまさひろ なおすけ 幕末に、徳川を守ることに固執した井伊直弼なども、それがために阿部正弘が敷いた幕 はしとさない よしだしよういん 末日本の進むべき道をねじ曲げただけでなく、将来の逸材である橋本左内や吉田松陰を

4. 歴史と戦争

しくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉で 魔法を使ったとしか思えない。、 は物足りない」と興奮を日記にぶつけた。 「私は不覚にも落涙した」と詩人高村光太郎も書いている。亡き夫人智恵子への愛をつ づった詩集『智恵子抄』が刊行されたのは、この年である。 また、社会学者清水幾太郎は、後日、その日の感想をこう記した。 「日本は是が非でも英米に勝たねばならぬ。そのためには吾々の文化が彼等の文化に勝 それは たねばならぬ。併し文化はただビルディングや洋服にのみ関することではない。 根本に於て国民の心の力を養うことであり、また心のカそれ自らである」 見 武者小路実篤も書いた 和 「 : : : 愚かなのはルーズベルト、チャーチル 、ハル長官たちである。日本を敵に廻す恐 昭 正 ろしさを英米の国民が知らないのは当然だが、彼ら責任者がそれを知らなかったのは馬 大 一一鹿すぎる」 第 つまりは、多くの日本人は、十二月八日をこのようにうけとめたのだ。ほとんどが真 珠湾の戦勝に狂喜し、そしてだれもがこの戦争を「聖戦」と信じた。あるいは信じよう

5. 歴史と戦争

下町の夜を渡った音色 笛といえば、この甲高い音は不思議によく聞こえる。秋の夜など戸を閉めて床に人っ ても、遠い祭りの笛の音だけが枕元までとどく。 太鼓や三味線などは聞こえない。支那 あんま ソバのチャラメラ、按摩の笛、むかしの下町の夜には、この絹ごしのようにきめの細か い音色がよく似合っていた うず 風の強いときには電線が鳴った。強い風が細いものに当たると、風下に渦巻きが対に なってでき、交互に発生し、流れていくためにビービーと鳴る。これをカルマン渦とい う、と理科に強い友がおごそかに教えてくれたが、何であろうとも正体を知ってしまう と風情がなくなる。 いった。「おれんち」 ( 俺の家 ) 、「お前んち」といし 「ヤならよしやがれ」であった。 「あすぼう」 ( 遊ぼう ) であったし、 『歴史探偵かんじん帳』

6. 歴史と戦争

新聞は「沈黙を余儀なくされた」わけでなく 『朝日新聞』は自社の七〇年史で書いています。 「昭和六年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、 柳条溝の爆発で一挙に準戦時状態に人るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされ た」とお書きになっていますけれど、違いますね。 沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ。 つまり、ジャーナリズムというのは、基本的にはそういうものでね、歴史を本当には 学んでいないんですよ。 ふた こう一言っちや身も蓋もないけれど、 いまのマスコミだって、売れるから叩く、し 売れる から持ち上げる、そんなところだと思いますよ。 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』 ( 保阪正康氏との対談で ) 「攻撃は最大の防御なり」と信じて

7. 歴史と戦争

166 美空ひばりのデビュー 「その時思わぬ幸運が小さな私の家に訪れたのです。小唄勝太郎先生のご希望で自分の 歌の前に小さな女の子を出してほしい、 ということになったそうです。そこで横浜国際 劇場の支配人の福島道人さんが、そういう女の子を探していらっしやる時、父の知りあ いの関さんという方が私を推薦して下さったのです」 自身が書くデビューのときの思い出である。一九四八 ( 昭和 ) 年五月一日、こうし て天才的な流行歌手美空ひばりが誕生した。 小唄勝太郎に手をひかれて、大舞台の中央に立ったひばりは、フットライトをあびて せることはもう金輪際できなくなったのである そして新憲法の根本理念が象徴天皇と戦争放棄と基本的人権にあることは、多くの人 のうべなうところであろう 『マッカーサーと日本占領』

8. 歴史と戦争

156 昭和一一十年秋の渋谷で 昭和二十年の秋風が吹くころには、国民の生活はかなり落ち着いてきました。という ことは、精神面も落ち着いてきたということですオオ 。こ。こし、食い物がないという貧しさ はまったく改善されませんでしたが。 渋谷駅のガード下には今でもたくさんのビラが貼られていますが、当時もさまざまな スローガンが見られました。作家の山田風太郎さんが、わざわざ写したのを日記に書い ています。 「餓死対策国民大会 ! 」ーーやつばり餓死する人がいたんですね。 「吸血鬼財閥の米倉庫を襲撃せよ ! 」 なんて物騒なのもあります。 「赤尾敏大獅子吼、軍閥打倒 ! 」ーー愛国党党首で鳴らした赤尾敏さんがこの頃から大 活躍していたことがよくわかります 『昭和史戦後篇 1945 ー 1989 』

9. 歴史と戦争

落として、 しく。しかも恐ろしいことは「国民の声」であるからということで、ジャーナ あるいは煽動 リズムのみならず、政治・軍事の指導者の判断がそれに影響されてい 彼らは世論を盾にすることで、みず 者 ( 世論の造出者 ) もそれにふくめたほうがいい からが負っている言論の責任をすべて不特定多数の「国民」に移してしまうことができ る。そしてそうすることによって、いっそう強い勢いで、これは下からの声であるから という理由をもって、そこが断崖絶壁の危地であることを承知で、何千何万の民草に 〃突進〃を命ずることができるようになる。 『日露戦争史 1 』 きれい事のみ戦史に残し 軍事史家の前原透氏が、実に微妙なところを調べあげ書いている。日露戦後、参謀本 部で戦史が編纂されることになったとき、高級指揮官の少なからぬものがあるまじき指 摘をしたという たて

10. 歴史と戦争

173 第四章戦後を歩んで 朝鮮戦争がそうであったように、スエズ動乱 ( 編註・昭和三十一年十月 ) も日本経済にと っては「第二の神風」になりました。すでにかなり景気がよくなった時期の世界的動乱、 しかも遥か遠い場所ですから直接的には被害も受けません。 オいへんな儲けを生み、好 景気にさらに弾みがついたのです。 まったく戦争というのはいつの時代でも儲かるのです。新聞雑誌もそうです。だから 変なことを考えるやつが絶えないのです。 『昭和史戦後篇 1945 ー 1989 』 戦後とは、いつぼうこんな時代でもあった 『東京物語』 ( 昭和一一十八年製作 ) に父 ( 笠智衆 ) が義理の娘 ( 原節子 ) のアパートを 訪ねた夜の、至極いい場面がある。娘がニコニコしながら「お義父さま、お一ついか が」という。すると、洗いたてで糊のきいた白絣を着た義父がはにかみながら、「うう