真珠湾への奇襲作戦 太平洋戦争における連合艦隊司令長官山本五十六大将の真珠湾攻撃作戦は、『海戦要 務令』にある「先制と集中」による攻撃主義という海軍兵術思想を見事に活かしたもの である。と同時に、陸軍の『作戦要務令』が説く「奇襲」を全面的に採り人れた作戦計 画でもあったのである。 というのも、『海戦要務令』には、面白いことに奇襲という文字がほとんどないから である。わずかに夜戦と潜水戦隊の戦闘の二カ所にしか書かれていない。 もう一つ、 「航空隊の戦闘」の項に「航空機の戦闘においては、敵の不意に乗じて近接攻撃するを 特に有利とす」と、わずかに奇襲攻撃を示唆している文字がある。が、一般には奇襲を 強調する考え方は日本海軍にはなかったようなのである。海上には地形の変化がない。 としたのである。 『山本五十六の無念』
83 第二章大正・昭和前期を見つめて すべて平面上にあり、見通される。たとえば、源義経のひょどり越えの逆落としのよう な、困難な地形を克服して敢行される奇襲は、海にあっては成り立たないのである。 しかし、海軍航空の育ての親であり、航空戦の理解の深かった山本はそこに着目した。 つまり『海戦要務令』の中のただの一行の「航空戦」の奇襲を、新しい時代の戦勝の第 一義とした。開戦初頭の、乾坤一擲の奇襲作戦に、国家の運命を賭けたのである。真珠 湾攻撃の作戦計画のあることを、山本がひそかに打ち明けた嶋田繁太郎海軍大臣あて ( 昭和十六年十月二十四日付け ) の手紙がある。 「 ( 対米英戦争に踏み切るのは ) 非常の無理ある次第にて、これをも押切り敢行、否、 大勢に押されて立上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としてはとうてい尋常一様の 作戦にては見込み立たず、結局、桶狭間とひょどり越えと川中島とを併せ行うの已むを 得ざる羽目に追込まれる次第に御座候」 桶狭間もひょどり越えも川中島も、山本の脳裏には奇襲の戦いとして描かれている。 真珠湾攻撃はそれらを全部あわせたような「大奇襲」を意図したものであった。 『徹底分析川中島合戦』
日中戦争に倦んできて 昭相十五年の群集心理 7 日中戦争の四年半で 昭和十六年一月の示達、戦陣訓にこうあった 昭和十六年舂、石原莞爾の予 = = ロ 昭和十六年、開戦の一一カ月前にこの国がやったこと 開戦一カ月前、大本営が考えた戦争の見通し四 日本人は十一一月八日のラジオ放送をどう聞いたか師 真珠湾への奇襲作戦わ 山本五十六の無念 第三章戦争の時代を生きて 8 真珠湾攻撃大成功の報せを受けて跖 私の親父はペんクだった 昭和十七年舂のレイテ島 昭和十七年六月、ミッドウェー海戦大敗後の銃後 昭和十七年八月のガダルカナル島、戦闘の翌日に記者は見た四
真珠湾攻撃大成功の報せを受けて 小学校五年生であったわたくしは、ほとんどの大人たちが興奮して晴々とした顔をし ていたことを覚えている。評論家の小林秀雄は「大戦争が丁度いい時に始まってくれた 亀井勝一郎は「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだ という気持なのた」といし ・ : 維新いらい我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべき の夢であった。 ときが来た」と書き、作家の横光利一は「戦いはついに始まった。そして大勝した。先 祖を神だと信じた民族が勝った」と感動の文字を記した。 この人たちにしてなおこの感ありで、少なくとも日本人のすべてが同様の、気も遠く オ。この戦争は尊皇攘夷の決戦と思ったのであ なるような痛央感を抱いた勝利に酔っこ る 『昭和史探索 5 』
-6 フ / 日中戦争の四年半で 四年半に及ぶ泥沼の日中戦争には、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の日までに、 じつに百億円もの戦費が投じられ ( 現在の価値にして約二〇兆円 ) 、四十五万五千七百 人もの日本兵が戦死することになるのです。 『半藤一利が見た昭和文藝春秋増刊 ′、、り↓ま』 単純であり、偏狭さと保守的傾向をもっている、と。 昭和十五年から開戦への道程における日本人の、新しい戦争を期待する国民感情の流 れとは、ル・ボンのいうそのままといっていいような気がする。それもそのときの政府 や軍部が冷静な計算で操作していったというようなものではない。日本にはヒトラーの ような独裁者もいなかったし、強力で狡猾なファシストもいなかった。 『昭和・戦争・失敗の本質』 - 」・つかっ
零式戦闘機はご存知のように、乗員席の後ろに防御板を置かなかった。攻撃の運動性 能をあげるために機体を軽くすることを、搭乗員の命を守ることより優先させた。戦艦 「大和」は当時の世界一の戦艦で、大きさと攻撃力は世界一でしたが、対空防御につい てはほとんど想定していません。 「攻撃は最大の防御なり」とは帝国陸海軍ともに信奉する考え方でした。満州事変から 太平洋戦争にいたる政戦略の外へ外へのエスカレーションは、まさしくこの攻勢防御思 っ 想によるものでした。 見 日本は細長い島国で、真ん中に山脈が背骨のように通っていて平野が非常に狭い。周 和 囲が海なのでどこからでも入ってこられる。日本本土をくまなく守りぬくことなんて不 昭 可能で、地政学からいえば大きな欠点を持っています。 章 国防上、北からの脅威に備えるために朝鮮半島をとる。その朝鮮半島を守るためには 第 満洲をとる。満洲を守るためには内蒙古を : : : とにかく外へ外へ、となっていきました。 『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』
山本五十六の無念 謀略の疑いをもって聞いていたアメリカの放送であったが、どうやら最後通牒の遅れ たことは間違いないようだと山本が知ったのは、その年の暮か、十七年に人ってから間 もなくであったという 山本は、心を許した幕僚にだけはしみじみと語った。 「残念だなあ。僕が死んだら、陛下と日本国民には、連合艦隊は決して初めからそうい う計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えてほしい」 無念の歯がみが聞こえてくるようである。 『冖真珠湾〕の日』
210 「昭和史戦後篇 1945 ー 1989 』平凡社ライブラリー 「昭和史探索 1 」ちくま文庫 「昭和史探索 3 」ちくま文庫 「昭和史探索 4 」ちくま文庫 「昭和史探索 5 」ちくま文庫 「昭和史探索 6 」ちくま文庫 「「昭和史」を歩きなから考える」文庫 「昭和史をどう生きたか」東京書籍 「昭和・戦争・失敗の本質」新講社 「「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』岩波ブックレット 『「昭和天畠実録」の謎を解く」 ( 御厨員氏・保阪正氏との鼎談 ) 文舂新書 『昭和と日本人失敗の本質」中経の文庫 一昭和の名将と愚将」 ( 保阪正康氏との対談 ) 文春新書 「「昭和」を点検する」 ( 保阪正康氏との対談 ) 講談社現代新書 「「昭和」を振り回した男たち」 ( 利根川裕氏・ 土門周平氏・檜山良昭氏・保阪正康氏・夏堀正元氏との共著 ) 東洋経済新報社 「仁義なき幕末維新』 ( 菅原文太氏との対談 ) 文春文庫 「冖真珠湾〕の日』文春文庫
神風特別攻撃隊について天皇は 昭和十九年十月一一十五日、神風特別攻撃隊による最初の体当り攻撃が行われた。一一十 六日、軍令部総長よりこの奏上を受け、天皇はいった。 「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」 無電で伝えられた前線基地の将兵は感奮したという。われわれはまだ宸襟を悩まし奉 っているのかと。この、天皇の言葉と将兵の感奮の事実を見つめていると、奇妙な感慨 にとらわれてくる。「そのようにまでせねばならなかったか」のうちには、仁慈に満ち た天皇の姿がある。そして同じ人が、大元帥として「しかし、よくやった」と賞詞を述 べるのである。一人の人間のなかに、政治的人格として二人の人間が共生しているかの ような感じにとらわれざるをえない。 しかし、 いかによく将兵が特攻によって奮戦しようと、昭和二十年六月ともなると、 戦いの結末はもうみえていた しんきん 『指揮官と参謀』
99 第三章戦争の時代を生きて 特攻の指揮をとった人が昭和十九年に言ったこと 総指揮をとった関大尉が、出発前に言ったといいます 「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて : ・・ : しかし、命令と あれば、やむを得ない。日本が負けたら、 ( 家内 ) がアメ公に何をされるかわから ん。僕は彼女を守るために死ぬ」 こうして十月二十五日に基地を飛び立ち、再び帰りませんでした。二十八日、海軍は 神風特別攻撃隊を大々的に「命令ではなく志願による」として公表しています。 『昭 . 相・史 1926 ー 1945 』 金輪際許せないこと じっしれいせい 志願による十死零生の特別攻撃は、金輪際許すことはできない。命令できないことを