第五章じっさい見たこと、聞いたこと 東京裁判を見に行った州 土を耕すことなければ 7 死の灰を浴びた第五福竜丸 ゴジラが日本に上陸した日 私が週刊文舂創刊号に書いた記事 東京五輪音頭の歌詞を書いたひと だれが東京大空襲を指揮した男に勲章を授けたか 昭和天畠と映画「日本のいちばん長い日」 < 級戦犯合祀問題に関する私の考え 昭和天畠の涙 戦後、日本の国家機軸は平和憲法だった 若い皆さん方の大仕事 2 4 昭和史を語り終わって思ったことは この国がまた滅びるとき 「あきらめ」が戦争を招く
石橋湛山、大正十年の社説 湛山の論理基準はまことに明瞭。まず事実と数値によって事を正しく把握し、経済上 の利益がどこにあるかを冷静に合理的に見通すまでなのである。そしてみずから考えだ した論理を押しつめて、たどりついた結論が「小日本主義」。いいかえれば、当時の日 本人の多くが抱いている「大日本主義」をあっさりと棄てよという、棄てたところで、 日本になんらの不利をももたらさない。かえって大きな国家的利益となる、ということ であったのである。 こうして湛山はこの社説をつぎのように結ぶのである 朝鮮・台湾・樺太・満』 沙というごとき、わすかばかりの土地を棄つることにより広大 なる支那の全上を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的 支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。 『戦う石橋湛山』
181 第四章戦後を歩んで 『「昭和天皇実録」の謎を解く』 ( 御厨貴氏・保阪正康氏との鼎談で ) 級戦犯合祀間題に関する私の考え 現在の靖国神社はあまりにも政治的な存在になっています。 ですが、そもそもあそこは政治利用されるべき場所ではない。国のために命を落とさ れた方々が、安らかにお眠りになる場所なのです。慰霊鎮魂のための社です。 靖国神社では、昭和五十三年 ( 一九七八 ) に < 級戦犯の一四名を「昭和殉難者」とし て合祀しました。日本国民に対してとてつもない戦争責任を負っている彼らが、なんと 「殉難者」だというのです。 戦争を起こし遂行した責任者です。 たしかに彼らは戦犯 ( 犯罪者 ) ではなくなったが、 はたして、その戦争責任者の中に非業の死を遂げた「殉難者」と呼べる人がいるのでし 『日本人と愛国心』 ( 戸高一成氏との対談で )
192 「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ラ徴用 ・つる シテ総動員業務ニ従事セシムルコトテ得但シ兵役法ノ適用ラ妨ゲズ」 国家の総力をあげての戦争遂行のための国家体制は、陸軍の期待どおりに着々と、戦 争ムードとともに整えられた。 その日から四半世紀たった昭和三十八年春、佐藤賢了にこのことについて取材したと きのことをいまも鮮明に覚えている。この国内経済を戦時統制経済に切り替え、国民の もっている諸権利をいざとなったら政府に譲り渡すという法案が通ったあと、軍人の発 言力が強まり、国全体がすっかり軍国主義に塗りつぶされた。それが日中戦争をいっそ うドロ沼化させ、対米英戦争への道をぬきさしならぬものにしたのではないか、という のが質間の骨子であった。 佐藤は当時六十七歳。なお意気軒昂として「小僧っ子、黙れ ! 」といわんばかりに睨 みつけつつまくしたてた 当」よ・つじん いいか、国防に任ずる者はたえず強靭な備えのない平和というものはない、と考えて おるんだ。そんな備えのない平和なんてもんは幻想にすぎん。あるはずがない。い、 ) 、
をふるった。民・軍にわたる官僚制度であり、統帥権の独立であり、帷幄上奏権であり、 あらひとがみ 治安維持法である。なかんずく「現人神思想」である。 昭和の日本で敗戦に導いた指導者の多くは、山県の衣鉢をついだものたちであった。 昭和二十年八月は、山県の死後わずか二十四年ののちのこと、まだ山県は生きていたと しえる。その意味で「大日本帝国は山県が亡ぼした」といっても、かならずしも過言で その山県が、秘密主義、官僚的、冷酷、権力的といった暗い性格ゆえに、人気がない からと、忘れ去られてしまっているのは、近代史を学ぶものとして、いささか不当、の 印象はぬぐえないでいる。 『山県有明』 、あくじよ - っそ - フ
し、大砲を射っことはできない。必要なのは個人の識見であり、技術的な能力なのだと いう強烈な自覚が海舟の胸に息づいていた でんしゅうじよ 日本海軍は長崎からはじまった。この地に幕府の長崎海軍伝習所がひらかれたとき、 近代日本が開幕したといえるのである。安政二年 ( 一八五五 ) 十月のことである。 『日本海軍の栄光と挫折』 勝海舟の幕末 体制のな 勝つつあんの時勢にたいする処し方を、ごく今日的に考えてみれば かにいながら、その体制をぶつこわし、体制の枠を越えてずっと先を見通している。そ してその行動は、とうてい他人には理解できるものではなかったと思わざるをえない。 ) たいす 伝統的な主君への忠誠の観念からすれば、畢竟、海舟は裏切り者であり、天皇に そのどちらへも勝 る新しい忠誠の立場からすれば、文句なしにかれは仇敵でしかない。 つつあんの帰るべき場所はないのである。それゆえに海舟は天下独往していくことにな
19 第一章幕末・維新・明治をながめて 海舟の胸に息づいていたもの 海舟が身をもって実行したことは、幕府とか諸藩 という強大な壁をのぞき、日本の全 力を結集してネーションとしての海軍をつくりあげることにあった。幕府や藩中心の考 え方をのりこえ、「世界のなかの日本」という 世界観を基底においた。 海岸に砲塁を築 そんな姑息な手段で外国の軍艦を破れるものではない。だから、「軍艦には軍艦で 国を守るほかはない」とつねにかれは説いた。しかも身分や格式では軍艦を動かせない そこがエライ。政治において何事かを為し遂げるということが、どこかに突っつかれや すいマイナスをともなうということも、勝つつあんははっきりと自覚している。しかし、 機はいまをおいてないのである。それゆえの無血開城である。そのことにたいして弁解 はしないのである。それが実行家というものなのである。やつばりあとからの批評は気 楽といったところになる 『それからの海舟』
121 第三章戦争の時代を生きて 「ソ連は出てこない」と、なぜあの時考えたのか 考えてみると、人は完全な無力と無策状態に追いこまれると、自分を軽蔑しはじめる。 役立たず、無能、お前は何もできないのか。しかし、いつまでもこの状況にはいられな くなる。逃れるために、いや現実は逃れることなどできないゆえに、自己欺瞞にしがみ なぜソ連が対日参戦に踏みきったか。 ( 一 ) 将来の日本の侵略に備えた安全保障。 ( 一 l) 西側同盟諸国 ) にたいするソ連の神聖なる義務。 (lll) 中国、朝鮮ならびに他のアジア人民の日本帝国主義者にたいする闘争を援助する という道徳的義務。 ( 編註・『ソ連史』より ) 以上、三つの高潔な動機に帰している。理由はどうにでもつけられる。「正義の戦 争」があるはずはないのである。 『ソ連が満洲に侵攻した夏』
55 第二章大正・昭和前期を見つめて が、力強く踏みだされたことがよくわかる 昭和十一一年一月の野上弥生子 年頭の新聞に作家の野上弥生子が心からの願いを寄せている。 今年は豊作でございましようか、凶作でござ : たったひとつお願いごとをしたい。 土小ーしょ , フカしし え、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震が っしょにはやっても、よろしゅ ・コレラとベストがい あっても、暴風雨があっても、 , フごい土小亠 9 ・い」 , フか戦 ) 、たけはご、ざい土小せ′ルしょ , フに・ 一人の小説家の眼には、ひそかに忍び寄ってくる不吉な影が、ありありと映じていた のであろう 。いかなる自然の災害よりも、人間がひき起す〈戦争〉こそが、最大の悲劇 であるという、 野上さんのこの言葉は、つぎに来るべきものは人類絶滅の核戦争以外に そうした厳しい現実を生きているわれわれには、ずっしりとした重量感をもっ やえこ 『歴史探偵昭和史をゆく』
49 第二章大正・昭和前期を見つめて む。楽しくていいニュースは積極的にとりこむが、悪いニュースにはあまり関心を払わ というよりも消極的にうけとめやがてこれを拒否する。 よい、注意を向けない、 いや、気づきたく 草は国策がどんどんおかしくなっているのには気づこうとはしない、 いや、表面的には なかったのか。それがどうしてなのかを理解することはむつかしい おのの ともかく、不気味に大きくなる暗雲に、人びとは恐れ戦きつつも、「いや、まだ十分に 時間がある」と思いたがっていたゆえの平穏であったのであろう。 『面昭和史』 名投手沢村栄治の無念 しただけで、野球好きは 一九三四 ( 昭和 9 ) 年一一月二〇日、静岡の草薙球場。と書、 もう胸を躍らせることであろう。名投手沢村栄治は、この日、世界最強の折り紙のつけ られた全米選抜チームの強打者をばったばったと三振に、または凡打に打ちとっていっ た。頭の高さまで左足をあげて投げおろす沢村の速球は「一五〇キロは確実に出てい