江田船山古墳 - みる会図書館


検索対象: 継体天皇と朝鮮半島の謎
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1. 継体天皇と朝鮮半島の謎

大須一一子山古墳の規模は、最近全長一三八メートルあったとの説が唱えられている。時期 は , ハ世紀初頭ころ、断夫山古墳より一世代前の尾張最大の首長の墓であろう。味美一一子山 古墳は、全長九四メートルの前方後円墳で、 , ハ世紀初頭の築造。断夫山古墳のあとも、こ の周辺では大きな古墳が造られる。白鳥古墳は全長七〇メートルの前方後円墳で、年代は 六世紀前半 5 中葉とみられる。 尾張連出身の継体妃 尾張連出身の継体妃「目子郎女」について、『古事記』は七人いる后妃のうち三尾氏出 わかひめ もとのきさき 身の「若比売」に次いで二人目に挙げ、『日本書紀』は「元妃尾張連草香女、目子媛」 と記す。『記・紀』ともに仁賢天皇の娘「手白香皇女」との婚姻は即位にあたって行なわ れたと記しているが、『日本書紀』の「元妃」という表記は、それ以前においては目子媛 あんかんせんか が継体の正妻であったことを示していよう。その息子安閑と宣化が即位していることから も、その母方である尾張氏の勢力の程が知られる。 第一回の高島古代史フォーラムにおいて、私は長年にわたり全国の古墳を踏査された考 なかっかてるよ 古学者中司照世さんに、純粋に古墳だけで比較すれは、近江・越前・尾張・美濃・若狭な めのこ いらつめ しらとり めのこひめ 2

2. 継体天皇と朝鮮半島の謎

帯二山式冠・捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉ーーーを、三つとも備えている。継体の威 信財戦略にとってきわめて重要な古墳であったと言って過言ではない。 この古墳は明治三十五年に最初の発掘が行なわれ、主要な発掘品は大正元年に東京帝室 博物館へ提出された。その後、大正十一年になって京都帝国大学の梅原末治を長とする発 掘調査が行なわれ、その成果が翌年に京都帝国大学文学部考古学研究報告『近江国高島郡 みすお 水尾村の古墳』として発表された。このときの発掘は、学術的な古墳の発掘調査のなかで も早期のものに属し、報告書も充実した内容で、考古学史上の古典として高く評価されて 同書は、発掘以前のこの古墳とその周囲の状況をこのように描写している。 しゆくが。も さてこの稲荷山古墳は古くから宿鴨村落の共有地で、もとは更に広潤な兆域を有して 大 いたものと伝えられている。しかるに周囲を開墾して田圃としたため、漸次小さくな と 冠 ったが、明治時代にはなお直径十数間、高さ十七八尺の稍大なる饅頭形の封土を存し、 章 四雑木が繁茂しておって、土地での一目標をなしていたとのことである。ところが、何 時のころよりか、この封土の南方の一隅に大きな石の一部か露出して、その下に空隙 やや 12 )

3. 継体天皇と朝鮮半島の謎

さんようもんだえんけいきようよう 葉ている遺物を紹介しよう。それは三葉文楕円形杏葉とよばれる 形金銅製の馬具である。 楕 馬の腰の辺りを飾るこの馬具は、下向きの三葉文が特徴だが、 文 じゅうじもんだえんけいかがみいたっきくつわ 葉 , ハ世紀初頭から中葉に十字文楕円形鏡板付轡とセットで輸人さ れたという。日本では高島市の鴨稲荷山古墳のものが源流とな って、その後、これを模倣した作品が作られる。この種のものが、山津照神社古墳、滋賀 県栗東市の和田Ⅱ号墳、物集女車塚古墳、京都府長岡京市の井ノ内稲荷塚古墳、京都府城 陽市の冑山古墳群、高槻市の梶原古墳群、尼崎市の園田大塚山古墳、伊勢の井田川茶臼山 古墳と保子里車塚古墳でも見つかっている。これも琵琶湖から淀川流域にかけて六世紀前 半ごろに分布しており、継体の威信財として機能したのではないか、と考えられている。 明治三十五年の鴨稲荷山古墳発掘 本章では継体の威信財について論じてきたけれども、ここまで読んできた人は、あらた めて鴨稲荷山古墳の重要性に気付かれたことであろう。この古墳は、継体朝と同時代に、 継体の生まれた近江国高島郡に営まれたというだけでなく、先述した継体の威信財ーー広 かぶとやま 0 00 0 124

4. 継体天皇と朝鮮半島の謎

広帯ニ山式冠の分布 ( 5 世紀後半 ~ 6 世紀前半 ) 広帯二山式冠と両方に名がみえる古墳 は太字にした。どちらにも鴨稲荷山古墳 がみえることは注目されよう。琵琶湖か ら淀川流域に分布することも、広帯二山 式冠と共通する。高松氏は、捩じり環頭 ~ 大刀もまた継体の威信財としてその支持 世者に配布されたと考えている。 半 後 紀 最初に冠と大刀を与えた大王 世 ただ広帯一一山式冠にせよ、捩じり環頭 布 分大刀にせよ、最も初期の国産品を副葬す 刀る峯ケ塚古墳や十善の森古墳が造られた 頭のは、西暦五〇〇年前後のことで、継体 が即位する直前のことである。しかもこ 捩れらの古墳の被葬者が、生前に広帯二山 ー 12

5. 継体天皇と朝鮮半島の謎

窟古墳など六〇 5 一〇〇メートル級の前方後円墳が一帯にひしめき、継体 5 欽明朝ころ の六世紀前半に肥 ( 火 ) 君が栄えた様を再現している。 大和の豪族と阿蘇馬門ピンク石の関係 五世紀末から六世紀初頭に新しく生まれた阿蘇馬門のピンク石を使った石棺は、いすれ も葛城氏とは対立的だった大和盆地東麓の古墳に集中している。すでに知られている中央 豪族の勢力範囲からすれは、野神古墳は和邇氏、別所鑵子塚古墳・東乗鞍古墳は物部氏、 政金屋ミロク谷・兜塚古墳・慶運寺石棺は、大伴氏あるいは阿倍氏の古墳と考えられる。 大すれも以前から私が継体の支持勢力と考えている豪族たちだ。 力しかも継体の出身地である近江からも、野洲市の甲山古墳、米原市の村居田古墳のよう に阿蘇のピンク石を使「た石棺が発見されている。第三章で、私は村居田古墳の被葬者に おほほど 海 月継体の曾祖父意富富等王を当てた。その当否は措くとしても、この石材が親継体につなが 有 る勢力によって採用されたことは明らかであろう。 章 ただこのうち留意しておきたいのは、別所鑵子塚古墳では前方後円墳の後円部から馬門 第 石のピンク石、前方部からは二上山の石を使った石棺と、二つの石棺が発見されているこ いわや

6. 継体天皇と朝鮮半島の謎

文献史学者の狩野久氏は、中央の膳臣と若狭の膳臣との関係は、あくまで擬制的なもの とし、両者の関係が形成されたのも、 , ハ世紀後半以降のことと見ている。但し、先に引用 した『先代旧事本紀』「国造本紀」と『高橋氏文』によれは、膳臣が若狭とつながりを持 っていたことは明らかだ。 私はこの若狭を治め、五 5 六世紀に十善の森古墳や西塚古墳などを造営した豪族を膳臣 と呼ぶより、『先代旧事本紀』に従って若狭国造と呼んでおいたほうが現時点では適切で あろうと思う。この若狭国造が、その後おそらく六世紀半ばころに膳氏と系譜的結びつき オし力とみている。 をもち、以後膳氏と名乗るようになったのではよ、ゝ、 というのは、この , ハ世紀半はは、若狭の古墳にはひとつの転換期だからだ。この時期の 若狭を代表するのは丸山塚古墳だが、この古墳は全長五〇メートルもありながら前方後円 墳ではなく、円墳である。それまで前方後円墳を造り続けてきたこの地域に、初めて円墳 が造られた。しかもそれまでのこの地域の古墳の横穴式石室には、九州地方の強い影響が みられたが、この古墳からはそうした要素は消え、むしろ近畿中央部の強い影響がみられ るようになったといわれる。地域の独自性のようなものが次第に薄れ、逆に中央との結び つきが強まってきたと捉えられる。 ー 44

7. 継体天皇と朝鮮半島の謎

一早 近江国高島郡と継体天皇 湖西線 新旭 ニ子塚古墳・ 田中王塚古墳 下五反田遺跡 八反田遺跡〇 安曇川 三尾里 天神畑遺跡〇 鴨稲荷山古墳 馬塚古墳 〇南市東遺跡 水尾神社 拝戸古墳群 近江高島 高島郡の古代 現在の湖西線沿線には 5 世紀初 ~ 6 世紀の古代集落遺跡がある

8. 継体天皇と朝鮮半島の謎

1 大谷 十善の森凸 1 山津照神社 鴨稲荷山 円 天塚 物集女車塚 井ノ内稲荷塚、も 1 凸も 鬻髜勝福寺南塚 3 号 青松塚 / 〃 ゲンゲ谷 和田 1 1 号、 記号 種別 捩じり環頭大刀 広帯ニ山式冠き一 三葉文楕円形杏葉 ( も を 1 峯ヶ塚 辺への偏りが著しいこ と」、および「六世紀後 半に例数を著しく減少さ せること」の二点を挙げ 私が指摘したいのは、 広帯一一山式冠を出土した 古墳の近辺には多くの場 合、捩じり環頭大刀を出 土した古墳が存在し、し かもその場合、広帯二山 式冠を出土した古墳のほ 財 うが先に造られ、捩じり の環頭大刀を出上した古墳 継の造営はこれよりやや遅 0 7 2 2

9. 継体天皇と朝鮮半島の謎

吉備氏と紀氏は例外 広帯一一山式冠と捩じり環頭大刀を配布された首長が、海外に渡りそこで実績を積んで帰 きび 国した者たちだとすると、当然それに当てはまるであろう豪族がいる。紀氏と吉備氏だ。 船の部材となる木材を調達し、これを作り上げ、実際に瀬戸内海に乗り出し航海に出てい くうえで、この二氏の役割は大きいものがあった。外征氏族の代表的な存在だ。にもかか わらす、紀氏や吉備氏を葬ったとされる紀伊国と吉備国の古墳からは、広帯一一山式冠も捩 じり環頭大刀も出上していない。 これはどうしてだろうか。古墳は盗掘されることが多く、たまたま副葬品が現存しない だけなのか。その可能性もあるが、吉備と紀伊に広帯一一山式冠も捩じり環頭大刀も皆無で あるという現状は、やはり偶然とは田 5 えない。 両氏には中央に対し反抗的な態度を示した 前例があることに留意したい。 吉備氏は、雄略が崩じた直後に自らの血を受け継ぐ星川皇子の擁立をめざして、四十艘 の船を出航させようとしたが、クーデターは失敗に終わり、皇子が殺害されたと聞いて撤 退した。雄略の生前にも、謀叛を企て失敗し、討伐されたという伝承が『日本書紀』にあ る。 ほしかわ 1 ー 8

10. 継体天皇と朝鮮半島の謎

おちのあたえ ろである。東宮山古墳のある伊予国には、その西部に越智直の本拠があるが、『日本霊異 記』上第十七には、この氏の人物が百済救援のため渡海した際の伝承が収められている。 もちろんこれら威信財 ( 冠と大刀 ) を与えられた首長の中には、帰国首長でありかっ継 体支持勢力でもあった者、また渡来人だった者など複数の特徴に当てはまる者が含まれて いる可能性も考慮すべきだろう。 ここで整理すると、雄略朝段階では半島で勲功をあけ帰国した首長たちに対してのみ配 布されていた広帯一一山式冠が、継体朝になって継体の身内や側近と、秦氏を中心とする渡 来人にも与えられるようになるのである。その結果、広帯二山式冠を保有する首長は大き く増加し、一躍この冠が国内における政治的地位の象徴として評価されることになったと みられる。 では、広帯二山式冠を与えられた首長と捩じり環頭大刀を与えられた首長とには、何か 大違いがあるのだろうか 冠 高松氏は、広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の発見された古墳を比較して、「出土古墳の 章 四階層的位置に関しては、広帯一一山式冠のほうがやや高い可能性もあるが、比較的似た傾向 にあるといえるだろう」とし、広帯二山式冠のほうが捩じり環頭大刀より「畿内とその周 ー 21