まで中央の政権と政治的関係があったのかはよくわからない。 この地域に前方後円墳が初めて造られるのは、五世紀末から六世紀初頭の塚の越古墳で ある。現状では、北陸自動車道の高架の下、田園の傍らにたたすむ小さな古墳だが、本来 は全長約四〇メートル、周濠、葺石を備え、湖北地方では最も早く横穴式石室を導人した らしい。墳丘には石見型盾形埴輪と円筒埴輪をめぐらしていた。これらは、畿内から導人 された形式の埴輪である。 考古学者の森下章司氏は、この古墳の築造が「息長古墳群の変遷の中でも大きな画期」 であり、「墳丘形態、埴輪、埋葬施設、副葬品のいすれをとっても、各段に優れた内容を る をもっ古墳」と評価する。高橋克壽氏は、それまで湖北地方では長浜古墳群のほうが優位に 一立っていたが、この古墳を境に息長古墳群のほうが優勢になるという。 やまってる の , ハ世紀前半から半ば近くに作られたのが、山合いの最も奥まったところにある山津照神 皇 天社古墳である。文字通り山津照神社という神社の境内にあるが、かってこの神社は青木梵 えんぎ 継 天社という名であった。明治になって既に廃絶していた延喜式内社山津照神社に比定され、 章 三この社名に改められた。古墳は一八八二年に発掘されたが、その後一九九四年の京都大学 考古学研究室の調査により、全長四 , ハメートルの前方後円墳と推定された。石見型盾形埴 てん いわみ
かたおかいわっきのおか 顕宗陵は『古事記』が「片岡之石杯岡上に在り」、『日本書紀』が「傍丘磐杯丘陵」と 記す。仁賢陵は『古事記』に記述なく、『日本書紀』に「埴生坂本陵」とある。不可解な のは仁賢のあとに即位したとある武烈天皇の御陵も「片岡之石杯岡に在り」とあって、顕 宗陵とほば同じ名前であることである。但し『延喜式』諸陵寮条の陵墓記事には、顕宗陵 は「傍丘磐杯丘南陵」、武烈陵は「傍丘磐杯丘北陵」とあるので、両古墳は別個に存在す るようにみえる。 この二つの御陵は「大和国葛下郡」の「傍丘」、現在の奈良県香芝市から上牧町の周辺 にあたるが、考古学者の白石太一郎氏によれは、この辺りに五世紀末 5 六世紀初頭に造ら きついしろやま れた大王陵にふさわしい規模の前方後円墳はひとっしかないという。香芝市の狐井城山古 墳 ( 全長一四〇メートル ) である。白石氏はこれが顕宗天皇陵であるとし、塚ロ義信氏は 武烈天皇の墓であろうと考えている。 先に見た岡ミサンザイ古墳が真の雄略陵であるとして、これが全長二三八メートル、当 時としては傑出した威容であったのに対して、その後の天皇陵は明らかに小型化していく。 先に記したように、清寧陵が一一五メートル、 飯豊皇女の墓とみられる北花内大塚古墳が 全長九〇メートル、顕宗か武烈の墓とみられる狐井城山古墳が一四〇メートル、仁賢陵 かっげ いわっきのおかのうえ かんまき 8 2
される。 かい′」め その次に造られた首長墳が、五世紀後葉とみられる垣籠古墳である。全長六〇メートル の前方後円墳で、周濠をもつ。後円部には横穴式石室が備えられていたとみられており、 出土した埴輪からいわゆる尾張型埴輪が見つかっている。この尾張型埴輪とは、東海地域 に特徴的な円筒埴輪で、これが五世紀後半から六世紀前葉に畿内の北部に波及していく。 詳細はのちほど説明しよう。 ここまで長浜茶臼山古墳、村居田古墳、垣籠古墳と、五世紀前葉から後葉にかけて、長 浜古墳群では切れ目なく全長一〇〇メートルから六〇メートルまでの前方後円墳が続いて いたのが、以後途切れてしまう。これと人れ代わるようにして勃興するのが、その南にあ る息長古墳群だ 新興の息長古墳群 じようのう 息長古墳群は、古墳時代前期に定納 1 号墳、定納 5 号墳といった小古墳があるが、前者 は前方後方墳、後者は方墳で、前方後円墳ではない。 古墳時代中期に人っても平塚古墳と いう首長墳が現れるが、これも円墳あるいは帆立貝式古墳である。このころまでは、どこ
。時期は , ハ世紀後半。田中王塚古墳 古墳と共通する石屋式という特徴の石室をもっていた から約百年後である。田中王塚古墳の被葬者を、その死後百年経っても慕い、尊敬してい たこの地の有力者が代々営んできたのであろう。 あどがわ 田中王塚古墳は、高島平野の中でも南部にあたる安曇川より南に造られた最初の首長墳 である。これ以前この地域に全長数十メートルの古墳が築かれたことはなかった。安曇川 の北には、古墳時代前期から継続して全長三〇メートル級の前方後円墳や円墳が築かれて いるが、これと比べると、田中王塚古墳の造られた安曇川以南は、新しく開墾された土地 ということができるかもしれない。 或し ( 、ま安曇川以北に居た勢力が南にも分岐し、勢力を 伸張していったのが、以南の勢力なのかもしれない。 豪華な装飾品が出土・鴨稲荷山古墳 田中王塚古墳より東南へ約二・五キロ降りた鴨川流域に、これより約七十年ほどのちに かもいなりやま 造られた前方後円墳がある。豪華な金銅製装飾品が多く発掘されたことで有名な鴨稲荷山 古墳である。現在、高島市歴史民俗資料館のある高島市鴨から北へ二五〇メートル行った ところにあるこの古墳は、既に墳丘は失われており、二上山の白石で造られたという家形 いわや
この大刀が贈られたのではないとみているからだ。 では当時の大和政権は、なせ江田船山古墳の被葬者にこうした破格の内容の銘文をもっ 大刀を与える必要があったのだろうか。彼を懐柔することが雄略朝の政権にとってどうい うメリットがあったのだろうか ひとつは第四章で述べたように海外で勲功をあげた、いわば国際派の首長を味方に引き 付けておく必要からであった。広帯二山式冠を贈ったのはその狙いからであろう。 銘文付の大刀が贈られたのには、もうひとつ大きな理由があったとみられる。この刀が 政造られたのは、磐井の乱が勃発する四十年くらいも前である。だから、磐井より一世代く 大らいは上の人物の時代になるけれども、すでにその本拠地である筑後地方を中心に柳沢一 カ男氏が名づけられた「有明首長連合」とでもいうべき在地豪族たちの首長連合が形成され、 せきしんやま 五世紀前葉に造られた石人山古墳 ( 全長一二〇メートルの 相当な実力を蓄え始めていた いしびつやま 海 月前方後円墳 ) に始まり、五世紀中葉の石櫃山古墳 ( 全長一〇〇メートルの前方後円墳 ) 、五 - つらやま 有 世紀半ば過ぎの浦山古墳 ( 全長八〇メートルの前方後円墳 ) と、継続して大きな前方後円 六墳が八女・久留米地方に造られてきたことがそれを示している。有明海沿岸一帯の首長墳 第 を中心に広範囲に分布する石製表飾 ( 石人石馬 ) も、この首長連合の存在を証明する遺跡 17 )
大須一一子山古墳の規模は、最近全長一三八メートルあったとの説が唱えられている。時期 は , ハ世紀初頭ころ、断夫山古墳より一世代前の尾張最大の首長の墓であろう。味美一一子山 古墳は、全長九四メートルの前方後円墳で、 , ハ世紀初頭の築造。断夫山古墳のあとも、こ の周辺では大きな古墳が造られる。白鳥古墳は全長七〇メートルの前方後円墳で、年代は 六世紀前半 5 中葉とみられる。 尾張連出身の継体妃 尾張連出身の継体妃「目子郎女」について、『古事記』は七人いる后妃のうち三尾氏出 わかひめ もとのきさき 身の「若比売」に次いで二人目に挙げ、『日本書紀』は「元妃尾張連草香女、目子媛」 と記す。『記・紀』ともに仁賢天皇の娘「手白香皇女」との婚姻は即位にあたって行なわ れたと記しているが、『日本書紀』の「元妃」という表記は、それ以前においては目子媛 あんかんせんか が継体の正妻であったことを示していよう。その息子安閑と宣化が即位していることから も、その母方である尾張氏の勢力の程が知られる。 第一回の高島古代史フォーラムにおいて、私は長年にわたり全国の古墳を踏査された考 なかっかてるよ 古学者中司照世さんに、純粋に古墳だけで比較すれは、近江・越前・尾張・美濃・若狭な めのこ いらつめ しらとり めのこひめ 2
二ページ「継体天皇関係地図」参照 ) 。現代では、東海道新幹線米原駅から岐阜羽島駅へ至 るルートである。継体朝から約百七十年後の壬申の乱において大海人皇子が本陣を構えた のはここだったし、さらにその約千年後、この地で関ヶ原の戦いが行なわれた。この辺り 継体の祖父乎非王は、美濃国武儀郡の が交通の要衝であることは古今とも変わりはない。 むぎっこくそう 豪族、牟義都国造の娘を娶っている。近江国坂田郡から美濃国へ、継体の父祖たちも当殀 のようにこのルートを通って、勢力を拡張していた その美濃から南へ下れば、広大な尾張平野が広がる。ここには継体朝の時代、全国的に だんふさん も屈指の規模をもつ前方後円墳が築かれた。全長一五一メートル、東海地方最大の断夫山 を古墳である。畿内や西国では古墳の規模が次第に小さくなってくるこの時期にあって、こ 一の古墳の巨大さは、際立っている。当該期としては今城塚古墳の一九〇メートルに次ぐ列 の島第二位の大きさで、これは一三八メートルの福岡県岩戸山古墳を上回る。発掘調査はま しオしカ時期は六世紀前半、ちょうど継体朝にあたるとみられ、被葬者と 体た行なわれて、よ、・ゝ、 おおしの / 、さカ おわりのむらじ めのこひめ しては、尾張連出身の継体妃目子媛、あるいはその父の「尾張連草香」や、兄の「凡 章 三連」が考えられる。 おおすふたごやま これより少し前、六世紀初頭に造られたのが、大須二子山古墳と味美二子山古墳である。 あじよし
の特徴も、物集女車塚が秦氏の古墳であることを示唆しているようにみえる。 寝屋川の秦氏、北摂の秦氏、山背国太秦の秦氏とここまでみてきたが、いずれも継体に は親近な間柄だったことがうかがえよう。秦氏については、前著『謎の渡来人秦氏』で 詳述したが、彼らと継体との関係については述べるだけの用意がなかった。しかしこれら からすると、あるいは各地の秦氏が連携して継体を支援していた可能性もあるのかもしれ ない。だとすれば、なせ秦氏は継体を支援したのか、という謎が浮上してくるだろう。 宇治ニ子塚古墳と秦氏 山背地方にはもうひとっ継体とかかわりの深い人物の墓ではないかといわれる古墳があ ごかしようふたごづか 来る。宇治 ( 五ケ庄 ) 二子塚古墳である。全長一一二メートルの前方後円墳で、二段築成で と二重の周濠をもっ堂々たる古墳だ。六世紀初頭 ( 西暦五〇〇年ころ ) の築造といわれる。 体墳型は今城塚古墳と同型で、その三分の二の大きさに当たる。尾張型埴輪が発掘されてお 継 り、この時期では山背最大の古墳である。 章 五五世紀後半ころから全国的に古墳が小型化していく傾向は山背国も例外でないが、その ようななかで一〇〇メートルを越えるこの古墳の威容には、目を見開かせられる。そこで 9
( 「埴生坂本陵」 ) とみられるポケ山古墳が一二二メートルと、雄略陵の半分くらいの全長 になってしまう。各地の首長たちの古墳だけでなく、大王たちの墓まで小さくなっていっ たのだ。この辺りにも雄略没後の大王たちの衰勢がうかがえるように私は思う。これと比 べると、今城塚古墳の全長一九〇メートルという規模は、王権の復活が象徴されているよ うだ。そしてこの古墳が、先にも述べたようにそれまで大王陵が営まれた大和川流域を離 ほくせつ れ、北摂の淀川流域に築かれたことも、継体朝の新しさを表わしているようにみえる。 『日本書紀』の所伝 雄略が樹立した専制王権は、彼の死後永くは続かなかった。清寧・飯豊・顕宗・仁賢・ ま武烈と小刻みに大王が交代していくなかで王権は衰退し、六世紀初頭に武烈天皇の死を以 のって、それまでの仁徳天皇に始まる王統 ( 仁徳系王統 ) は終焉を迎える。 『日本書紀』継体天皇即位前紀に、継体天皇の出自とその生まれた経緯が記されている。 新 ひこ・つし ひこふとのみことほむた おおど 章 (<) 男大迹天皇〔更の名は彦太尊。〔誉田天皇の五世孫、彦主人王の子なり。母を 第 ふるひめ 振媛と日ふ。振媛は、活目天皇の七世の孫なり。 いくめ
が兄の意祁王 ( のちの仁賢天皇 ) はいくら父の仇でも天下を治めた天皇の御陵を破壊すれ ば後の世の誹りを受けることになるでしよう、と言って弟 ( 顕宗天皇 ) を諫めたという。 こうした伝承からすると、この時期は雄略の専制政治に対する反発から、一時時計が逆回 りした反動的な傾向の時代だったようにみえる。確かにこの兄弟の母は、かって雄略が対 はえひめ 決した葛城氏の出身の萸媛である。また『記・紀』は清寧から顕宗・仁賢へ至る過程で、 いとよ 飯豊皇女という事実上独身の巫女王が一時期王位を中継ぎした時期のあったことを記して はにくちの おしぬみのたかきつのさしのみや いる。彼女の母もまた葛城氏で、その宮は「葛城忍海高木角刺宮」、御陵は「葛城埴ロ 丘陵」という。雄略の死後、飯豊皇女、顕宗・仁賢と葛城系の大王が復活していたような のである。 これら継体出現前夜の大王たちの御陵について触れておこう。雄略のあとに即位した清 しらがやま の寧天皇の御陵は現清寧天皇陵の白髪山古墳 ( 全長一一五メートル ) が六世紀初頭の造営と みられており、宮内庁の治定通りで正しいのだろう。飯豊皇女陵は、現在の奈良県葛城市 きたはなうちおおっか 北花内大塚古墳 ( 全長九〇メートル ) とみられる。この古墳も陵墓であるため本格的な発 章 一掘調査が許されていないが、五世紀末から六世紀初頭の造営と推定されており、時期的に も彼女の墓にふさわしい おか