後、母と共にその生家のある「越前三国」「高向」に移り、そこで即位直前の五十七歳ま で過ごしたように圭日かれている。 きゅ・つし 『古事記』の所伝は、「帝紀」・「旧辞」という朝廷に伝わる古い天皇家の系譜・伝承に基 づいて書かれたものと推定されるのに対して、『日本書紀』とそのもとになった「上宮記 一云」の記述は、継体の母布利比売の母方である余奴臣 ( 江沼臣 ) の関与した伝承に基づ いたものであり、この氏の出身地である越前寄りの内容になっている可能性がある。余奴 臣 ( 江沼臣 ) は、現在の石川県加賀市に本拠を持っ豪族だからである。 皇余奴臣は「上宮記一云」中に名前の見える二つの豪族の内のひとつであり、この史料の 体作成にこの氏族が関わっている可能性は極めて高い。そのため、夫を亡くした彼女が故郷 との越前高向へ帰り、そこで継体は養育されたというのも、疑わしいと私は考える。むしろ 島『古事記』の「袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて」という記述を重視すべきであり、 高 国近江とのつながりのほうが強かったとみられる。何より継体の母布利比売自身、母方は余 奴臣 ( 江沼臣 ) であっても、父方は近江国高島郡の豪族、三尾氏なのであるから。 章 三尾氏の祖先伝承は、『古事記』垂仁天皇段と、『日本書紀』垂仁三十四年条とに記され いわっくわけ ている。『古事記』では、垂仁天皇の皇子の石衝別王が「羽咋君・三尾君之祖」であると すいにん えぬま
(c) 甲申、天皇、樟葉宮に行至りたまふ。 ( 甲申〈二十四日〉、天皇は、樟葉宮に到着された ) こののち、継体天皇は自分はその任にないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村 大連の度重なる説得を受けて即位を了承し、一一月四日に樟葉宮において即位したという記 事が続く。大伴金村・許勢男人・物部麁鹿火の三人の大臣・大連は留任し、新しい大王の もとでの体制が発足した。 以上が『日本書紀』の伝える継体天皇の即位までの経緯である。即位の決心がっかず逡 巡していた継体天皇に河内馬飼首荒籠が密使を送って説得したとの興味深い伝承もあるが、 これについては第五章で詳しく考えることとしたい。 継体の母の出身地 『古事記』の所伝では、継体天皇は「袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて」とあるよ うに近江の出身と明記している。一方『日本書紀』と、そのもとになった「上宮記一云」 では、父彦主人王のいた「近江国高島郡三尾之別業」、「弥乎国高嶋宮」で生まれ、父の死
「上宮記一云」の所伝 『釈日本紀』は、鎌倉時代末にト部兼方によって書かれた『日本書紀』の注釈書であるが、 このなかに現在散逸して残っていない古い書物の断片がいくつも引用されている。『上宮 記』の逸文もそのひとつで、そこには『記・紀』には記されていない継体の詳しい出自系 譜が引用されている。 ( 男大迹天皇〔更の名は彦太尊。〕は、誉田天皇 ( 応神天皇 ) の五世孫、彦主人王の子で すいにん ある。母は振媛と云う。振媛は、活目天皇 ( 垂仁天皇 ) の七世の孫である ) 『古事記』が継体天皇の出自について「応神五世孫」としか記さないのと比べると、『日 本書紀』は、父と母の名や、父方が応神天皇の五世孫、母方は垂仁天皇の後裔であること を記している。しかし、応神のあと継体天皇の父彦主人王に至る三代の祖先の名は記され 母方も垂仁のあと継体天皇の母に至るまでの歴代の名は記されていない。 じよ・つぐ・つきいちにい・つ その不十分を埋めてくれるのが『釈日本紀』に引用される「上宮記一云」の所伝である。 うらべかねかた しやくにほんぎ 0
・つか・りべな を持ち抱きて、親族部无き国に在り。唯、我独り養育し奉ること難し。ここに将ひて おやみくにのみこと 下り去りて、祖三国命の在す多加牟久村に坐す也。 ( 汗斯王が弥乎国高島宮〈近江国高島郡〉におられた時、この布利比売命が大変美女であ ると聞いて使者を遣し、三国坂井県〈越前国坂井郡〉より呼び寄せ、娶って生まれたのが、 伊波礼の宮に天下をお治めになった乎富等大公王〈継体天皇〉である。父の汗斯王が亡く なって後、王の母布利比売命は「私独り王子を抱いて、親族のいない国にいる。私独りで は王子を養育するのは難しい。」と言った。そこで王子と共に下り去り、祖先三国命のお られる多加牟久村〈越前国坂井郡高向〉に住まわれた ) 一読して分かるように内容は『日本書紀』とほば同じだ。但し文章は「上宮記一云」の ほうが素朴で、使われている字や文体も『日本書紀』以前のものばかりである。かって黛 弘道氏が藤原宮跡木簡 ( 持統朝 5 文武朝頃 ) に用いられている字と比較検討し、「上宮記一 云」のほうが藤原宮跡木簡より古い史料であることを論証された。少なくともこの史料は、 推古朝ころからおそくとも天武朝ころまでに筆録されたものであると推定できる。 このことからして、おそらく『日本書紀』の記事は「上宮記一云」の記事を見て書かれ たかむく ひき 0
記され、『日本書紀』では同じ垂仁天皇の皇子の磐衝別命が「三尾君之始祖也」であると 記されている。この磐衝別命 ( 石衝別王 ) が、「上宮記一云」にみえる垂仁天皇の皇子 わっくわき 「伊波都久和希」と同一人物であることは言うまでもない。 『日本書紀』には他にも景行天 いわきわけ 皇条に「三尾氏磐城別」という名前が見えるが、これも「上宮記一云」にみえる「伊波智 和希」と同一人物であろう。この一致からすれは、「上宮記一云」の継体の母方の系譜が 三尾氏の系譜であることは明らかだ。つまり継体天皇の母布利比売は、高島郡の三尾氏の 出身なのである。 近年、継体の母方は三尾氏ではなく三国氏であるという説 ( 大橋信弥氏 ) や、三尾氏は この時点では越前三国を本拠地としており、このあとに近江高島郡へ移住してくるのだ、 といった説 ( 加藤謙吉氏 ) が唱えられている。いすれも拠り所としているのは、布利比売 の「我独り、王子を持ち抱きて、親族部无き国に在り」、近江国高島郡は自分には馴染み のない 土地だ、という一「ロ葉である。しかしこの一一一一口葉は余奴臣が作成に関与したために造作 された可能性が高く、これにとらわれるのは適当ではない。 布利比売は近江国高島郡三尾を本拠地とする三尾氏を父に持っ女性であり、越前は彼女 の母「余奴臣の祖、名阿那爾比弥」の出身地である。もちろんここへ赴いたことは何度も いわっくわけ 0
たものであって、オリジナルは「上宮記一云」にあると考えられるのである。但し「上宮 記一云」に記載があるのは ( ) の継体の母が越前一二国へ帰るまでで、そこからは所伝は 途切れてしまう。以下は、『日本書紀』の記事に戻ろう。 みこころかっしょ (o) 天皇、壮大にして士を愛み、賢を礼ひたまひ、意豁如にまします。天皇年五十 七歳にして、八年冬十一一月己亥、小泊瀬天皇崩ります。元より男女無く、継嗣絶ゅべ し。 ( 天皇は成人されて、勇者を愛し賢者を敬い、御心は寛容であられた。天皇が五十七歳の 時、武烈天皇八年冬十一一月己亥〈八日〉に、武烈天皇が崩御された。もともと男子も女子 もなく、継嗣は絶えるところであった ) 母子が越前へ帰るところまでは丁寧に語られていたのが、次の文ではいきなり「壮大」 になり、さらには五十七歳になってしまう。一気に五十年余りの時間が飛んでしまうのだ。 二しかも、この間を総括する「天皇、壮大にして士を愛み、賢を礼ひたまひ、意豁如にまし ますーという一文は、実は『漢書』の漢の高祖劉邦について記した「高祖、寛仁にして人 おとこざかり おはっせの うやま 1
この埴輪片は、「本来墳丘に立っていたものが自然的に転落してきた」「三 5 五センチ」 のものであるが、埴輪の編年の分類でいうところのⅣ式、実年代では「五世紀の後半」こ ろと推定されている。これまで一部に五世紀前半ころの築造とする見方もあっただけに、 この報告の成果は大きい では彦主人王はいつごろ亡くなったのであろうか。息子の継体天皇は『日本書紀』によ ると、五三一年あるいは五三四年に八十二歳で崩じたとある。つまり四五〇年から四五三 年ころに生まれたことになる。ただ八十二歳で亡くなったというのは当時にしてはやや長 生きしすぎかもしれす、もう少し若くして七十歳代で崩じたと仮定するならば、生まれた 年は四六〇年前後にまで下りてくる。これらからすると、継体はおおよそ四五〇年ころか ら四六〇年前後までの間に生まれたとみてよいであろう。 その継体が「幼年にして、父王薨ず」 ( 『日本書紀』 ) 、「上宮記一云」の表現では、母が 「王子を持ち抱きて」いるような乳児のころに、彦主人王は亡くなった。「高島郡三尾之別 業」 ( 『日本書紀』 ) 、「弥乎国高嶋宮」 ( 「上宮記一云」 ) で亡くなったのだから、当然その墓 はこの高島の地に造られたとみるべきであろう。近江国高島郡において、田中王塚古墳以 外に五世紀後半ころに造営された、これだけの規模の首長墳は他に存在しない。 年代から
「上宮記一云」の出生譚 体この内容は、『釈日本紀』に引用される「上宮記一云」の後半部と極似している。先に と継体の出自系譜を記したこの史料の前半部を引用したが、次に彼の出生が語られる後半を 島引用しよう。 つか ふりひめ 汗斯王、弥乎国高嶋宮に坐ましし時、この布利比売命甚だ美女なるを聞きて、人を遣 章 はし、三国坂井県より召し上げ、娶りて生まれる所、伊波礼の宮に天下を治めしし乎 ほどのおおきみ かんさ 富等大公王なり。父汗斯王崩去りて後、王の母布利比売命言ひて日く「我独り、王子 帰郷して、そこで天皇をお育てしよう。」とおっしやった ) ひこ・つし 近江国高島郡三尾の別業 ( 別宅 ) に居た彦主人王が、美人の噂高い振媛を越前三国まで 使いを遣し、召しいれて妃とした。かくしてのちの継体天皇が生まれたが、彼が幼年のう ちに父は亡くなってしまう。婚家にひとり残された振媛はここでは心細いと言って、生家 のある越前三国の高向に帰ってそこで幼い王子を育てようと決意するのであった。 われ
はじめに 8 第一章新たな謎の始まり 今城塚古墳の埴輪群新池埴輪工房と継体の石棺 大王の棺、熊本から大阪へ『古事記』の所伝 雄略天皇とその時代ポスト雄略 『日本書紀』の所伝「上宮記一云」の所伝 なぜ仁徳系王統は滅んだか地方に土着する傍系王族 継体の支持基盤韓国・栄山江流域の前方後円墳 半島で活動する倭人たち 九州有明海勢力は敵か味方か ? 転換期としての雄略 5 継体・欽明朝 継体天皇と朝鮮半島の謎目次
『古事記』の所伝 『古事記』武烈天皇段は、継体天皇の出自と即位事情について以下のように伝えている。 かれほむだ ひつぎ かんあが 天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太天皇 ( 応神 ) の五世の孫、 めあ たしらか ちかつおうみ をほど 袁本杼命 ( 継体 ) を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天下を授け奉 りき ( 武烈天皇が崩御されて皇位を継ぐべき皇子がいなくなってしまった。そこで応神天皇五 世孫にあたる継体天皇を近江国より上京させて、手白髪命に娶わせて天下をお授けした ) 子どものなかった武烈天皇が崩御し、王位を継ぐべき王 ( 大王を父に持っ男王の意 ) が いなくなったのを受けて、応神五世孫の継体を近江から上京させ、仁賢天皇の皇女手白髪 命と結婚させ、王位を授けたというのである。短い文章ではあるけれども、継体が近江出 身であること、前の王統の皇女手白髪命との結婚をいわば条件として即位を認められた、 人り婿的な王位継承であったことなどが読みとれよう。 継体天皇の死と御陵について、『古事記』は以下のように記している。