第四章冠と大刀 は、三尾氏と深い関わりを持ちながらも三尾氏そのものではなく、中央でもかなり高い地 位にあった人物ではなかったか。 わかひめ 私は、たとえは三尾氏出身の若比売を母に持っ継体の長子大郎子皇子を考えてみたい。 母が三尾氏の女性であれば、その実家のある高島に埋葬される可能性は極めて高いであろ う。一部に鴨稲荷山古墳の年代は今城塚古墳よりやや新しいという見解があるが、このこ とも継体より一世代若い大郎子の墓である可能性を示唆しよう。子どもと言っても大郎子 皇子は継体の長男とみられるから、年齢差は二十数年くらいしか違わないはすだ。 また辻川哲朗氏によれば、この古墳から出土した埴輪は尾張型でも大和南部・紀伊型で もなく、当時の畿内で作られていた一般的な埴輪だという。そこから氏は、今城塚古墳と 同じ新池埴輪窯で焼かれた可能性に言及しているが、もしその通りであれば、この古墳が 継体の皇子の墓である可能性は更に高まるだろう。 おおいらっこ 133
がある。豪族まで枠を広げれば、最初の遣隋使小野妹子、最初の遣唐使犬上御田鍬など、 近江の豪族が渡海した記事は数多い おおわけ 王族の海外派遣ということでいえは、敏達天皇六年に大別王という王族 ( 出自は不明 ) が使者として百済に派遣されたという記事もある。 大和政権の命で外征に赴いたのか、使者として赴いたのか、あるいは自らの意志で渡海 したのかは定かでないけれども、鴨稲荷山古墳の被葬者と即位前の継体が五世紀後半ころ、 共に半島へ渡り、特に百済と交わりを結んで帰国した可能性を私は思う。 先に鈴木靖民氏が「五世紀後半、倭王の指揮・命令の下 この推測は私が最初ではない。 に百済や伽耶での軍事に従った倭人は少なくな」いとし、「磐井や即位前の継体も外征に か参加した可能性がある」と述べている。ただ、鴨稲荷山古墳に武具はあっても甲冑はない ことからすると、彼には武人的性格は薄い。これは継体にもあてはまるのではないか 皇「外征」の可能性は少ないように思う。 章継体と武寧王の厚誼 すたはちまん 前章の冒頭に、和歌山県隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡を、五〇三年に武寧王が即位前 みたすき 239
ある可能性は高い。また田中王塚古墳が継体の父彦主人王の墓であるならば、同時にここ が彼の「高嶋宮」、「三尾之別業」である可能性も高まるであろう。つまり、三尾氏の本拠 地と彦主人王の高嶋宮は重なり合っていたのであり、別の言い方をすれば彦主人王は三尾 氏の庇護のもと、その本拠に寄寓していた可能性が浮かびあがる。 渡来人との住み分け 注目したいのは、これらの集落遺跡に渡来人が居住していた痕跡があることである。こ れまで考古学において、渡来人の存在を示す遺物・遺跡として指摘されてきたのは、韓式 かまどおおかべ 系土器、須恵器、竈、大壁住居、オンドルといった要素であった。集落遺跡の中にこうし たものが見つかった場合、そこに渡来人が生活していた証左としてきたのである。 このうち韓式系土器は、四世紀末 5 五世紀末の河内・大和に最も多く、硬質土器と軟質 土器とに大別される。須恵器は、四世紀末から五世紀初めに渡来人が日本列島にもたらし すえむら た土器で、堺市南部の陶邑に生産の一大センターがあった。竈は竪穴住居内に備え、そこ で煮炊きするものである。近年、注目されているのが大壁住居で、これは建物の周囲に溝 を掘り、その中に多数の柱を立て並べて壁面を補強する住居のことである。朝鮮半島に特
と同様の事情をみる。 先に見たように、「氏」と「トモ」とは不可分の関係にあった。その両者がいずれも六 世紀の前半ころに百済の制度を取り人れ、「氏の名」が成立し、トモが「部」と呼ばれる ようになった。文献史料に明一小されているわけではないけれども、これらは継体朝に来日 した五経博士の献策によるものではないかと私は推測する。 和風諡号と殯宮儀礼の成立 この時期に百済の制度や文化を取り人れて始まったことは他にもある。亡くなった天皇 わふ・つしご - っ 皇に捧げる贈り名、すなわち和風諡号である。和風謚号の成立については、和田萃氏による 体的確な研究がある。氏は、和風諡号の献呈は殯宮儀礼の一環として行われたことを明らか にし、初めて和風諡号を献呈されたのは、安閑・宣化朝ころの可能性が高いとみている。 文 歴代天皇の名前について、逐一『記・紀』が区別しているわけではないが、実際には生前 済 百 の名前と、没後に命名された贈り名 ( 諡号 ) とがある。たとえば、 章 あめくにおしはらきひろにわ 第 ひろくにおしたけかなひ たけおひろくにおしたて 広国押武金日天皇 ( 安閑天皇 ) ・武小広国押盾天皇 ( 宣化天皇 ) ・天国排開広庭天皇 2 21
( 欽明天皇 ) これらの名前は、美称に満ちたもので、死後に贈られた贈り名 ( 和風諡号 ) である可能 性が高い。しかしその直前の おはっせのわかさざぎ おおと 億計天皇 ( 仁賢天皇 ) ・小泊瀬稚鷦鷯天皇 ( 武烈天皇 ) ・男大迹天皇 ( 継体天皇 ) といった名前は、シンプルで彼らの生前の実名とみて差し支えよ、。日 オし不田氏はこうした 根拠から、継体天皇の次の安閑天皇、宣化天皇のあたりで和風諡号の献呈が始まったこと を推定した。同氏によると、諡号は中国では後漢の末 ( 二世紀後半 ) に用いられるように なり、朝鮮では百済が早く、次いで新羅でも始まった。 新羅の史書『三国史記』によると、百済では五〇一年に没した牟大王に東城王、五二三 年に没した斯麻王に武寧王という諡号が献上されている。また新羅では、五一四年に没し ちしようまりつかん た智証麻立干に智証という諡号が献呈されている。倭国で諡号が付けられるようになった のは、おそらくこれらの影響からであろう。これも五経博士の献策に依る可能性が高いと むだい 222
琵琶湖の対岸に ひこ・つし お 継体天皇の父彦主人王は、近江国高島郡に居住した。ではその父の乎非王やその父の意 ほほど わかぬけふたまた 富富等王、そのまた父の若野毛二俣王らはどこに住んでいたのだろう。高島郡の南部に田 中王塚古墳より古い首長墳が見当たらないことからすると、彦主人王以前に彼らの一族は 高島にはいなかった可能性が高い。ではここに来る前、彼らはどこに住んでいたのだろう そこで候補に上がるのが高島郡のちょうど対岸にあたる坂田郡 ( 現在の長浜市・米原市 ) おき である。そこには、彦主人王と同じ傍系王族の男子がいた娘を継体の后妃としている息 ながまて おおまた 長真手王と坂田大俣王とである。二人の名前にある息長と坂田は、いすれも坂田郡の地名 であるから、そこに居住していたことは間違いない。二人共『記・紀』にその出自が記さ れていないが、おそらく継体と同じような傍系の王族なのだろう。高島郡のちょうど対岸 に位置する坂田郡に住み、姻戚関係もあることからすると、継体の一族と彼らは同じ父系 親族に属する可能性が高い。 おひ
このころの大王家はまだ一個の親族集団として確立しきっていなかったわけである。 当時の大王家が自立した親族集団に成長しえていなかった現われとして、もうひとっ指 摘できるのが、傍系王族たちのありようである。五世紀代の王族のなかでも三世王や四世 王になると、大王との血縁も薄くなり、その政治的立場が弱まっていったことは想像に難 祖父が大王であったという二世王 ( 孫王 ) ならまだしも、曾祖父が大王だったと いう三世王、さらにその子の世代の四世王になると、おそらく随分な数に上ったであろう し、もはやそれほど貴重な存在ではなかったであろう。大王になれる可能性も少なくなっ ていったに違いよ、。 後世であれば、臣籍降下という制度があり、こうした王族は源姓や平姓を賜り、一般の 貴族として生まれ変わることになる。このような制度が始まるのはおそらく七世紀の前半、 こ・つぎよく じよめい 舒明から皇極朝ころとみられる。それは丹比公、猪名公、当麻公など、確実に天皇の後裔 と認められる氏族が、この時期までに皇族としての立場から公姓の豪族としての立場に転 じている事実が確認できるからである。しかしそれ以前においては、どれほど遠い傍系で、 王位に就く可能性はほとんどなくとも、なおも「 5 王」と名乗っていた 。王族と非王族の 境が分明でなかったのである。
なったのか、と、う司、 し卩しに対するひとつの回答にもなるだろう。前著に詳述したところだ が、ム「、もこ , っした老ノえに亦夂化はよい。こ。こ、 地方に土着した傍系王族継体がどのようなプ ロセスで台頭し、大王位を得たのか、まだまだ謎は多い。同じような立場の王族は他の各 地にもいた可能性はあろう。なせ彼らではなく、継体が大王になれたのか。どこに彼の利 点があったのだろうか。 継体の支持基盤 今から四十年前、継体天皇Ⅱ息長氏説を唱えられた岡田精司氏は、「継体天皇の出自と その背景 5 近江大王家の成立をめぐって 5 」という論文のなかで、 継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。その出自は『古事記』の所伝どおり近江に あり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力を握った。近江の豪 族たちは、その恵まれた地理的条件によって早くから水陸の国内商業活動に従事し、 さらには日本海航路による朝鮮貿易も行なったらしい。その豊かな経済力および交易 による広域の地方豪族との連携が、継体の簒奪を可能にした。継体自身も商業活動の
これらの史料を勘案すると、氏の名前というものは雄略朝にはまだ存在せす、継体朝か ら欽明朝ころに成立した可能性が高いことが察せられよう。 日本でも五世紀には、倭の五王は「倭」という姓を名乗っていた。しかしこれはあくま で中国向けの外交上のものにすぎない。かって平野邦雄氏は、「わが氏姓の成立」は、五 世紀後半ころ「百済から輸人されたとするのが適当ではあるまいか」とし、「なせなら百 済において貴人姓が一般化するのはその時期と思われるからである」と述べた。阿部武彦 氏も、「継体欽明朝ころわが国の人の名を記すにあたって、百済からの影響が相当あった のではないか」と述べている。たしかに新羅では姓の発生は遅く、王室においては , ハ世紀 皇半は、貴族では七世紀半ばとされるが、百済では貴族層でも五世紀後半ころには成立して 体いたと推定されている。 倭の姓が百済から「輸人」されたことを示すもうひとつの証左として、「物部」「大伴」 今もそうだが中国では古代か 文「蘇我」「中臣」などと二字姓が多いことを挙けておきたい。 百 ら「劉」や「李」、「王」、「毛」といったように一字姓が一般的だ。これに対して古代の百 そみ 章 七済では「木刕ー「姐弥」「再曾」「古尓」といった二字姓 ( 複姓 ) が多い。このことを指摘 した坂元義種氏は、「日本の二字姓・一一字表記は、百済の影響を受けた可能性がある」と さいそ 2 ー 7
おちのあたえ ろである。東宮山古墳のある伊予国には、その西部に越智直の本拠があるが、『日本霊異 記』上第十七には、この氏の人物が百済救援のため渡海した際の伝承が収められている。 もちろんこれら威信財 ( 冠と大刀 ) を与えられた首長の中には、帰国首長でありかっ継 体支持勢力でもあった者、また渡来人だった者など複数の特徴に当てはまる者が含まれて いる可能性も考慮すべきだろう。 ここで整理すると、雄略朝段階では半島で勲功をあけ帰国した首長たちに対してのみ配 布されていた広帯一一山式冠が、継体朝になって継体の身内や側近と、秦氏を中心とする渡 来人にも与えられるようになるのである。その結果、広帯二山式冠を保有する首長は大き く増加し、一躍この冠が国内における政治的地位の象徴として評価されることになったと みられる。 では、広帯二山式冠を与えられた首長と捩じり環頭大刀を与えられた首長とには、何か 大違いがあるのだろうか 冠 高松氏は、広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の発見された古墳を比較して、「出土古墳の 章 四階層的位置に関しては、広帯一一山式冠のほうがやや高い可能性もあるが、比較的似た傾向 にあるといえるだろう」とし、広帯二山式冠のほうが捩じり環頭大刀より「畿内とその周 ー 21