をうかがわせる。 ただこれも、父の彦主人王がすでにこの氏の布利比売と結婚していることからすると、 意外ではない。彦主人王、継体天皇の父子は、続けて三尾氏一族から妻を娶った。この婚 姻関係は、彦主人王が三尾氏の本拠地である近江国高島郡三尾に「別業」「高嶋宮」を営 んだことに始まるだろう。彦主人王と三尾氏とのつながりはきわめて太いものがあった。 近江国高島郡の田中王塚古墳 皇その彦主人王の墓とされる古墳が滋賀県高島市にある。現在陵墓参考地とされている田 一人 - なかおうづか 帆立貝式 体中王塚古墳である。この古墳は全長約七二メートルで、見たところ前方部が短い ど古墳のようにみえるが、本当は円墳かもしれない。明治になって陵墓に指定されるにあた 島り、それにふさわしい立派な古墳にするため前方部は修築された可能性があるからだ。残 高 江念ながら発掘調査が出来ないため、造られた年代についてもこれまで決め手になる資料が 近 なく、判断が難しかった。しかし、二〇〇八年の高島古代史フォーラムにおいて、高島市 章 一一教育委員会の宮崎雅充氏から新しい報告がされた。近年この古墳の周囲から採取された埴 第 輪片をもとに、推定された造営年代を報告されたのである。
琵琶湖の対岸に ひこ・つし お 継体天皇の父彦主人王は、近江国高島郡に居住した。ではその父の乎非王やその父の意 ほほど わかぬけふたまた 富富等王、そのまた父の若野毛二俣王らはどこに住んでいたのだろう。高島郡の南部に田 中王塚古墳より古い首長墳が見当たらないことからすると、彦主人王以前に彼らの一族は 高島にはいなかった可能性が高い。ではここに来る前、彼らはどこに住んでいたのだろう そこで候補に上がるのが高島郡のちょうど対岸にあたる坂田郡 ( 現在の長浜市・米原市 ) おき である。そこには、彦主人王と同じ傍系王族の男子がいた娘を継体の后妃としている息 ながまて おおまた 長真手王と坂田大俣王とである。二人の名前にある息長と坂田は、いすれも坂田郡の地名 であるから、そこに居住していたことは間違いない。二人共『記・紀』にその出自が記さ れていないが、おそらく継体と同じような傍系の王族なのだろう。高島郡のちょうど対岸 に位置する坂田郡に住み、姻戚関係もあることからすると、継体の一族と彼らは同じ父系 親族に属する可能性が高い。 おひ
ある可能性は高い。また田中王塚古墳が継体の父彦主人王の墓であるならば、同時にここ が彼の「高嶋宮」、「三尾之別業」である可能性も高まるであろう。つまり、三尾氏の本拠 地と彦主人王の高嶋宮は重なり合っていたのであり、別の言い方をすれば彦主人王は三尾 氏の庇護のもと、その本拠に寄寓していた可能性が浮かびあがる。 渡来人との住み分け 注目したいのは、これらの集落遺跡に渡来人が居住していた痕跡があることである。こ れまで考古学において、渡来人の存在を示す遺物・遺跡として指摘されてきたのは、韓式 かまどおおかべ 系土器、須恵器、竈、大壁住居、オンドルといった要素であった。集落遺跡の中にこうし たものが見つかった場合、そこに渡来人が生活していた証左としてきたのである。 このうち韓式系土器は、四世紀末 5 五世紀末の河内・大和に最も多く、硬質土器と軟質 土器とに大別される。須恵器は、四世紀末から五世紀初めに渡来人が日本列島にもたらし すえむら た土器で、堺市南部の陶邑に生産の一大センターがあった。竈は竪穴住居内に備え、そこ で煮炊きするものである。近年、注目されているのが大壁住居で、これは建物の周囲に溝 を掘り、その中に多数の柱を立て並べて壁面を補強する住居のことである。朝鮮半島に特
もその規模からしても、明治以来の指定であるこの田中王塚古墳の彦主人王陵墓は正しか ったのでまよ、ゝ ( オし力と田 5 えるのだ。 なせ前方後円墳でないのか ? この古墳は、先に記したように帆立貝式古墳かあるいは円墳であって、全長七二メート ルもあるにもかかわらす、前方後円墳ではない。 二〇〇八年の高島古代史フォーラムで、 私はなぜ田中王塚古墳が前方後円墳でないのかについて、大阪大学の福永伸哉教授と花園 かつひさ 皇大学の高橋克壽教授に見解を問うてみた。 体福永氏は、五世紀後半、雄略朝ころに全国的に前方後円墳が減少して帆立貝式古墳が増 と加する傾向を指摘し、これは雄略が地方の勢力への締め付けを強化した結果であろうとさ 島れた。各地の首長が前方後円墳を造営することに、王権が規制を強化したというのである。 高 国 田中王塚古墳が前方後円墳でないのも、その被葬者が「湖北地方の有力な豪族であるけれ 江 近 ども、雄略の王権からはかなり抑圧されていたのではよ、ゝ オし力」と考える。これが , ハ世紀、 章 二継体朝ころになると、再び前方後円墳が増加するのだが、これについては、「雄略大王の もとで抑圧されてきた地方豪族の不満を結集する形で継体大王が政治的主導権を握った」
これによれは、若野毛二俣王を初代として近江国坂田郡に土着した王家は、その孫の段 階で坂田郡に残った坂田大俣王と息長に移った乎非王とに分岐し、さらに乎非王の子の彦 主人王が琵琶湖対岸の高島郡に移住したことになる。この彦主人王の子が継体で、この三 カ所に分立した王家は、坂田大俣王と息長真手王の娘が継体に嫁いでいることからもわか るように、互いに友好な関係を維持していたようである。坂田から息長、さらに高島への 移住は、拡大していくこの王家の膨張の現れであり、彼らが経済的な力を蓄えてきていた ことを示すのであろう。 おそらく坂田郡には古くから原・息長氏のような土着の豪族がいて、そこへ若野毛二俣 王が婿人りする形で人り、両者は一体化したのではないか。その子孫が息長氏なのであろ クイマタナガヒコ う。若野毛二俣王に娘を納れ、意富富等王の外祖父となった「咋俣長日子王」は、その 原・息長氏を象徴する人物なのであろう。 交通の要衝地 この近江国坂田郡から東行して山脈の中へ分け人ると、不破郡を経て美濃国に至る ( 一
この埴輪片は、「本来墳丘に立っていたものが自然的に転落してきた」「三 5 五センチ」 のものであるが、埴輪の編年の分類でいうところのⅣ式、実年代では「五世紀の後半」こ ろと推定されている。これまで一部に五世紀前半ころの築造とする見方もあっただけに、 この報告の成果は大きい では彦主人王はいつごろ亡くなったのであろうか。息子の継体天皇は『日本書紀』によ ると、五三一年あるいは五三四年に八十二歳で崩じたとある。つまり四五〇年から四五三 年ころに生まれたことになる。ただ八十二歳で亡くなったというのは当時にしてはやや長 生きしすぎかもしれす、もう少し若くして七十歳代で崩じたと仮定するならば、生まれた 年は四六〇年前後にまで下りてくる。これらからすると、継体はおおよそ四五〇年ころか ら四六〇年前後までの間に生まれたとみてよいであろう。 その継体が「幼年にして、父王薨ず」 ( 『日本書紀』 ) 、「上宮記一云」の表現では、母が 「王子を持ち抱きて」いるような乳児のころに、彦主人王は亡くなった。「高島郡三尾之別 業」 ( 『日本書紀』 ) 、「弥乎国高嶋宮」 ( 「上宮記一云」 ) で亡くなったのだから、当然その墓 はこの高島の地に造られたとみるべきであろう。近江国高島郡において、田中王塚古墳以 外に五世紀後半ころに造営された、これだけの規模の首長墳は他に存在しない。 年代から
「上宮記一云」の所伝 『釈日本紀』は、鎌倉時代末にト部兼方によって書かれた『日本書紀』の注釈書であるが、 このなかに現在散逸して残っていない古い書物の断片がいくつも引用されている。『上宮 記』の逸文もそのひとつで、そこには『記・紀』には記されていない継体の詳しい出自系 譜が引用されている。 ( 男大迹天皇〔更の名は彦太尊。〕は、誉田天皇 ( 応神天皇 ) の五世孫、彦主人王の子で すいにん ある。母は振媛と云う。振媛は、活目天皇 ( 垂仁天皇 ) の七世の孫である ) 『古事記』が継体天皇の出自について「応神五世孫」としか記さないのと比べると、『日 本書紀』は、父と母の名や、父方が応神天皇の五世孫、母方は垂仁天皇の後裔であること を記している。しかし、応神のあと継体天皇の父彦主人王に至る三代の祖先の名は記され 母方も垂仁のあと継体天皇の母に至るまでの歴代の名は記されていない。 じよ・つぐ・つきいちにい・つ その不十分を埋めてくれるのが『釈日本紀』に引用される「上宮記一云」の所伝である。 うらべかねかた しやくにほんぎ 0
三尾氏や彦主人王が渡来人と同じ集落で生活し、彼らが伝えた大陸文化をいち早く取り 人れ、暮らしていたことはおそらく間違いない。 継体の生まれ故郷はこうした土地であっ すがすがしい湖水の風と先進的な渡来文化の空気のなかで、生まれ育ったのである。
をもち始めたことを示している。これは継体天皇の即位の伏線ともいえる現象といえるだ おひ ろう。私はこの古墳の被葬者に継体の祖父乎非王を当てたい。 前章では、継体の父彦主人王の墓に高島郡の田中王塚古墳を当てた。この古墳の年代は 五世紀後半で、塚の越古墳より古い。継体の祖父の墓より父親の墓のほうが古いというの はおかしいと思われるかもしれないが、継体の父・彦主人王は子どもが幼年のうちに夭 折したのであった。だから、彼よりその父乎非王のほうがあとまで生きていた可能性は 十分あるのである。この点で、塚の越古墳が継体の祖父乎非王の墳墓と考えて不思議は 、、ま、 0 続いて造られた山津照神社古墳は、誰を葬っているのだろう。六世紀前半から半ば近く に造られたこの古墳は、息長古墳群最後の前方後円墳でもある。この古墳の被葬者は息長 真手王ではないか。この人物は、坂田大俣王と同じく継体に娘を后妃として送った人物で ある。但し、彼は継体の孫にあたる敏達の皇后広媛の父でもある。 山津照神社古墳の年代は、今城塚古墳や鴨稲荷山古墳よりやや新しく、おおよそ五四〇 年代まで下がるらしい。とすれは、世代的には継体と同世代の人物の可能性があろう。私 は息長真手王は継体のいとこ、具体的には乎非王の孫ではないかと想像する。その間の一
徴的な建築様式で、最近各地で発見されている。オンドルは、竈の蒸気や煙を熱源とした 温水暖房施設で、これも明らかな朝鮓半島式の施設である。 南市東遺跡・下五反田遺跡からは、竈、初期須恵器、韓式系土器などが発見されている。 下五反田遺跡では南のグループから初期須恵器、韓式系土器、初期の竈が発見されている ヾ、北グループには竈がなく、渡来系の特色がやや弱いという。これらをもとに、高島市 教育委員会の宮崎雅充氏は、集落の北部には在来の倭人、南部には渡来人という住み分け があったのではないかとみている。住民すべてが渡来人だったわけではなく、もともと在 皇来の人々が住んでいたところへ渡来人が移り住むようになり、竈や韓式系土器など渡来系 体の文化がもとからそこに住んでいた人々の中へも普及していったらしい と南市東遺跡や下五反田遺跡が三尾氏の本拠地であり、また彦主人王の「高嶋宮」であっ 島たとして、そこに渡来人が生活していたと聞くと、三尾氏は渡来人なのか、とか彦主人王 高 国は渡来人なのか、と考えてしまいそうになるが、それはいささか短絡的な想定であろう。 近 在来の人々と彼らは、 渡来人はこの集落の一部に住んでいたのであって、すべてではない。 章 二互いに交流をしながら、住み分けをして共存していた。しかも在来の人々は新来の移住民 第 の伝える新しい生活文化を受け人れ、また従来の技術と折衷させていった。