れることである。具体例を挙げよう。 ほこりくるまづか 三重県亀山市の井田川茶臼山古墳 ( 広帯・捩じり ) と鈴鹿市保子里車塚古墳 ( 捩じり ) 大阪府茨木市の南塚古墳 ( 広帯 ) と同市の青松塚古墳・海北塚古墳 ( 捩じり ) 福井県若狭町の十善の森古墳 ( 広帯・捩じり ) と同町の大谷古墳 ( 捩じり ) 兵庫県三田市の西山 6 号墳 ( 広帯 ) と神戸市の南所 3 号墳 ( 捩じり ) この四例である。 いすれも先に広帯二山式冠を与えられ、ほば同時期かやや遅れて捩じり環頭大刀が追加 されたかのように与えられている。また南塚古墳と青松塚古墳・海北塚古墳、十善の森古 墳と大谷古墳、西山 6 号墳と南所 3 号墳の三例では、先に挙げた広帯一一山式冠を出土した 古墳のほうが後に挙けた捩じり環頭大刀を出土した古墳よりやや規模が大きい。こうした ことからすると、大和政権は先に広帯二山式冠を与え、これに次ぐ実力を持っ近傍の有力 大 者には、あとから捩じり環頭大刀を与えたものとみられるのである。 と 冠 章 四三葉文楕円形杏葉 第 広帯一一山式冠と捩じり環頭大刀に加えて、近年もうひとっ継体の威信財として注目され ー 23
茨木市にある南塚古墳は、今城塚古墳とも至近の地にある。 このように広帯二山式冠を出土した古墳は、継体の出身地である琵琶湖から淀川流域に わたって分布している。これらを根拠に、高松氏はこの冠を継体の威信財であったと推定 した。継体が自らの支援者らに配った特別な品だと考えるのである。 捩じり環頭大刀 高松氏は、捩じり環頭大刀も同種の性質を持っと考えている。この刀の特徴は、刀の柄 のところに縄を捩じったような形状をしている丸い環のような部分 ( 環頭部 ) が付いてい ることである。 列島内で最初にこの種の大刀がみえるのは、峯ケ塚古墳 ( 大阪府羽曳野市 ) ・十善の森 、ま、りま - ん 古墳 ( 福井県若狭町 ) ・古海原前 1 号墳 ( 群馬県大泉町 ) とされる。高松氏によると、朝鮮 しんとく 半島でも同種の大刀が発見されている ( 全羅南道咸平新徳古墳 ) が、この古墳は栄山江流 域に造られた前方後円墳の一つである。倭人によって造営された可能性が考えられる古墳 だ。捩じり環頭大刀は、列島内、おそらく畿内で考案され、造られた大刀とみていいだろう。 これが出土した分布を一小そう。 1 10
1 大谷 十善の森凸 1 山津照神社 鴨稲荷山 円 天塚 物集女車塚 井ノ内稲荷塚、も 1 凸も 鬻髜勝福寺南塚 3 号 青松塚 / 〃 ゲンゲ谷 和田 1 1 号、 記号 種別 捩じり環頭大刀 広帯ニ山式冠き一 三葉文楕円形杏葉 ( も を 1 峯ヶ塚 辺への偏りが著しいこ と」、および「六世紀後 半に例数を著しく減少さ せること」の二点を挙げ 私が指摘したいのは、 広帯一一山式冠を出土した 古墳の近辺には多くの場 合、捩じり環頭大刀を出 土した古墳が存在し、し かもその場合、広帯二山 式冠を出土した古墳のほ 財 うが先に造られ、捩じり の環頭大刀を出上した古墳 継の造営はこれよりやや遅 0 7 2 2
おちのあたえ ろである。東宮山古墳のある伊予国には、その西部に越智直の本拠があるが、『日本霊異 記』上第十七には、この氏の人物が百済救援のため渡海した際の伝承が収められている。 もちろんこれら威信財 ( 冠と大刀 ) を与えられた首長の中には、帰国首長でありかっ継 体支持勢力でもあった者、また渡来人だった者など複数の特徴に当てはまる者が含まれて いる可能性も考慮すべきだろう。 ここで整理すると、雄略朝段階では半島で勲功をあけ帰国した首長たちに対してのみ配 布されていた広帯一一山式冠が、継体朝になって継体の身内や側近と、秦氏を中心とする渡 来人にも与えられるようになるのである。その結果、広帯二山式冠を保有する首長は大き く増加し、一躍この冠が国内における政治的地位の象徴として評価されることになったと みられる。 では、広帯二山式冠を与えられた首長と捩じり環頭大刀を与えられた首長とには、何か 大違いがあるのだろうか 冠 高松氏は、広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の発見された古墳を比較して、「出土古墳の 章 四階層的位置に関しては、広帯一一山式冠のほうがやや高い可能性もあるが、比較的似た傾向 にあるといえるだろう」とし、広帯二山式冠のほうが捩じり環頭大刀より「畿内とその周 ー 21
関行丸古墳に比較的近く、福岡県みやこ町にある箕田丸山古墳 ( 捩じり環頭大刀出上 ) は 寿命王塚古墳に近い ( 一七八ページ地図参照 ) 。 そして広帯一一山式冠と捩じり環頭大刀を出土した若狭の十善の森古墳は、北部九州の横 穴式石室と類似し、なかでも豊前北部の番塚古墳と最も類似点の多いことが指摘されてい る。若狭の首長については終章で詳述するが、彼らは九州経由で半島に進出していたもの とみられる。 国際派の首長たち 群馬県の古海原前 1 号墳や簗瀬一一子塚古墳・前一一子古墳などでも捩じり環頭大刀が発見 されているが、これらは文献にみえる関東地方最大の豪族、上毛野氏の領域と重なる。注 目したいのは、この氏族には古くから海外へ渡った人物の伝承が多く伝えられていること あらたわけ じんみ、・つ かみつけののきみ 大だ。『日本書紀』神功皇后紀四十九年条に上毛野君の祖の「荒田別」が「将軍ーとして伽 とくじゅん 冠 耶の卓淳に外征したとの伝承、また応神十五年条に百済へ遣され、わが国に学問を伝えた わにはかせ 章 四「王仁博士」の来日に貢献したとの伝承もある。 第 半島から遠く離れた関東地方の豪族が、本当に渡海したのかと疑問に思うひともあるか かみつけの
広帯ニ山式冠の分布 ( 5 世紀後半 ~ 6 世紀前半 ) 広帯二山式冠と両方に名がみえる古墳 は太字にした。どちらにも鴨稲荷山古墳 がみえることは注目されよう。琵琶湖か ら淀川流域に分布することも、広帯二山 式冠と共通する。高松氏は、捩じり環頭 ~ 大刀もまた継体の威信財としてその支持 世者に配布されたと考えている。 半 後 紀 最初に冠と大刀を与えた大王 世 ただ広帯一一山式冠にせよ、捩じり環頭 布 分大刀にせよ、最も初期の国産品を副葬す 刀る峯ケ塚古墳や十善の森古墳が造られた 頭のは、西暦五〇〇年前後のことで、継体 が即位する直前のことである。しかもこ 捩れらの古墳の被葬者が、生前に広帯二山 ー 12
冠の伝来 ここ十年ほどの間、継体天皇をめぐる考古学からのアプローチは長足の進歩をみた。前 章の末尾に触れた尾張型埴輪は、継体の有力な支援者であった尾張氏の勢力拡大のようす を反映する考古資料として、きわめて貴重なものであったが、同じように継体の台頭のプ ロセスを反映している考古資料として、現在注目されている遺物が他にもある。広帯二山 かんとうたち 式冠とよはれる金銅製の冠と、捩じり環頭大刀とよばれる大刀である。これらは継体が自 オし力と一「ロわ らの支援者や身内などに配布した威信財 ( 権威・権力を象徴する品 ) ではよ、ゝ、 れているのだ。 以下、この分野の研究を牽引している新進研究者である高松雅文氏の研究に導かれなが ら、広帯一一山式冠と捩じり環頭大刀という継体天皇の二つの威信財について検討してみた 日本古代の冠というと有名なのが、六〇三年に聖徳太子が制定したといわれる冠位十一一 階であろう。あの際の冠は織物製であった。そしてそれらは、天皇が国内の身分秩序を表 100
吉備氏と紀氏は例外 広帯一一山式冠と捩じり環頭大刀を配布された首長が、海外に渡りそこで実績を積んで帰 きび 国した者たちだとすると、当然それに当てはまるであろう豪族がいる。紀氏と吉備氏だ。 船の部材となる木材を調達し、これを作り上げ、実際に瀬戸内海に乗り出し航海に出てい くうえで、この二氏の役割は大きいものがあった。外征氏族の代表的な存在だ。にもかか わらす、紀氏や吉備氏を葬ったとされる紀伊国と吉備国の古墳からは、広帯一一山式冠も捩 じり環頭大刀も出上していない。 これはどうしてだろうか。古墳は盗掘されることが多く、たまたま副葬品が現存しない だけなのか。その可能性もあるが、吉備と紀伊に広帯一一山式冠も捩じり環頭大刀も皆無で あるという現状は、やはり偶然とは田 5 えない。 両氏には中央に対し反抗的な態度を示した 前例があることに留意したい。 吉備氏は、雄略が崩じた直後に自らの血を受け継ぐ星川皇子の擁立をめざして、四十艘 の船を出航させようとしたが、クーデターは失敗に終わり、皇子が殺害されたと聞いて撤 退した。雄略の生前にも、謀叛を企て失敗し、討伐されたという伝承が『日本書紀』にあ る。 ほしかわ 1 ー 8
式冠や捩じり環頭大刀を時の大王から与えられたのち、亡くなって古墳に埋葬されるまで の期間を十年 5 二十年くらいは見積もっておく必要があるだろう。 そうなると、峯ケ塚古墳や十善の森古墳の被葬者に冠や大刀を与えたのは、継体ではな かった可能性が高い。むしろ四七〇 5 八〇年代ころまで在位した雄略であると見たほうが いいだろう。確かに最初期の広帯一一山式冠や捩じり環頭大刀の分布は、畿内中心部の河内 や群馬県、茨城県など、必すしも継体の勢力圏と関わるとは言えない地域も多い これらからすると、大王として初めて冠を威信財として導人し、広帯一一山式冠の国内生 産を進めたのは、継体ではなく雄略であった可能性が高いだろう。彼は舶載品か、あるい は朝鮮半島から招いたエ人に作らせた広帯一一山式冠を江田船山古墳の被葬者に与えるとと もに、これを模した国産品を作らせ、三昧塚古墳や関行丸古墳、峯ケ塚古墳、十善の森古 墳などの被葬者に与えたものとみられる。 大 では、雄略はどういった人々にこの冠を授けたのだろうか。三昧塚古墳は茨城県、関行 と 冠 丸古墳は佐賀県、峯ケ塚古墳は河内の古市古墳群、十善の森古墳は若狭と、地域はさまざ 章 四まである。ただこれらの古墳からは国産とみられる広帯二山式冠のほかに、舶載品とみら 3 第 れる装身具や刀が多く出土している点で共通性がある。
の両方を出土した十善の森古墳、捩じり環頭 大刀を出土した大谷古墳などが現われる。こ 墳れらの古墳に埋納された金銅製の豪華な装身 森具や冠、刀などは、大伽耶や百済などからの 、善舶載品がある一方で、雄略や「体から与えら : たれたとみられる国産品もある 土若狭の古墳のもうひとつの特徴は、これも を先に述べたように九州有明海沿岸地方の古墳 、大との類似性がみられることである。九州では 環いち早く取り人れられていた横穴式石室が、 , 第い本州で最初に導人されたのはこの地方の古墳 【とであり、他にも石屋型とよばれる九州型の横 式穴式石室が、若狭地方には特徴的に発見され ニている。若狭と九州とくに有明、決して近く ・第帯 広ないところに住んでいた彼らだが、六世紀半 142