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検索対象: 継体天皇と朝鮮半島の謎
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1. 継体天皇と朝鮮半島の謎

した相貌が生じてきたのか。 彼の故郷高島にはもともと渡来人が暮らしていた。またそこから若狭へ出る道は近い。 若狭には秦氏がいたし、そこから半島へ雄飛した十善の森古墳などの被葬者とみられる若 狭国造 ( のちの膳臣 ) がいた。その若狭は、日本海経由で九州有明海沿岸地域と結はれ、 海外に開かれていた。若狭の勢力も江田船山古墳に代表される有明海の勢力も、半島での 活動がめざましかった。こうした人々との結びつきが継体にはあった。 半島に渡っていた ? 継体の前半生は杳としている。幼いころ父を亡くし、以後母の実家のある越前三国で育 てられ、以来五十七歳までそこに居たように『日本書紀』は記す。しかし姻戚関係から察 誰 せられるように、実際は近江を拠点に越前や尾張などに幅広く滞在していたと私は推定す と 皇る。文献から辿れるのはそこまでだが、歴史家としての想像を慎重に交えるならば、彼は 継もっとスケールの大きい国際的な活動をしていたのかもしれない。 章本書で私は、広帯一一山式冠や捩じり環頭大刀を与えられた十善の森古墳の被葬者や江田 終 船山古墳の被葬者たちは、自ら半島に渡り活躍していた人たちであろうと考えた。そうで 237

2. 継体天皇と朝鮮半島の謎

鏡についての疑問点は措くとしても、武寧王と継体との間に協力関係があったことは否定 しがたいように思う。 隅田八幡宮人物画像鏡銘文の、武寧王のほうがヘりくだりすぎのように見える言葉も、 彼と「男 ( 孚 ) 弟王」との間に直接的な親交があったと考えれば、不思議はないのかもし れない。墓誌と『日本書紀』雄略五年条によれば、武寧王は四六一年の生まれ、継体も第 二章の考察によればほば同年代だが、やや年上であったかと思われる。 東アジアにおける継体 継体の父彦主人王は、それまで定着していた近江国坂田郡から琵琶湖の対岸高島郡に居 かを移した。本拠地に残った兄たちの一族ではなく、本来分家ともいえる新天地に移った彼 の息子が次代の盟主となりえたのは、若狭から半島、また九州有明海に通する地の利が影 と 当時の外交・国際ルートであったこの地域に進出したことが、継 皇響しているに違いない。 継体一族の飛躍につながったのだと私は思う。継体自身の即位前の渡海があったかどうかは 章措くとしても、おそらく鴨稲荷山古墳の被葬者とその一族は、十善の森古墳に葬られた若 終 狭国造 ( のちの膳氏 ) や筑紫君、江田船山古墳の被葬者らと同様、朝鮮半島に渡り、そこ 243

3. 継体天皇と朝鮮半島の謎

第六章有明海沿岸勢力と大和政権 反継体勢力磐井の乱とは何か 玄界灘沿岸から有明海沿岸へ江田船山古墳の実力 被葬者の名前阿蘇麓の三種の石材 有明首長連合の解体か衰弱か阿蘇馬門のピンク石 大和の豪族と阿蘇馬門ピンク石の関係 非葛城連合磐余玉穂宮への進出 有明海沿岸勢力との決裂 阿蘇馬門ピンク石と一一上山白石の共存 有明海沿岸勢力の半島進出連携と緊張 第七章百済文化と継体天皇 隅田八幡宮人物画像鏡武寧王の墓 武寧王の九州出生伝承倭国と百済の関係 任那割譲問題五経博士の来日 197

4. 継体天皇と朝鮮半島の謎

ていたことを何よりも反映していよう。雄略を頂点に戴く中央の王権が、「此の刀を服す る者は長寿にして子孫洋々、王の恩を得る也。その統ぶる所を失はず」と約束したことが、 この地の石棺が中央に運はれている事実と見事に符合しているのだ。 有明首長連合の解体か衰弱か 雄略が江田船山古墳の被葬者を特に厚く遇したのは、半島から帰国した首長を重視する 政策に加えて、先にも述べたように有明首長連合を牽制し、その一角を切り崩す狙いもあ 「たと思われる。事実、五世紀末葉に磐井の本拠地である八女・久留米周辺の古墳は、最 大近の柳沢一男氏の論考によると「一時的に衰退」したという。 と カ前著で私が依拠した十六年前の柳沢氏の論考では、五世紀前葉に成立した有明首長連合 が「磐井の乱後に解体するまでのほば一世紀のあいだ」継続したものと考えられてきた。 臈しかしその後、同氏は考えを「訂正」し、有明海沿岸地域に「 8 期段階の盟主的首長墳が 欠落している」ことから、 8 期半ば過ぎ ( 四八〇年ころか ) に「有明首長連合は解体し 章 六た」とした。但しその後再び有明海沿岸には、岩戸山古墳のような盟主的首長墳が造られ るようになる。このことからすれば、私は 8 期段階の盟主的首長墳の「欠落」は、有明首 ー 79

5. 継体天皇と朝鮮半島の謎

よしょ・つ 「欽明紀」十五年十二月条、百済の王子余昌が、新羅攻撃を図るが苦戦し、父の聖明王は 敵に捕らえられ、殺されてしまう。余昌自身も敵軍に囲まれ、身動きが取れなくなってし まった。この苦境を救った弓の名手として「筑紫国造」という人物がみえる。 この「筑紫国造」の名前は何と言うのかわからない。しかし筑紫君磐井の一族であるこ とは間違いなく、世代から言えは磐井の子どもであっても不思議はない。記事は「欽明 紀」十五年条だから、磐井の乱の後なのであるが、その後も半島に留まり独自の活動をし ていた者がいたのである。 連携と緊張 雄略は、伽耶や百済との国際的なパイプをもっ有明海沿岸勢力の力を利用しながらも、 彼らの首長連合がさらに結東を強め、拡大化することを警戒していた。彼が江田船山古墳 の被葬者に広帯二山式冠を与え、また破格の内容をもっ銘文付大刀を与えたのは、この有 明海沿岸の首長連合の本拠地と目される八女・久留米地域のちょうど背後にあるからだっ た。有明首長連合を構成する首長たちをある意味で分断し、その結東を妨害するのが狙い だったとみられる。馬門ピンク石を畿内にとり人れた継体は、こうした政策を引き継いで ー 94

6. 継体天皇と朝鮮半島の謎

継体は有明海沿岸勢力の一部と連携して葛城氏との対決を続けてきたが、最後はかって葛 城氏の配下にあった蘇我氏と手を結ぶことによって、この問題を解決したのであった。 有明海沿岸勢力との決裂 以後、政権内における蘇我氏の存在が高まっていくのと対照的に、それまで提携関係に あった有明海沿岸勢力と継体政権の関係は揺らいでいったようにみえる。それを物語るの が、「六世紀前半のある段階になって突然宇土半島産の石棺を持ち込むことは中止になり、 政地元産の一一上山白石製の、ないしは竜山石製の南大和型家型石棺へと変換を余儀なくされ 大る」 ( 高木氏 ) という現象だ。 と カ このことと磐井の乱の勃発は不可分の関係にあろう。端的にいえば宇土半島産すなわち 阿蘇産の馬門ピンク石の畿内持ち込みが中止にな「たのは、磐井の乱が原因とみられる。 海 それまで提携関係にあった継体支持勢力と有明首長連合は、継体の大和定着の直後に磐井 明 有 の乱によっていったん決裂した。その影響で阿蘇産のピンク石の輸送も突然中止になった 章 六ものと思われる。 第 ただこの推測にはひとつの反証がある。それは、今城塚古墳に阿蘇ピンク石を使った石 189

7. 継体天皇と朝鮮半島の謎

非葛城連合 このようにみていくと、そこに 継体支持勢力 + 有明海沿岸勢力 葛城系勢力 という構図をみることができるだろう。 前著では継体を擁立した勢力の主体は、「葛城氏とその同族を除いた非葛城連合」だっ たと述べた。「葛城氏とその同族を除く中央 ( 畿内 ) 豪族の大半は、近江、越前、美濃な どに豊かな経済力を保有する継体を結束して擁立し、政権基盤の建直しを図った。これに 対して葛城氏とその同族は、一部の仁徳系王統と結びついて継体と距離を置いた」と考え 。十年の時を経て、私は継体支持勢力に帰国首長や秦氏など渡来人、さらには九州の有 明海沿岸勢力の一部も加えたい。畿内の非葛城連合と近江・越前・尾張といった継体の出 身地周辺の勢力、それに帰国首長や秦氏など渡来人、さらには九州の有明海沿岸勢力、中 ー 86

8. 継体天皇と朝鮮半島の謎

衝突であ「た。しかし考古学の成果を併せ考えると、有明首長連合に属するこの地の首長 たちは、必すしも一枚岩となって大和政権の軍と対したわけではなか「た。もともと四、 五世紀以来大和政権との政治的つながりがあったことが、その要因だろう。 葛城地域を制圧し大和盆地を完全に支配下に置いた継体朝の新しい政権は、もはやこれ 以上有明海沿岸の地方勢力が国際的なパイプを拡大し、先進文化をとり人れ、強大化して いくのを許容できなかったに違いない。 磐井の乱を鎮圧した後、大和政権は九州北部に朝 廷の直轄地である屯倉を多く設置し、より直接的な支配を進めていった。栄山江流域の前 方後円墳が、継体朝末期の六世紀前半ころをも「て終焉するのも、これと連動した動きと 捉えたい。 196

9. 継体天皇と朝鮮半島の謎

の両方を出土した十善の森古墳、捩じり環頭 大刀を出土した大谷古墳などが現われる。こ 墳れらの古墳に埋納された金銅製の豪華な装身 森具や冠、刀などは、大伽耶や百済などからの 、善舶載品がある一方で、雄略や「体から与えら : たれたとみられる国産品もある 土若狭の古墳のもうひとつの特徴は、これも を先に述べたように九州有明海沿岸地方の古墳 、大との類似性がみられることである。九州では 環いち早く取り人れられていた横穴式石室が、 , 第い本州で最初に導人されたのはこの地方の古墳 【とであり、他にも石屋型とよばれる九州型の横 式穴式石室が、若狭地方には特徴的に発見され ニている。若狭と九州とくに有明、決して近く ・第帯 広ないところに住んでいた彼らだが、六世紀半 142

10. 継体天皇と朝鮮半島の謎

造られていたが、五世紀前半になると急速に衰退し、これに代わって有明海沿岸から筑後 川流域に一〇〇メートルを越える前方後円墳が造られるようになる。それまで玄界灘沿岸 勢力が果たしてきた大和政権の対外交渉の窓口としての役割も、以後は替わって有明海沿 岸地域の豪族が掌握するようになったのだろう。 なかでも代表的なのが、筑紫君と肥 ( 火 ) 君という二豪族である。九州においてこの二 おごおり 氏の力は他に抜きんでるものがあった。筑紫君の本拠地は現在の福岡県太宰府市から小郡 ひかわ やっしろひ 市、筑紫野の一帯、肥君の本拠地は肥後国八代郡肥伊郷、現在の熊本県八代郡氷川町の辺 政りと考えられている。ただ両氏の勢力はこれに留まらす、五 5 六世紀に近隣各地へ進出し、 大勢力を伸はしている。 と カ 勢 岸 江田船山古墳の実力 海 先に触れた熊本県玉名郡にある江田船山古墳は、まさにこの有明海沿岸に造られた古墳 明 有 である。この古墳は五世紀末 5 , ハ世紀前半に築かれ、この間に追葬も行われたらしい。の 章 六ちにも述べるように、私はこの古墳の被葬者を肥君の分家の一人と考えている。 第四章で述べたように、その被葬者は半島に渡った事があったに違いない。彼はそこで 171