武寧王 - みる会図書館


検索対象: 継体天皇と朝鮮半島の謎
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1. 継体天皇と朝鮮半島の謎

とある。倭国が百済の新しい王の後ろ盾であることを、筑紫の丘五百人を授けることで 内外に示したのだった。しかし『日本書紀』の引用する「百済新撰」によると、この末多 王は暴虐な政治で人心を失い、追放される。 百済末多王、無道にして百姓に暴虐す。国人共に除てて武寧王を立つ。諱は嶋王とい 3 ( 百済の末多王が人の道に反し、百姓に暴虐なことをした。国の人々は共に末多王を排除 して武寧王を立てた。武寧王の実名は嶋王という ) こうして武寧王が即位した。それにしても、復興後の百済の王権もかなり不安定だった ことが察せられる。 雄略が亡くなって以後、倭と百済の外交はしはらく疎遠になっていたらしい。『日本書 紀』の紀年によると、雄略が亡くなった年から一一十五年間、百済からの朝貢は途絶えてい る。武烈六年十月に百済から「麻那君」という人物が久々に倭に派遣されてきたが、倭は 、 0 204

2. 継体天皇と朝鮮半島の謎

癸未年の干支が記されたこの銘文は、これまで西暦四四三年とする説と五〇三年とする 説とがあったが、近年では鏡の型式等から五〇三年とする説が優勢となってきている。五 〇三年といえば、継体が即位する四年前オ 銘文にはおおよそ「男 ( 孚 ) 弟王」が「意柴沙加宮」にいた時に「斯麻」が「長奉」 ( 長く奉仕すること ) を「念」じて「開中費直」と「穢人今州利」 ( いずれも朝鮮半島の人名 らしい ) の「二人」を「遣」し、この「鏡」を作らせたといった内容がみえる。山尾幸久 氏は、「日十大王」が仁賢天皇、「男 ( 孚 ) 弟王」が「男大迹王」すなわち継体天皇、「斯 麻」が「斯麻王」すなわち百済の武寧王であり、即位前夜の継体が「意柴沙加宮」 ( 大和 皇国の忍坂宮 ) にいた時に、百済王即位直後の武寧王が、継体に長く奉えることを誓ってこ 体の銅鏡を贈ったと解釈している。継体が即位する前から二人は同盟関係を形作っていたと にみるのである。 文 済 百 武寧王の墓 そうざんり ちゅうせいなんどうこうしゅう 章 七武寧王の墓は、韓国で一九七一年に発見されている。忠清南道公州市の宋山里古墳群 第 にある武寧王陵である。直径一一〇メートルの円墳で、棺とその周辺から三面の鏡、金製冠 ー 99

3. 継体天皇と朝鮮半島の謎

いすれも百済王族の墓とされていることから、この木材を「百済王ないし王族と推定され る人々が独占していた可能性がある」と吉井氏は言う。高野槙は日本でも木棺の部材とし て多く用いられている。岡林孝作氏の研究によると、現在その植生は「長野県南部から岐 阜県東部以西の西日本に多く、かっ九州から山陰にかけての日本海側にはみられない」。 しかもこれを木棺の部材に用いた古墳は、近畿とその周辺 ( 滋賀・岐阜・三重・愛知・岡 山 ) にほとんど集中しており、この地域の古墳時代前 5 中期の木棺の約九割、後期でも六 世紀末までは約八割を高野槙が占めるという。武寧王などの御陵の木棺の部材として、高 野槙を供給したのはやはり継体朝の政権そのものであったことは疑いない。 近江の三上山の麓で見つかった武寧王陵と同型の鏡の存在も、詳細は不明ながら両者の 関係を裏書きする。これらの鏡が百済から伝えられたのか、逆に倭から百済に伝えられた のか、いすれにしても鏡をめぐる交流が倭と百済、継体と武寧王の間で進められていたこ とは確かであろう。 倭国からは百済王族の木棺の材料となる高野槙が贈られ、銅鏡とその製作工人の交流が 両国の間に行われていた。 継体が一貫して採用してきた百済寄りの外交も、彼と武寧王と の個人的な同盟関係を背景にして考えたほうが理解しやすいだろう。隅田八幡宮人物画像

4. 継体天皇と朝鮮半島の謎

寧東大将軍百済斯麻王年六十一一歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十 一一日甲申安暦登冠大墓立志如左 「癸卯年五月」というと、五二三年。このとき , ハ十二歳だったという。「斯麻王」という いみな 名は、『三国史記』に武寧王の諱として「斯摩王」として記され、『日本書紀』武烈四年条 にも「斯麻王」という名が記されている。武寧王という名は死後奉られた諡号 ( 贈り名 ) で、生前は「斯麻 ( 摩 ) 王」と呼ばれていたのだ。 ちなみにこの古墳から出土した銅鏡と同じ鋳型で鋳造された同型の鏡が、滋賀県野洲市 みかみ の三上山の麓で見つかっている。恐らく近隣の甲山古墳や林ノ腰古墳に副葬されたもので あろう。どちらも継体とつながりの深い首長が被葬者とみられる。この鏡が百済から贈ら れたものなのか、あるいは倭から百済に贈られたものなのか、学界でもまだ議論が続いて 飾り、耳環、銀・金銅製履、環頭大刀その他の副葬品が発見された。 被葬者が明らかになったのは誌石が発見されたからで、そこには以下のように記されて 200

5. 継体天皇と朝鮮半島の謎

いる。ただ鏡を媒介にした外交が倭と百済の間で行われていたことは確認できるだろう。 福永伸哉氏は、「国内の基盤がなお弱い」継体が、「百済との国際関係をみすからの政治 権力強化のために利用することは意味のあること」であると述べ、同様のことが武寧王の 側にもあって、互いに連携を必要としていたのではないか、と考えている。 武寧王の九州出生伝承 驚くべきことに、武寧王が九州の「各羅島」で生まれたという伝承が『日本書紀』に残 されている。雄略天皇五年四月条と、武烈天皇四年是歳条とである。そこには、雄略五年 こんき 皇に当時の百済の蓋鹵王が、弟の軍君 ( 現支王子 ) を倭国に使者として派遣する際、身ごも 体つた自分の妃を与え、こう指一小したという。 ねが うみづき 我が孕みし婦、既に産月に当たれり。もし路にして産まば、冀はくは一船に載せ、至 まにま らむ随に何処なりと速く国に送らしめよ。 章 ( 私の身ごもった妃は、既に産み月を迎えている。もし道中で出産したなら、その子を母 親と同じ船に載せ、いすこなりと行った先から急いで国に送らせよ ) おみな こ・つろ かか、り 2 01

6. 継体天皇と朝鮮半島の謎

鏡についての疑問点は措くとしても、武寧王と継体との間に協力関係があったことは否定 しがたいように思う。 隅田八幡宮人物画像鏡銘文の、武寧王のほうがヘりくだりすぎのように見える言葉も、 彼と「男 ( 孚 ) 弟王」との間に直接的な親交があったと考えれば、不思議はないのかもし れない。墓誌と『日本書紀』雄略五年条によれば、武寧王は四六一年の生まれ、継体も第 二章の考察によればほば同年代だが、やや年上であったかと思われる。 東アジアにおける継体 継体の父彦主人王は、それまで定着していた近江国坂田郡から琵琶湖の対岸高島郡に居 かを移した。本拠地に残った兄たちの一族ではなく、本来分家ともいえる新天地に移った彼 の息子が次代の盟主となりえたのは、若狭から半島、また九州有明海に通する地の利が影 と 当時の外交・国際ルートであったこの地域に進出したことが、継 皇響しているに違いない。 継体一族の飛躍につながったのだと私は思う。継体自身の即位前の渡海があったかどうかは 章措くとしても、おそらく鴨稲荷山古墳の被葬者とその一族は、十善の森古墳に葬られた若 終 狭国造 ( のちの膳氏 ) や筑紫君、江田船山古墳の被葬者らと同様、朝鮮半島に渡り、そこ 243

7. 継体天皇と朝鮮半島の謎

い 局 ; た 同 槙 は 寧 王 だ で オよ 終章 で佐 い可近あ 野やだ 県何 。各 で到性福 を水 る倭指伸 。国摘哉 ら触 かれ れれ国生 し氏 滞れ う在 も銅 け本 し鏡 れ継 け伝篤体 が徴 山えを 同贈 正か な信 は思族亡 て中 手埋 益は 山えす 、武 孚倭 弟て 、な が隔 ム訃 柴朝 い距 死か 武 ( だ氏 継体天皇とは誰か は し、 っ の 武生を か り 日 の 回 くり野運 で 野 。槙 の 木 り 海 を 越 ん て ぶ よ つ で 葬 ま で と て も に な い と 井 秀 夫 贈 た の と 足 ん る の が ふ さ わ し い よ っ に っ た だ し 武 間王国 の わ報百 聞 い て か 日 本 あ る こ長羅 く 倭 に し た わ で は い 賀 嶋 で ま た と い っ 承 を じ る と し て も ま れ て す ぐ 百 冫斉 行 て る の 人 が を き け に れ ほ ど の い 関 係 を 結 ぶ に 、至 っ た の か わ か ら 甼 王 が そ も そ も が 武 寧 王 か り 継 に れ た も の だ と し て 海 を て て 遠 。離 あ る い 問 : 題 あ 陵槙 里 古 墳 群 大 墓 出 上 の 材 も 使 わ れ て し、 る 言周 達 す る が っ い て い た と い っ と の よ っ 24 ー も槙ま先 で 作 て い た な ど は 豪 ( で は オよ く 、時寧 の 倭 王 を済本 王 の を り悼息 ん で も た よ に 体 十 七 年 く な っ た 王 の 棺 は 日 に し 生 し な と つ 底 内 い な け れ ば け な 銘 文 と ど つ 結 び 付 け て 考 ん の た た 書れ特 し、 と し 男 王 忌 は沙鮓 い加半 い宮島 に か在鋳 、す造 難時さ で 能年る の の れ 国 で も 国 も く で

8. 継体天皇と朝鮮半島の謎

つくしかか、りしま 言葉通り、妃は倭国で子供を出産した。それが「筑紫各羅嶋」であったという。現在の かか、りしま 佐賀県唐津市鎮西町加唐島だといわれている。生まれた子供は王の指示通り、すぐさま百 済へ返されたというが、この伝承は『日本書紀』に掲載されるはかりで朝鮓や中国側の史 料には一切残されていない。 このため信用に値しないという見方もあろう。ただ 一概に否 定しえないのは、これが『日本書紀』とはいっても「武烈紀」では「百済新撰に云ふ」と して掲載されていることである。 「百済新撰」は「百済記」・「百済本記」と共に『日本書紀』のなかにたびたび引用される 書物で、現在はまとまっては残っておらす、『日本書紀』の中に引用されたものでしか読 むことはできないのだが、著者は七世紀末に日本に亡命してきた百済人たちではないかと、 言われている。内容は百済の歴史というより、倭と百済の外交史といった趣きが強い。 『日本書紀』の外交記事というのは、実はその多くをこうした書物に依拠して記されてい る。だから武寧王の「筑紫各羅嶋」出生伝承というのも、決して日本だけの勝手な主張で はなく、少なくとも七世紀の百済には伝えられていた伝承だったのである。 こ・つや また武寧王陵から発見された王と妃の遺体を納めた木棺は、日本でしか生息しない高野 ちんせい 202

9. 継体天皇と朝鮮半島の謎

紀臣奈率弥麻沙については『日本書紀』本文に注があり、 紀臣奈率弥麻沙は蓋しこれ紀臣の韓婦を娶りて生める所か。因て百済に留まりて奈率 に為れる者也。未だ其の父詳らかならず。 ( 紀臣奈率弥麻沙は、おそらく紀臣が韓の婦人を娶って生んだ子どもであろう。そうして 百済に留まって「奈率」になった者である。父は詳らかでない ) とある。要するに父方は倭人、母方は韓人なのである。 栄山江流域の前方後円墳が倭人の墓であるならは、おそらくこうしたこの地に定着した ぶねい 人たちのものであろう。福永伸哉氏は、これらを継体が当時の百済王である武寧王を軍事 支援するためにこの地に派遣した、九州の豪族たちの墓だと考えている。継体と武寧王と は密接な同盟関係にあったとみているのである。海を越えて存在した二つの国の王たちに、 本当にそうした信頼関係があったのか。今や継体天皇を東アジアの国際情勢の中で捉える 視点は欠かすことができない。 つはひ より

10. 継体天皇と朝鮮半島の謎

第六章有明海沿岸勢力と大和政権 反継体勢力磐井の乱とは何か 玄界灘沿岸から有明海沿岸へ江田船山古墳の実力 被葬者の名前阿蘇麓の三種の石材 有明首長連合の解体か衰弱か阿蘇馬門のピンク石 大和の豪族と阿蘇馬門ピンク石の関係 非葛城連合磐余玉穂宮への進出 有明海沿岸勢力との決裂 阿蘇馬門ピンク石と一一上山白石の共存 有明海沿岸勢力の半島進出連携と緊張 第七章百済文化と継体天皇 隅田八幡宮人物画像鏡武寧王の墓 武寧王の九州出生伝承倭国と百済の関係 任那割譲問題五経博士の来日 197