0 1 ~ 箕田丸山 寿命王塚 島田塚 , 八女古墳群 / ~ 関行丸 右人山岩戸山、 江田船山凸 馬門石延廳型を ] 中肥後型石棺 野津古墳群 塚 ~ 本野窟 南肥後型石棺水 / ″ 字土半島 0 土県に一つ、香川県に二つ、岡山 刀県に一つ ) 、近畿地方に二基 環 ( 大阪府藤井寺市に二つ ) この型 の石棺が発見されている。 捩 時期は中国・四国は五世紀半 土 ばから後半、近畿では五世紀後 出 式半である。この菊池川下流域と 山 いうのは、まさに江田船山古墳 広 のあるところであり、この石棺 が畿内に進出した時期は、江田 海 明船山古墳の造られた時期とほば 州同じ、五世紀後半から末ころの のことである。これは、江田船山 世古墳の時代に、この地域が中央 の王権と特別なつながりを持っ 1 フ 8
江田船山古墳の広帯一一山式冠が、国内で発見されたこの種の冠の最古の品で、祖形になっ ているという点では、諸家がおおよそ一致しているのである。あるいは森下氏が示唆して いるように、朝鮓半島南部から倭国に来たエ人に新しいデザインで作らせた可能性もある だろう。そうだとすれは、作らせたのはやはり当時の大和政権ということになる。 継体の勢力圏との関係 しゅうせん 江田船山古墳の冠を祖形として作られた、最も初期の広帯一一山式冠は、福井県十善の森 古墳、佐賀県関行丸古墳などのものである。時期は五世紀末から六世紀初頭、継体が即位 する前後のころである。その次に高島市の鴨稲荷山古墳のものが来る。これら初期の国産 品は、先にも述べたようにいずれも江田船山古墳のものを祖形にこれに種々のオリジナリ ティを加えて作られたものであろう。高松氏は、その分布が継体の勢力圏と一致している ことを指摘した。 広帯一一山式冠が出土した主な古墳を年代順に列挙すると、 せきぎよ・つまる 1 三昧塚古墳 ( 茨城県行方市 ) ・関行丸古墳 ( 佐賀県佐賀市 ) ・江田船山古墳 ( 熊本県和 水町 ) : ・ ( 以下、は須恵器の編年 ) 108
第四章冠と大刀 能性が指摘されている。上林史郎氏はこの冠について、「五世紀後葉段階の日本の金属工 芸技術では製作できない」とし、「朝鮓半島南部から舶載された」と考える。そして「舶 さんまいづか 載された江田船山古墳の広帯一一山式冠をモデルにして、三昧塚や鴨稲荷山古墳の広帯二山 式冠が畿内およびその周辺で製作されたのであろう。さらにいえは、筆者は日本で出土し ているすべての広帯二山式冠と飾履は、江田船山古墳に通じるものと考えている」という。 森下章司氏は「国内で作られたものかどうかと 製 復 う点については判断できない」とし、「半島か 冠 らの新たな技術の導人、おそらくは技術者そのも 式 山 のの移人によってこうした製品の製作が始まった 帯 ことは間違いない」とい ) っ 広 高橋克壽氏も最近、「帽はともかく、冠と履に 材 出ついては、江田船山古墳例を祖形に , ハ世紀前半の を ~ 古俗鴨稲荷山古墳例以後、この型式が国内での主流と 荷歴なる歴史的流れが確認できる」と述べる。 稲島 烏高 舶載品であるかどうかに見解の違いはあっても、 107
たとえば江田船山古墳では大伽耶や百済製とみられる狭帯式冠や帽、半筒型金具や履。 関行丸古墳では百済製とみられる金銅製半筒型金具、峯ケ塚古墳では帽。十善の森古墳で は帽、変形剣菱杏、花弁型杏葉など。これらは大伽耶か百済で作られた、いすれも国際色 豊かな威信財である。古墳の被葬者自身が渡海して人手したものか、あるいは半島から来 た渡来人から二次的に人手したかのどちらかであろう。 しかもこれらの古墳には、先に挙けた栄山江流域の前方後円墳の石室や遺物との間に相 関関係がみられるものがある。たとえば関行丸古墳は石室が栄山江流域の造山古墳と類似 かい ~ 、しろ し、またこの古墳から発掘されたのと同じ繁根木型のゴホウラ製貝釧が発見されている。 また周辺からは栄山江流域産の壺が発見されているという。 朴天秀氏はこうした相関関係から、栄山江流域の前方後円墳の被葬者の出身地を割り出 ばんづか した。それは次の五カ所ーー豊前北部 ( 番塚古墳 ) ・肥前の佐賀平野 ( 関行丸古墳 ) ・筑後 の遠賀川流域 ( 桂川〈寿命〉王塚古墳 ) ・筑前の早良平野 ( 梅林古墳 ) ・肥後の菊池川流域 である。 ( 江田船山古墳 ) このうち、江田船山古墳と関行丸古墳からは広帯一一山式冠が出土し、寿命王塚古墳から は捩じり環頭大刀が出土している。また唐津市にある島田塚古墳 ( 広帯一一山式冠出土 ) は 114
した相貌が生じてきたのか。 彼の故郷高島にはもともと渡来人が暮らしていた。またそこから若狭へ出る道は近い。 若狭には秦氏がいたし、そこから半島へ雄飛した十善の森古墳などの被葬者とみられる若 狭国造 ( のちの膳臣 ) がいた。その若狭は、日本海経由で九州有明海沿岸地域と結はれ、 海外に開かれていた。若狭の勢力も江田船山古墳に代表される有明海の勢力も、半島での 活動がめざましかった。こうした人々との結びつきが継体にはあった。 半島に渡っていた ? 継体の前半生は杳としている。幼いころ父を亡くし、以後母の実家のある越前三国で育 てられ、以来五十七歳までそこに居たように『日本書紀』は記す。しかし姻戚関係から察 誰 せられるように、実際は近江を拠点に越前や尾張などに幅広く滞在していたと私は推定す と 皇る。文献から辿れるのはそこまでだが、歴史家としての想像を慎重に交えるならば、彼は 継もっとスケールの大きい国際的な活動をしていたのかもしれない。 章本書で私は、広帯一一山式冠や捩じり環頭大刀を与えられた十善の森古墳の被葬者や江田 終 船山古墳の被葬者たちは、自ら半島に渡り活躍していた人たちであろうと考えた。そうで 237
であろう。 大和政権としても対半島の外交・軍事を進めていくうえで、この地域の勢力との連携は 不可欠であったが、一方で彼らの更なる強大化は脅威でもあったろう。江田船山古墳は、 磐井の墓とされる岩戸山古墳の南に隣接する ( 一七八ページ地図参照 ) 。雄略は有明首長連 合の本拠地である八女・久留米地方のちょうど背後に位置する江田船山古墳の被葬者を味 方につけることで、この首長連合のこれ以上の強大化を牽制する狙いを持っていたのでは ないか、と私は考えている。 阿蘇麓の三種の石材 雄略朝から継体朝にかけての中央政権と九州の関係は、石棺の移動・流通に反映されて たつやま いる。第一章で私は、今城塚古墳から奈良の一一上山の白石、兵庫県西部の竜山石、熊本県 阿蘇で採れるピンク石の三種の石棺の破片が見つかったことを述べた。 阿蘇の麓には全部で三カ所の主要な石材の産地があったことがこれまでに判明している。 ひかわ 北から順に、熊本県北部の菊池川下流域・宇土半島・氷川下流域の三地域で、それぞれで 作られた石棺は、菊池川流域で作られたのが北肥後型石棺、宇土半島の馬門ピンク石で作 まかど 176
広帯ニ山式冠 ( 江田船山古墳 ) 狭帯式冠 ( 桜ヶ丘古墳 ) 広帯ニ山式冠 ( 鴨稲荷山古墳 ) 0 広帯ニ山式冠 ( 物集女車塚古墳 ) 額飾式冠 ( ニ本松山古墳 ) 広帯ニ山式冠 ( 藤ノ木古墳 ) ^. 二ーン 0 ロ宿》 ( 江田船山古墳 ) 冠と帽 ( 上林史郎「冠と履ー首長のステータスー」より ) ■ E 電 102
造られていたが、五世紀前半になると急速に衰退し、これに代わって有明海沿岸から筑後 川流域に一〇〇メートルを越える前方後円墳が造られるようになる。それまで玄界灘沿岸 勢力が果たしてきた大和政権の対外交渉の窓口としての役割も、以後は替わって有明海沿 岸地域の豪族が掌握するようになったのだろう。 なかでも代表的なのが、筑紫君と肥 ( 火 ) 君という二豪族である。九州においてこの二 おごおり 氏の力は他に抜きんでるものがあった。筑紫君の本拠地は現在の福岡県太宰府市から小郡 ひかわ やっしろひ 市、筑紫野の一帯、肥君の本拠地は肥後国八代郡肥伊郷、現在の熊本県八代郡氷川町の辺 政りと考えられている。ただ両氏の勢力はこれに留まらす、五 5 六世紀に近隣各地へ進出し、 大勢力を伸はしている。 と カ 勢 岸 江田船山古墳の実力 海 先に触れた熊本県玉名郡にある江田船山古墳は、まさにこの有明海沿岸に造られた古墳 明 有 である。この古墳は五世紀末 5 , ハ世紀前半に築かれ、この間に追葬も行われたらしい。の 章 六ちにも述べるように、私はこの古墳の被葬者を肥君の分家の一人と考えている。 第四章で述べたように、その被葬者は半島に渡った事があったに違いない。彼はそこで 171
式冠や捩じり環頭大刀を時の大王から与えられたのち、亡くなって古墳に埋葬されるまで の期間を十年 5 二十年くらいは見積もっておく必要があるだろう。 そうなると、峯ケ塚古墳や十善の森古墳の被葬者に冠や大刀を与えたのは、継体ではな かった可能性が高い。むしろ四七〇 5 八〇年代ころまで在位した雄略であると見たほうが いいだろう。確かに最初期の広帯一一山式冠や捩じり環頭大刀の分布は、畿内中心部の河内 や群馬県、茨城県など、必すしも継体の勢力圏と関わるとは言えない地域も多い これらからすると、大王として初めて冠を威信財として導人し、広帯一一山式冠の国内生 産を進めたのは、継体ではなく雄略であった可能性が高いだろう。彼は舶載品か、あるい は朝鮮半島から招いたエ人に作らせた広帯一一山式冠を江田船山古墳の被葬者に与えるとと もに、これを模した国産品を作らせ、三昧塚古墳や関行丸古墳、峯ケ塚古墳、十善の森古 墳などの被葬者に与えたものとみられる。 大 では、雄略はどういった人々にこの冠を授けたのだろうか。三昧塚古墳は茨城県、関行 と 冠 丸古墳は佐賀県、峯ケ塚古墳は河内の古市古墳群、十善の森古墳は若狭と、地域はさまざ 章 四まである。ただこれらの古墳からは国産とみられる広帯二山式冠のほかに、舶載品とみら 3 第 れる装身具や刀が多く出土している点で共通性がある。
第六章有明海沿岸勢力と大和政権 反継体勢力磐井の乱とは何か 玄界灘沿岸から有明海沿岸へ江田船山古墳の実力 被葬者の名前阿蘇麓の三種の石材 有明首長連合の解体か衰弱か阿蘇馬門のピンク石 大和の豪族と阿蘇馬門ピンク石の関係 非葛城連合磐余玉穂宮への進出 有明海沿岸勢力との決裂 阿蘇馬門ピンク石と一一上山白石の共存 有明海沿岸勢力の半島進出連携と緊張 第七章百済文化と継体天皇 隅田八幡宮人物画像鏡武寧王の墓 武寧王の九州出生伝承倭国と百済の関係 任那割譲問題五経博士の来日 197