の特徴も、物集女車塚が秦氏の古墳であることを示唆しているようにみえる。 寝屋川の秦氏、北摂の秦氏、山背国太秦の秦氏とここまでみてきたが、いずれも継体に は親近な間柄だったことがうかがえよう。秦氏については、前著『謎の渡来人秦氏』で 詳述したが、彼らと継体との関係については述べるだけの用意がなかった。しかしこれら からすると、あるいは各地の秦氏が連携して継体を支援していた可能性もあるのかもしれ ない。だとすれば、なせ秦氏は継体を支援したのか、という謎が浮上してくるだろう。 宇治ニ子塚古墳と秦氏 山背地方にはもうひとっ継体とかかわりの深い人物の墓ではないかといわれる古墳があ ごかしようふたごづか 来る。宇治 ( 五ケ庄 ) 二子塚古墳である。全長一一二メートルの前方後円墳で、二段築成で と二重の周濠をもっ堂々たる古墳だ。六世紀初頭 ( 西暦五〇〇年ころ ) の築造といわれる。 体墳型は今城塚古墳と同型で、その三分の二の大きさに当たる。尾張型埴輪が発掘されてお 継 り、この時期では山背最大の古墳である。 章 五五世紀後半ころから全国的に古墳が小型化していく傾向は山背国も例外でないが、その ようななかで一〇〇メートルを越えるこの古墳の威容には、目を見開かせられる。そこで 9
第四章冠と大刀 冠の伝来 新羅の冠をかぶった倭人半島の冠・倭の冠 継体の勢力圏との関係捩じり環頭大刀 最初に冠と大刀を与えた大王国際派の首長たち 吉備氏と紀氏は例外政治的地位の象徴として 三葉文楕円形杏葉明治三十五年の鴨稲荷山古墳発掘 京都帝国大学による発掘鴨稲荷山古墳の被葬者は ? 第五章継体天皇と渡来人 高島と若狭の秦氏現代まで続く田烏の秦一族 若狭最大の豪族・膳氏膳氏の対外活動 河内馬飼首の貢献馬を媒介にして淀川に広がる秦氏 北摂の秦氏山背の秦氏宇治一一子塚古墳と秦氏 宇治橋で聖徳太子を迎えた伝承
古墳のみだが、全長約四〇メートルの造り出しをもっ円墳で、時期は五世紀後半ころとい たかみや われている。周辺には高宮遺跡というほば同時期の大型建物群や竪穴式住居跡があり、こ こで竈や初期の須恵器、韓式系土器など、渡来人の居住を示す痕跡が発見されている。 前章でも触れたけれども、このなかに広帯二山式冠の破片が出土した古墳がある。ゲン ゲ谷古墳というが、ここも今はない。出土した金銅製の馬具や装飾品は、京都大学の博物 館に所蔵されている。この地の秦氏が継体から授かったものとみてよいだろう。全国各地 に秦氏は分布しているが、そのなかで本宗であることを示す太秦という氏の名や地名を名 乗るのは京都市右京区の太秦以外には、この寝屋川の秦氏だけである。この地の秦氏が京 都の太秦に次ぐ重要で有力な存在であったことをうかがわせる。 北摂の秦氏 ほくせつ 現在の大阪府の北郊、北摂とよはれる地域にも秦氏はいた。現在の大阪府池田市、かっ はたしも てしまはたかみ ての摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷である。 章 五古代の豊嶋郡に秦氏がいたことは次の史料で確認できる。天平神護三年の紀年をもっ正 いみきとよほ 倉院文書 ( 「造東大寺司移」 ) に、「豊嶋郡散位正八位上秦忌寸豊穂」という名前がみえ さんみ
ところだ。ということは、最初に太子を出迎えた宇治も、秦氏の重要な拠点であったと捉 えるべきだろう。おそらく宇治橋から北が秦氏の領域であるということを示しているので オし 1 刀 彼らは橋の上で正装をし、皆が馬に乗って溢れるほどの人数で出迎えたという。その威 容をみた太子が秦氏の「漢人の親族、其家富饒」、「これ国家の宝なり」と讃えたという伝 承は衝撃的だ。たとえ推古朝の史実ではないとしても、奈良時代平安時代のこの渡来系氏 族の隆盛ぶりがそこに表現されている。秦氏の一族の山背国における権益は卓越したもの があったろうが、それが宇治川を境に北に展開していることが、この伝承に示唆されてい るのである。 この伝承からすれば、六世紀初めにこの宇治の地に造られた宇治一一子塚古墳も、秦氏の ものである可能性を考えてみたいのである。 164
とになるわけである。 山背の秦氏 継体が河内馬飼首や秦氏といった渡来系勢力を尊重したことは、ここまでの検討からも 明らかになってきたといっていい。 その秦氏の本宗家ともいえるのが、山背国葛野郡の秦 氏である。近年、京都市右京区の太秦和泉式部町周辺で、五世紀後半ころの渡来人の集落 跡が発見されるなど、かって考えられていたより数十年早くこの太秦周辺に渡来人ーー・秦 氏ーーが居住していたことが判明した。この遺跡からは、 --2 字型に曲がる煙道をもっ竪穴 式住居や、韓式系土器、初期の須恵器などが出土しており、明らかに渡来系の集団の住居 人 来が並んでいたと考えられる。 と太秦の南部にある天塚古墳からは、広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の両方が出土してい 天る。時期は , ハ世紀初頭、まさに継体天皇の時代である。被葬者は当該期の秦氏の族長に違 体 継 この氏が継体天皇に重視されていたことの現われといえよう。六世紀に人ってか もり かたぎはら 章 五らも、この地域と隣接する樫原・山田には清水塚古墳、天鼓ノ森古墳が造られており、彼 らの勢威が継続・伸長しているのがわかる。太秦の一族も、樫原・山田の一族も、その勢 てんこ やましろかどの
とともに、山を開墾しての畑作や猪などの狩りも盛んであった。秦家は、平安時代から鎌 倉・室町時代と、荘園領主などに対して、この浦の管理と海産物の徴収や貢納を主導して仕 えてきた。若狭一帯の各地で秦氏一族はこのような役割を以って膨張してきたのだろう。 この集落から約二キロ東南へ行った福井県若狭町に、三生野遺跡という古代の集落遺跡 だいっきながくびつほ がある。五世紀前半頃の朝鮮系の土器 ( 台付長頸壺 ) を出土した遺跡で、ここに渡来人の 居住したことが推定されている。考古学上も、若狭に渡来人がいたことが確認されている のである。 若狭最大の豪族・膳氏 かしわで 来この若狭における最大の豪族といえは、膳氏である。秦氏はおそらく膳氏の配下にあ とって様々な形で貢献していたのだろう。ここで若狭の膳氏について少し述べたい。 天 膳氏という豪族は、代々天皇の食材の調達・調理を役割として奉仕した。本拠は大和国 体 みけつくに へぐり 継 平群郡だったが、若狭国の遠敷郡や三方郡は、塩や魚介類などを朝廷に多く納めた御食国 ・つじふみ 章 五として有名で、特にこの豪族の重要な拠点であった。その伝承をまとめた『高橋氏文』に 第 は、以下のようにある。 みしようの 139
私はこの時期こそ若狭国造が中央の膳臣の一族に組み人れられた時期ではなかったかと 考える。彼らは渡来系の秦氏を配下に治め、塩業や海産物の流通などに駆使していたのだ ろう。膳氏だけのカでは、これらの仕事は出来なかったに違いない。 若狭には古墳群が多 いが、そのなかには秦氏のものもきっと含まれていると思われる。 秦氏はここから、この高島へ抜ける山道を通り、琵琶湖へ出たものと思われる。四 5 五 世紀に高島に定着し、即位前の継体にとって身近な存在だったであろう渡来の人々も、お そらくこの若狭からやってきた人々であろう。のちに彼らは秦氏と呼ばれることになる。 河内馬飼首の貢献 来継体がそもそも渡来人と親近な間柄にあったことを示す伝承が、『日本書紀』にある。 うまかいのおびと と第二章で挙げた河内馬飼首の物語がそれである。即位を大臣・大連から勧められてもす 天 ぐには決断できなかった彼に密使を送り、大臣・大連らの本意を伝え、決断を促したのが、 体 あ、りこ 継 河内馬飼首荒籠だった。 章 五河内馬飼首は、朝廷の馬の飼育・調教と貴人の従駕を職掌とする氏族である。そもそも ) 日本列島に馬が渡来したのは、四世紀末 5 五世紀初めころで、それまではこの列島に馬は じゅ・つが
力は継体朝に人って継続し、拡大していったとみえる。 おとくに もずめくるまづか こうした状況からすると、乙訓地方、現在の京都府向日市にある物集女車塚古墳も秦氏 の造ったものである可能性が高いように私は思う。広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の両方 を出土した古墳である。立地からすれは、樫原・山田より数キロ南の向日グループに分類さ れているが、この地域の首長墓は三世紀末から五世紀初頭ころまで大きな勢力を維持した ものの、その後ほとんど中絶しており、ここで系譜はいったん切れているとみるべきである。 むしろ先に触れた清水塚古墳、天鼓ノ森古墳を造営した樫原・山田グループが、その勢いを 伸はして南のほうにまで進出し、物集女車塚古墳を造り上げたのではないかと私は思う。 まんだ 物集女車塚古墳の被葬者に関しては近年、中村修氏が茨田連説を唱え、このほか向日神 むとべ 来社の神官である六人部氏や地元の物集氏などもその可能性が指摘されている。また一部に と土師氏とする説もあるが、奈良時代以前に土師氏が乙訓にいたかどうかについては賛否両 天 論あるところである。 継 清水みき氏は、乙訓地方のさまざまな豪族を検討した末に、「古墳時代の乙訓の首長像 章 五を探るのに、古代の文献史料に限ると、秦氏関係の史料はなじまないといえる。勿論、秦氏 が六世紀中ごろに乙訓の首長として擡頭していたことを肯定する史料も、否定する史料も むこ・つ 1 ) 7
第五章継体天皇と渡来人 ・集落遺跡 〇古墳 ( 群 ) 0 ゲンゲ谷古墳 太秦古墳群 長保寺遺跡・ 蔀屋北遺跡河ー 内 森小路遺跡 0 芝山古墳 日下遺跡 大 , 隊湾 茨田安田遺跡 汀内溯 こで発見された井戸枠は、実は準構造船 ( 丸 木舟の両舷に高い舷側板を立てて波除けとした 船 ) の一部が転用されたものであった。馬は こういう船に乗せられて朝鮮半島から運はれ、 河内湖のほとりで下ろされたのだった。この - っすまさ 遺跡の東に隣接したところに太秦という地名 が残り、五 5 七世紀ころの約二十五基の古墳 群がある。そこは、渡来人秦氏のもうひとっ の拠点であった。 わみようるい この地域にも秦氏がいたことは、『和名類 氏しゅしよう まった 秦聚抄』に「河内国茨田郡幡多郷」という地名 郡がみえることや、近世に秦村・太秦村といっ 台茨た地名があったことなどから推測されている。 と 牧さらに『古事記』仁徳天皇段には、 内 河 はた 149
非葛城連合 このようにみていくと、そこに 継体支持勢力 + 有明海沿岸勢力 葛城系勢力 という構図をみることができるだろう。 前著では継体を擁立した勢力の主体は、「葛城氏とその同族を除いた非葛城連合」だっ たと述べた。「葛城氏とその同族を除く中央 ( 畿内 ) 豪族の大半は、近江、越前、美濃な どに豊かな経済力を保有する継体を結束して擁立し、政権基盤の建直しを図った。これに 対して葛城氏とその同族は、一部の仁徳系王統と結びついて継体と距離を置いた」と考え 。十年の時を経て、私は継体支持勢力に帰国首長や秦氏など渡来人、さらには九州の有 明海沿岸勢力の一部も加えたい。畿内の非葛城連合と近江・越前・尾張といった継体の出 身地周辺の勢力、それに帰国首長や秦氏など渡来人、さらには九州の有明海沿岸勢力、中 ー 86