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検索対象: 継体天皇と朝鮮半島の謎
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1. 継体天皇と朝鮮半島の謎

このころの大王家はまだ一個の親族集団として確立しきっていなかったわけである。 当時の大王家が自立した親族集団に成長しえていなかった現われとして、もうひとっ指 摘できるのが、傍系王族たちのありようである。五世紀代の王族のなかでも三世王や四世 王になると、大王との血縁も薄くなり、その政治的立場が弱まっていったことは想像に難 祖父が大王であったという二世王 ( 孫王 ) ならまだしも、曾祖父が大王だったと いう三世王、さらにその子の世代の四世王になると、おそらく随分な数に上ったであろう し、もはやそれほど貴重な存在ではなかったであろう。大王になれる可能性も少なくなっ ていったに違いよ、。 後世であれば、臣籍降下という制度があり、こうした王族は源姓や平姓を賜り、一般の 貴族として生まれ変わることになる。このような制度が始まるのはおそらく七世紀の前半、 こ・つぎよく じよめい 舒明から皇極朝ころとみられる。それは丹比公、猪名公、当麻公など、確実に天皇の後裔 と認められる氏族が、この時期までに皇族としての立場から公姓の豪族としての立場に転 じている事実が確認できるからである。しかしそれ以前においては、どれほど遠い傍系で、 王位に就く可能性はほとんどなくとも、なおも「 5 王」と名乗っていた 。王族と非王族の 境が分明でなかったのである。

2. 継体天皇と朝鮮半島の謎

しかしこ もちろんこの高島郡にゆかりの深い有力者の墓であることは言うまでもない。 こまで見てきたようなこの古墳の副葬品ーーとくに金銅製の冠と大刀、沓、馬具の類 は、終始高島の在地豪族であった三尾氏の墓にしては、いささか豪華すぎるのではないか。 三尾氏はたしかに継体にとっては母親の出身氏族であり、最初の后妃の出身氏族でもあっ た。しかし中央に進出して顕著な活躍をした形跡はなく、終始この地方の在地豪族として の性格を変えることはなかった氏族である。 高橋克壽氏は、この古墳が高島という地方に在りながら、畿内的な特徴も持っているこ にじようざん とを指摘する。具体的には、大和と河内の境にある二上山の白石を使った畿内の家型石棺 が採用されていること、畿内型の円筒埴輪を中心とした埴輪が導人されていることなどで ある。そこから氏は、この古墳の被葬者が「畿内の王権と、より直接的な関係にあった」 ことを推測し、「鴨稲荷山古墳の被葬者像は、在地勢力としての評価だけではとらえられ ない」という。やはり単なる地方豪族とはいえない可能性があるのだ。 みすらかなぐ 森下章司氏は、この古墳に埋葬された冠・美豆良金具・沓の三種の装身具はセットで作 られたものであり、被葬者の葬儀に当たって特別に作られたものと思われるという。この ことからしても、この古墳の被葬者は王権から破格の扱いを受けた人物だった。具体的に ー 32

3. 継体天皇と朝鮮半島の謎

ー継体天皇という五代の系譜が出来上がる。また母方の伊久牟尼利比古大王 ( 垂仁天皇 ) ー伊波都久和希ー伊波智和希ー伊波己里和気ー麻和加介ー阿加波智君ー乎波智君ー市利比 弥 ( 振媛 ) という七代の系譜が出来上がる。「上宮記一云」は『記・紀』の記さない継体 天皇の詳しい出自を伝える貴重な史料であり、さらに詳細な研究が必要になるだろう。 なせ仁徳系王統は滅んだか 雄略のあと、なせ仁徳系の王統は存続できなかったのだろうか。『記・紀』は当時、王 位継承資格者が不足していた様子を詳しく説く。たしかにこのころの大王には子どもが無 かったり、いても女子ばかりといった例が多い。その結果次第に皇位継承資格者が減り、 まついに子どものいない武烈天皇が崩御した時点で、仁徳以降の天皇の子孫は男系では皆無 のになってしまったように記されている。しかしそれだけが王統交代の原因ではないだろう。 雄略が王位を得るために障害となる王族を次々と消していったことも、大きな原因である。 新 当時の王位を狙う皇子たちの多くは、母方の豪族の支援を受けて、ライバルたちと争っ 章 雄略にとって異母兄弟や従弟たちは、警戒すべき相手であり、同じ一族という意識は 第 乏しかったのだろう。むしろ母方の親族こそ、わがミウチという意識だったとみられる。

4. 継体天皇と朝鮮半島の謎

州、なかでも有明海沿岸の首長連合が、「王権の動揺期」において「急速に勢力を強め、 独自に各方面へと勢力を拡大した」とみる。 大王の指令による渡海か、彼ら自身の主体的な意思による渡海かで、その評価もすいぶ ん異なるが、私が強調したいのは、どちらにしても彼らはいやいや半島へ渡ったのではな しとい , っことだ。 とうませいた かって藤間生大氏は、磐井の乱を「度重なる大和朝廷の朝鮓出兵に動員搾取されてきた 西日本人民の不満が爆発したもの」と論じた。近年も山尾幸久氏は、対新羅戦に備えて大 政加羅国が要請した援軍派遣に応諾した継体が九州に出した「徴兵命令」に対し、「迷いに 大迷った」磐井が「命令を拒否」して抵抗した戦いだったという見方を示している。 力しかし、朝鮮半島への外征あるいは外交派遣は、豪族たちにとって先進文明に触れ、こ れを摂取するチャンスであ「て、歓迎こそすれ、不満のもとになるようなことではなか「 海た。中央の指令でなく自らの意志で渡海する豪族もいたに違いない。だからこそ、彼の地 有 に定着してしまう倭人も少なからずいたのだろう。 章 六事実『日本書紀』には、磐井と同族の筑紫君一族が、磐井の乱後も朝鮮半島で活動して いたことを一小す記事がある。 193

5. 継体天皇と朝鮮半島の謎

と中央豪族による合議制が確立したのである。この間、吉備氏や葛城氏など有力豪族は雄 あんかんせんか 略によって退けられ、筑紫君磐井は継体朝に制圧され、安閑・宣化の母方である尾張氏も 継体天皇の崩御のあとに駆逐されたらしい。大王と対等に近い勢威を誇った雄族や、地方 の有力豪族は政権中枢から排除され、一方で大伴氏や物部氏、それに蘇我氏らが台頭した のだった。こうした大まかな把握には間違いはなかったと考えているが、ここまで述べて きたようにまだまだ未解明の問題も多い 継体天皇が近江や越前に土着した遠い傍系王族の子孫であったとしても、他にも同じよ うな境遇の王族はいたはすである。そのなかでどうして他ならぬ近江を地盤とする彼が、 大王の地位につけたのか。また近江出身の彼が大王位についたにもかかわらず、政権の中 ま枢が近江や越前に移ったわけでも、この地域の豪族が政権の中枢に居続けたわけでもない。 ムロ の大伴氏や物部氏や蘇我氏といった中央豪族が、こうした地方豪族を排除して私の言うとこ この十年の ろの中央豪族合議制を始めるようになったその経緯や背景も明らかではない。 た 新 内に新たな謎が生まれた。 章 私は新たな考察の始まりを継体天皇のふるさと、近江国高島郡から出発させたいと思う。 第

6. 継体天皇と朝鮮半島の謎

位置し、また阿倍氏の本拠地にも近い。『日本書紀』によれば、最初に継体を次期大王に 推したのは大伴金村だった。継体は自らの後ろ盾となってくれた有力豪族の本拠地に招か まがりのおおえ れたわけである。彼の年長の皇子、勾大兄皇子 ( のちの安閑天皇 ) は蘇我氏の本拠地に近 まがりかなはし ひのくま やまとのあやうし い勾金橋宮 ( 現在の橿原市曲川町 ) に人り、檜隈高田皇子 ( のちの宣化天皇 ) は倭漢氏の ひのくまいおいりの 本拠である檜隈廬人野に人った。倭漢氏はかっては葛城氏の配下であったが、その衰退後 は蘇我氏の配下に人った渡来系氏族である。父とともに大和に人った安閑と宣化は、いず れも蘇我氏の勢力圏内に定着したのだった。このことは、大伴氏とともに蘇我氏が継体の 大和定着に大きな役割を果たしたことを一小唆しているのだろう。 たけしうちのすくね 蘇我氏は葛城氏と同じく武内宿禰の後裔を称する氏族で、巨勢氏や平群氏などとともに、 もとは葛城氏の傘下にいたものと思われるが、同氏の衰退後は同族たちの盟主的存在に成 長していく。それまで反継体側にいた彼らが、同族内の主導権を掌握したのち、一転して 継体側に回ったことが、難航していた継体の大和定着の実現に大きく寄与したのではない かともみられるのである。 このように考えていくと、つまるところ継体の大和定着は、葛城氏の権益を相続した蘇 我氏と手を結んだことによって実現したと言っても過言ではないことになろう。それまで ー 88

7. 継体天皇と朝鮮半島の謎

なったのか、と、う司、 し卩しに対するひとつの回答にもなるだろう。前著に詳述したところだ が、ム「、もこ , っした老ノえに亦夂化はよい。こ。こ、 地方に土着した傍系王族継体がどのようなプ ロセスで台頭し、大王位を得たのか、まだまだ謎は多い。同じような立場の王族は他の各 地にもいた可能性はあろう。なせ彼らではなく、継体が大王になれたのか。どこに彼の利 点があったのだろうか。 継体の支持基盤 今から四十年前、継体天皇Ⅱ息長氏説を唱えられた岡田精司氏は、「継体天皇の出自と その背景 5 近江大王家の成立をめぐって 5 」という論文のなかで、 継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。その出自は『古事記』の所伝どおり近江に あり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力を握った。近江の豪 族たちは、その恵まれた地理的条件によって早くから水陸の国内商業活動に従事し、 さらには日本海航路による朝鮮貿易も行なったらしい。その豊かな経済力および交易 による広域の地方豪族との連携が、継体の簒奪を可能にした。継体自身も商業活動の

8. 継体天皇と朝鮮半島の謎

とともに、山を開墾しての畑作や猪などの狩りも盛んであった。秦家は、平安時代から鎌 倉・室町時代と、荘園領主などに対して、この浦の管理と海産物の徴収や貢納を主導して仕 えてきた。若狭一帯の各地で秦氏一族はこのような役割を以って膨張してきたのだろう。 この集落から約二キロ東南へ行った福井県若狭町に、三生野遺跡という古代の集落遺跡 だいっきながくびつほ がある。五世紀前半頃の朝鮮系の土器 ( 台付長頸壺 ) を出土した遺跡で、ここに渡来人の 居住したことが推定されている。考古学上も、若狭に渡来人がいたことが確認されている のである。 若狭最大の豪族・膳氏 かしわで 来この若狭における最大の豪族といえは、膳氏である。秦氏はおそらく膳氏の配下にあ とって様々な形で貢献していたのだろう。ここで若狭の膳氏について少し述べたい。 天 膳氏という豪族は、代々天皇の食材の調達・調理を役割として奉仕した。本拠は大和国 体 みけつくに へぐり 継 平群郡だったが、若狭国の遠敷郡や三方郡は、塩や魚介類などを朝廷に多く納めた御食国 ・つじふみ 章 五として有名で、特にこの豪族の重要な拠点であった。その伝承をまとめた『高橋氏文』に 第 は、以下のようにある。 みしようの 139

9. 継体天皇と朝鮮半島の謎

がある。豪族まで枠を広げれば、最初の遣隋使小野妹子、最初の遣唐使犬上御田鍬など、 近江の豪族が渡海した記事は数多い おおわけ 王族の海外派遣ということでいえは、敏達天皇六年に大別王という王族 ( 出自は不明 ) が使者として百済に派遣されたという記事もある。 大和政権の命で外征に赴いたのか、使者として赴いたのか、あるいは自らの意志で渡海 したのかは定かでないけれども、鴨稲荷山古墳の被葬者と即位前の継体が五世紀後半ころ、 共に半島へ渡り、特に百済と交わりを結んで帰国した可能性を私は思う。 先に鈴木靖民氏が「五世紀後半、倭王の指揮・命令の下 この推測は私が最初ではない。 に百済や伽耶での軍事に従った倭人は少なくな」いとし、「磐井や即位前の継体も外征に か参加した可能性がある」と述べている。ただ、鴨稲荷山古墳に武具はあっても甲冑はない ことからすると、彼には武人的性格は薄い。これは継体にもあてはまるのではないか 皇「外征」の可能性は少ないように思う。 章継体と武寧王の厚誼 すたはちまん 前章の冒頭に、和歌山県隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡を、五〇三年に武寧王が即位前 みたすき 239

10. 継体天皇と朝鮮半島の謎

後、母と共にその生家のある「越前三国」「高向」に移り、そこで即位直前の五十七歳ま で過ごしたように圭日かれている。 きゅ・つし 『古事記』の所伝は、「帝紀」・「旧辞」という朝廷に伝わる古い天皇家の系譜・伝承に基 づいて書かれたものと推定されるのに対して、『日本書紀』とそのもとになった「上宮記 一云」の記述は、継体の母布利比売の母方である余奴臣 ( 江沼臣 ) の関与した伝承に基づ いたものであり、この氏の出身地である越前寄りの内容になっている可能性がある。余奴 臣 ( 江沼臣 ) は、現在の石川県加賀市に本拠を持っ豪族だからである。 皇余奴臣は「上宮記一云」中に名前の見える二つの豪族の内のひとつであり、この史料の 体作成にこの氏族が関わっている可能性は極めて高い。そのため、夫を亡くした彼女が故郷 との越前高向へ帰り、そこで継体は養育されたというのも、疑わしいと私は考える。むしろ 島『古事記』の「袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて」という記述を重視すべきであり、 高 国近江とのつながりのほうが強かったとみられる。何より継体の母布利比売自身、母方は余 奴臣 ( 江沼臣 ) であっても、父方は近江国高島郡の豪族、三尾氏なのであるから。 章 三尾氏の祖先伝承は、『古事記』垂仁天皇段と、『日本書紀』垂仁三十四年条とに記され いわっくわけ ている。『古事記』では、垂仁天皇の皇子の石衝別王が「羽咋君・三尾君之祖」であると すいにん えぬま