首長 - みる会図書館


検索対象: 継体天皇と朝鮮半島の謎
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1. 継体天皇と朝鮮半島の謎

この大刀が贈られたのではないとみているからだ。 では当時の大和政権は、なせ江田船山古墳の被葬者にこうした破格の内容の銘文をもっ 大刀を与える必要があったのだろうか。彼を懐柔することが雄略朝の政権にとってどうい うメリットがあったのだろうか ひとつは第四章で述べたように海外で勲功をあげた、いわば国際派の首長を味方に引き 付けておく必要からであった。広帯二山式冠を贈ったのはその狙いからであろう。 銘文付の大刀が贈られたのには、もうひとつ大きな理由があったとみられる。この刀が 政造られたのは、磐井の乱が勃発する四十年くらいも前である。だから、磐井より一世代く 大らいは上の人物の時代になるけれども、すでにその本拠地である筑後地方を中心に柳沢一 カ男氏が名づけられた「有明首長連合」とでもいうべき在地豪族たちの首長連合が形成され、 せきしんやま 五世紀前葉に造られた石人山古墳 ( 全長一二〇メートルの 相当な実力を蓄え始めていた いしびつやま 海 月前方後円墳 ) に始まり、五世紀中葉の石櫃山古墳 ( 全長一〇〇メートルの前方後円墳 ) 、五 - つらやま 有 世紀半ば過ぎの浦山古墳 ( 全長八〇メートルの前方後円墳 ) と、継続して大きな前方後円 六墳が八女・久留米地方に造られてきたことがそれを示している。有明海沿岸一帯の首長墳 第 を中心に広範囲に分布する石製表飾 ( 石人石馬 ) も、この首長連合の存在を証明する遺跡 17 )

2. 継体天皇と朝鮮半島の謎

される。 かい′」め その次に造られた首長墳が、五世紀後葉とみられる垣籠古墳である。全長六〇メートル の前方後円墳で、周濠をもつ。後円部には横穴式石室が備えられていたとみられており、 出土した埴輪からいわゆる尾張型埴輪が見つかっている。この尾張型埴輪とは、東海地域 に特徴的な円筒埴輪で、これが五世紀後半から六世紀前葉に畿内の北部に波及していく。 詳細はのちほど説明しよう。 ここまで長浜茶臼山古墳、村居田古墳、垣籠古墳と、五世紀前葉から後葉にかけて、長 浜古墳群では切れ目なく全長一〇〇メートルから六〇メートルまでの前方後円墳が続いて いたのが、以後途切れてしまう。これと人れ代わるようにして勃興するのが、その南にあ る息長古墳群だ 新興の息長古墳群 じようのう 息長古墳群は、古墳時代前期に定納 1 号墳、定納 5 号墳といった小古墳があるが、前者 は前方後方墳、後者は方墳で、前方後円墳ではない。 古墳時代中期に人っても平塚古墳と いう首長墳が現れるが、これも円墳あるいは帆立貝式古墳である。このころまでは、どこ

3. 継体天皇と朝鮮半島の謎

ぎないが、現在私が考えているのはこうである。 ます長浜古墳群に最初に出現した大首長墳、長浜茶臼山古墳は、これ以前の湖北地方の 首長墓とはスケールも格段に違い、段築と葺石を備えた本格的な前方後円墳であった。も ともと在地の勢力にこれだけの古墳を造ることは難しいだろう。中央からこの地域に土着 した勢力が最初に造った、いわば初代の王墓ではないかと思われる。時期は五世紀前半か ら中ごろにかけて ( 四二〇 5 四三〇年代 ) と考えられる。応神天皇が四世紀末から五世紀 初頭の人物とすると、その皇子の若野毛二俣王の墳墓にふさわしい。彼は近江の坂田郡の 土豪の娘と婚姻してこの地に土着化したのであろう。 長浜茶臼山古墳の次の世代に当たるのが、村居田古墳である。年代は五世紀半はから後 半にかけてとみられる ( 四五〇 5 四七〇年代 ) 。全長一〇〇メートルとも言われるが、そう だとすると長浜茶臼山古墳と同等かこれより大きかった可能性が浮上する。阿蘇溶結凝灰 岩 ( 阿蘇ピンク石 ) を使っているところなどは、九州地方との結びつきを思わせる。私は おほほど おしさかおおなかつひめ これを若野毛二俣王の子どもの意富富等王の墓に当てたい。 意富富等王の妹の忍坂大中姫 は允恭天皇の皇后であった。允恭天皇は『宋書』倭国伝にみえる「倭王済」とみられ、こ の王は西暦四四〇年 5 四五〇年代ころに在位した。意富富等王は允恭天皇と同世代だった むらいだ

4. 継体天皇と朝鮮半島の謎

ていたことを何よりも反映していよう。雄略を頂点に戴く中央の王権が、「此の刀を服す る者は長寿にして子孫洋々、王の恩を得る也。その統ぶる所を失はず」と約束したことが、 この地の石棺が中央に運はれている事実と見事に符合しているのだ。 有明首長連合の解体か衰弱か 雄略が江田船山古墳の被葬者を特に厚く遇したのは、半島から帰国した首長を重視する 政策に加えて、先にも述べたように有明首長連合を牽制し、その一角を切り崩す狙いもあ 「たと思われる。事実、五世紀末葉に磐井の本拠地である八女・久留米周辺の古墳は、最 大近の柳沢一男氏の論考によると「一時的に衰退」したという。 と カ前著で私が依拠した十六年前の柳沢氏の論考では、五世紀前葉に成立した有明首長連合 が「磐井の乱後に解体するまでのほば一世紀のあいだ」継続したものと考えられてきた。 臈しかしその後、同氏は考えを「訂正」し、有明海沿岸地域に「 8 期段階の盟主的首長墳が 欠落している」ことから、 8 期半ば過ぎ ( 四八〇年ころか ) に「有明首長連合は解体し 章 六た」とした。但しその後再び有明海沿岸には、岩戸山古墳のような盟主的首長墳が造られ るようになる。このことからすれば、私は 8 期段階の盟主的首長墳の「欠落」は、有明首 ー 79

5. 継体天皇と朝鮮半島の謎

。時期は , ハ世紀後半。田中王塚古墳 古墳と共通する石屋式という特徴の石室をもっていた から約百年後である。田中王塚古墳の被葬者を、その死後百年経っても慕い、尊敬してい たこの地の有力者が代々営んできたのであろう。 あどがわ 田中王塚古墳は、高島平野の中でも南部にあたる安曇川より南に造られた最初の首長墳 である。これ以前この地域に全長数十メートルの古墳が築かれたことはなかった。安曇川 の北には、古墳時代前期から継続して全長三〇メートル級の前方後円墳や円墳が築かれて いるが、これと比べると、田中王塚古墳の造られた安曇川以南は、新しく開墾された土地 ということができるかもしれない。 或し ( 、ま安曇川以北に居た勢力が南にも分岐し、勢力を 伸張していったのが、以南の勢力なのかもしれない。 豪華な装飾品が出土・鴨稲荷山古墳 田中王塚古墳より東南へ約二・五キロ降りた鴨川流域に、これより約七十年ほどのちに かもいなりやま 造られた前方後円墳がある。豪華な金銅製装飾品が多く発掘されたことで有名な鴨稲荷山 古墳である。現在、高島市歴史民俗資料館のある高島市鴨から北へ二五〇メートル行った ところにあるこの古墳は、既に墳丘は失われており、二上山の白石で造られたという家形 いわや

6. 継体天皇と朝鮮半島の謎

大須一一子山古墳の規模は、最近全長一三八メートルあったとの説が唱えられている。時期 は , ハ世紀初頭ころ、断夫山古墳より一世代前の尾張最大の首長の墓であろう。味美一一子山 古墳は、全長九四メートルの前方後円墳で、 , ハ世紀初頭の築造。断夫山古墳のあとも、こ の周辺では大きな古墳が造られる。白鳥古墳は全長七〇メートルの前方後円墳で、年代は 六世紀前半 5 中葉とみられる。 尾張連出身の継体妃 尾張連出身の継体妃「目子郎女」について、『古事記』は七人いる后妃のうち三尾氏出 わかひめ もとのきさき 身の「若比売」に次いで二人目に挙げ、『日本書紀』は「元妃尾張連草香女、目子媛」 と記す。『記・紀』ともに仁賢天皇の娘「手白香皇女」との婚姻は即位にあたって行なわ れたと記しているが、『日本書紀』の「元妃」という表記は、それ以前においては目子媛 あんかんせんか が継体の正妻であったことを示していよう。その息子安閑と宣化が即位していることから も、その母方である尾張氏の勢力の程が知られる。 第一回の高島古代史フォーラムにおいて、私は長年にわたり全国の古墳を踏査された考 なかっかてるよ 古学者中司照世さんに、純粋に古墳だけで比較すれは、近江・越前・尾張・美濃・若狭な めのこ いらつめ しらとり めのこひめ 2

7. 継体天皇と朝鮮半島の謎

おちのあたえ ろである。東宮山古墳のある伊予国には、その西部に越智直の本拠があるが、『日本霊異 記』上第十七には、この氏の人物が百済救援のため渡海した際の伝承が収められている。 もちろんこれら威信財 ( 冠と大刀 ) を与えられた首長の中には、帰国首長でありかっ継 体支持勢力でもあった者、また渡来人だった者など複数の特徴に当てはまる者が含まれて いる可能性も考慮すべきだろう。 ここで整理すると、雄略朝段階では半島で勲功をあけ帰国した首長たちに対してのみ配 布されていた広帯一一山式冠が、継体朝になって継体の身内や側近と、秦氏を中心とする渡 来人にも与えられるようになるのである。その結果、広帯二山式冠を保有する首長は大き く増加し、一躍この冠が国内における政治的地位の象徴として評価されることになったと みられる。 では、広帯二山式冠を与えられた首長と捩じり環頭大刀を与えられた首長とには、何か 大違いがあるのだろうか 冠 高松氏は、広帯二山式冠と捩じり環頭大刀の発見された古墳を比較して、「出土古墳の 章 四階層的位置に関しては、広帯一一山式冠のほうがやや高い可能性もあるが、比較的似た傾向 にあるといえるだろう」とし、広帯二山式冠のほうが捩じり環頭大刀より「畿内とその周 ー 21

8. 継体天皇と朝鮮半島の謎

( 「埴生坂本陵」 ) とみられるポケ山古墳が一二二メートルと、雄略陵の半分くらいの全長 になってしまう。各地の首長たちの古墳だけでなく、大王たちの墓まで小さくなっていっ たのだ。この辺りにも雄略没後の大王たちの衰勢がうかがえるように私は思う。これと比 べると、今城塚古墳の全長一九〇メートルという規模は、王権の復活が象徴されているよ うだ。そしてこの古墳が、先にも述べたようにそれまで大王陵が営まれた大和川流域を離 ほくせつ れ、北摂の淀川流域に築かれたことも、継体朝の新しさを表わしているようにみえる。 『日本書紀』の所伝 雄略が樹立した専制王権は、彼の死後永くは続かなかった。清寧・飯豊・顕宗・仁賢・ ま武烈と小刻みに大王が交代していくなかで王権は衰退し、六世紀初頭に武烈天皇の死を以 のって、それまでの仁徳天皇に始まる王統 ( 仁徳系王統 ) は終焉を迎える。 『日本書紀』継体天皇即位前紀に、継体天皇の出自とその生まれた経緯が記されている。 新 ひこ・つし ひこふとのみことほむた おおど 章 (<) 男大迹天皇〔更の名は彦太尊。〔誉田天皇の五世孫、彦主人王の子なり。母を 第 ふるひめ 振媛と日ふ。振媛は、活目天皇の七世の孫なり。 いくめ

9. 継体天皇と朝鮮半島の謎

代は名前は残っていないかもしれないが、塚の越古墳と山津照神社古墳の年代の間に造ら れたとみられる狐塚 5 号墳は、この人物の古墳かもしれない。全長約三〇メートルの円墳 で、豊富な形象埴輪が出土している。 坂田から息長、高島へ ここまで想像も交えながらではあるが、長浜古墳群と息長古墳群の首長墓の被葬者を大 胆に推定してきた。これを系図にしてみると、次のようになる。 る を長浜茶臼山 ( 6 期 ) ↓村居田 ( 7 期 ) 垣籠 ( 8 期 ) 塚の越 ( 8 期 ) 狐塚 5 号 ( 8 期 ) ↓山津照神社 ( 9 期 ) 田中王塚 ( 7 期 ) ー↓今城塚 ( 9 期 ) ↓ の 皇 鴨稲荷山 ( 9 期 ) 天 体 継 息長真手王 章 継体天皇 第 大郎子皇子 若野毛一一俣王ー意富富等王 きつねづか 坂田大俣王 乎非王 〇 彦主人王

10. 継体天皇と朝鮮半島の謎

よしょ・つ 「欽明紀」十五年十二月条、百済の王子余昌が、新羅攻撃を図るが苦戦し、父の聖明王は 敵に捕らえられ、殺されてしまう。余昌自身も敵軍に囲まれ、身動きが取れなくなってし まった。この苦境を救った弓の名手として「筑紫国造」という人物がみえる。 この「筑紫国造」の名前は何と言うのかわからない。しかし筑紫君磐井の一族であるこ とは間違いなく、世代から言えは磐井の子どもであっても不思議はない。記事は「欽明 紀」十五年条だから、磐井の乱の後なのであるが、その後も半島に留まり独自の活動をし ていた者がいたのである。 連携と緊張 雄略は、伽耶や百済との国際的なパイプをもっ有明海沿岸勢力の力を利用しながらも、 彼らの首長連合がさらに結東を強め、拡大化することを警戒していた。彼が江田船山古墳 の被葬者に広帯二山式冠を与え、また破格の内容をもっ銘文付大刀を与えたのは、この有 明海沿岸の首長連合の本拠地と目される八女・久留米地域のちょうど背後にあるからだっ た。有明首長連合を構成する首長たちをある意味で分断し、その結東を妨害するのが狙い だったとみられる。馬門ピンク石を畿内にとり人れた継体は、こうした政策を引き継いで ー 94