をつとめる家以上に「家」であり、会社の人間関係こそ、真の家族関係といえるものである。サ ラリーマン以外の日本の男たちも、多数を占める勤め人たちのこうした企業一家意識に影響され ていて、それぞれの「おふくろ幻想」の中に埋もれることで安全を感じている。 日本の家族とは、実はこうした男たちによって「おふくろ」の外側につくられた、「補完的な ふくろ」にすぎないのだから、「おふくろ幻想」は日本の家族のあり方を見えないところで規定 している。 日本で大人と言われている人々は、それぞれの「おふくろ」との幻想的な融合状態のもとで、 「おふくろ」にファルス ( 男根 ) を提供したつもりになっている精神発達上の幼児たちである。 パイオニアの指導者たちは期せずしてその幻想的融合を切断し、日本のサラリーマンに去勢を 施した。去勢のあと、人は「母ーのファルスとしてではなく、自分のファルスを持って生きると いう精神的成熟を遂げなければならなくなる。 この事件についての情報から、去勢の痛みを体験して成熟できる人々はごくわずかだろうが、 その少数の人々の振る舞いの変化は周囲に影響を与え続け、やがて多数の人々の成熟を促すはず である。 こうした深いレベルの変化は、その当座は、「アレ ? という程度のかすかな違和感としてし か意識にのばらない。そして、じわじわと効いてくる。この事件を経験してからの日本人が、そ 244
″聖なる母と″淫蕩な女々 んとう 男性優位の社会は女性に対して〃聖なる母〃と″淫蕩な女〃の分裂した役割を押しつけてき た。〃かあさん〃や″おふくろ〃に対する男たちの熱い思いが、女性の子育てを聖化し、人々は 母親という言葉を聞いただけで無限の慈愛や無条件の献身を期待してしまうようになっている。 母親による虐待は、人々のこうした期待を裏切ることによって、父親の虐待よりも注目される きゅうだん ことになる。社会は虐待する母親を徹底的に糾弾することによって、聖母イメージを維持しよう としているかのようにも見える。 女性自身も、母親は子どを . るはずたというⅢの期待に縛らていて、どうにも相性の ゝ 0 合わない子どもを持た、、親は自分を母親失格とて責めることになり 女性たちは長い間、聖母のイメージを逆手にとり、家の中の世話焼き仕事を通して家族を支配 することに喜びを感じてきたのだが、最近の日本における出生率の低下は、女性たちが聖母の期 待に応えることに疲れて、母親役割を回避しようとするようになってきていることを示してい 実際、子どもの生命を危険にさらすような暴力は、むしろ父親から発せられていることが多 しかし、世間はとりわけ実母による子どもの虐待ということに注目し、反応する。 いんと、つ
をつらいと感じなくしているうちに、喜びの感情もまた薄くなってしまった。 二〇年ほど前、精神科医になって数年したころ、私は都会の大学病院の神経科外来で、「みん な、能面のような顔をしているなあ」と思った。今、街ですれちがう人、電車で向かいに座って いる人が同じような表情をしている。 商品としての機能だけが強調されて、感情が鈍麻に向かうとき、行き着く先は人間のロポット 化である。 ところで、他人にとっての価値によって印分の・価値を・はがなどい・う度は共依にがなら と るない つまり、ロボ。ト化ば共依存によ。つ」、て相互に結ばれた人間関係が連組しし・て続ぐテな社・ え 見会の中で、はじめて適応的どなるよ一プな生ぎ方なのであ - る。 このような社会は「嗜癖化社会」とも呼べると思うが、その中で「健常」とされる人々の多く 分 自は、サラリーマンらしさ、教師らしさ、父親らしさ、男らしさ、子どもらしさなどの役割をロポ 人ット的に演じている。 都合のいい女 章 九ロボット化した女性たちの中で目立つのは、伝統的なお買い得商品とされてきた良妻賢母ロポ ットである。この人々の空虚を指摘して、そこに中身を入れていくという作業は大変むずかし 231
しかし私はプロの物書きではないから、新聞連載のように毎週決まった量の文章を書くとなる と、そのことに気を取られてしまう。 前記のカナダ旅行から帰国した直後から、児童虐待の問題が私の視野に入ってきて、連載がは じまったころには「子どもの虐待防止センタ 1 」というものを発足させていた。これについての 大忙しの経緯が連載コラムに反映されることになった。 児童虐待の問題とは別にバタ 1 ド・ウーマン ( 夫や性的パートナーから暴力被害を受けている女 性 ) を暴力男から逃がすといったことや、息子や娘の暴力で家から追い出された親たちの相談に のることも私の仕事の一部なので、これにからんだことも書かせていただいた。 本にまとめる段階で、連載では舌足らずだった部分を大幅に加筆したり修正したり、最近考え たことを追加したりした。 そういうわけで、この本には、ここ数年の間の私の仕事 ( 精神科の臨床医だが、現在は研究所で 給料をもらっている ) が反映されている。そのため、仕事上の知り合いがところどころに登場す る。名を隠す必要もない知人たちを除けば、本人が特定されてしまうようなディテールは慎重に ゆが き避けたり歪めたりしたつもりだが、当人が読めば、モデルが自分であることに気づくかもしれな え ま 可能な人々には、本書で取り上げることは了解していただいたが、そうできなかった人々につ
れ以前の日本人ではなくなってしまったことに気づくのは、はるか後世になってからのことであ ろ一つ。 あこう 平成パイオニアの三五人のサラリーマンたちは会社に首を切られ、元禄赤穂の四七人のサムラ イたちは自分で腹を切った。ともに悲劇だが、日本社会に及ばす影響の大きさから見れば、平成 しの の去勢悲劇のほうが、元禄の事件より重要であると、私は思う。元禄忠臣蔵を凌ぐ平成サラリ 1 マン悲劇は、今、誰によって書かれているのだろう。 る 一番大切なこと え 見年に二回、土曜日から日曜日にかけて、ナバ ( Z 〕日本アノレキシア・プリミア協会 ) の ワークショップというのがある。ナバというのは過食・拒食症の女性たちの自助的な集まりだ 分 自 が、メンバーが全国に散在しているので、定期的に一泊二日のワークショップを開いている。 の 人原則として親子のペアで参加してもらうことになっていて、合わせて一〇〇名ほどが参加す る。親子に分かれて、ミ 1 ティングや各種のセラピーを行なうというプログラムだが、その内容 ーも うんぬん 云々よりも、同じ問題を抱えた人々が一堂に顔を合わせること自体に意味があるのだ。寝室も親 九同士、娘同士で集まってもらう。一緒に食事し、一緒に入浴する。ほとんどの人々は、夜遅くま で話し合っている。
こうした幼児的でナルシシズム的な世界は、日本の企業人にとってはむしろ適応的なのであっ て、こうした世界での幼児的一言語と論理が、「大人の考え方 , として通用するところにわれわれ の社会の真の恐ろしさがある。 この世界に慣れてしまうと仕事以外の個人的な責務の一切が無視されるが、その中には自分の 家族における夫、父親としての家族メンバーの情緒的安定に寄与するという役割も含まれる。日 本 ( というより東アジア一般 ) の家族には「秀才優遇処置」ともいナベキ一・・種の家父長育成システ ムがあって、ども時代カら勉強さえできればその他一切の責務が免除されてきたから、夫とな り父親となっても、仕事人としての自分の役割を主張する一」とによって 1 家庭内の責務を放り出 すことが可能なのである。 日本の水商売を支え、酒類産業を支えているのはこうした中年男性たちである。この人々にと っての最大の楽しみは飲酒しながら仕事上のあれこれを点検することなのだが、それは酔いの中 では自分のナルシスティックな力を無拘束に誇示することができるからである。 したがって、彼らは互いのナルシシズムを尊重し合える飲み友だちや取り巻きの維持に熱心 ー」なのであ で、こうしたグループこそ、この手のワ 1 カホリックにとっての真の「ファミリ る。日本の水商売、とくにこうした職場過剰適応のエリートを扱う、高級なバーやクラブはこの 手の人々の幼児性をくすぐることを主眼に運営されている。こうしたところで働く接待の女性た 240
な気分を受け入れるようになった。薄紙をはがすように楽になったのは、それからのことであ る。そしてある日、その日は <<<< 二〇周年記念集会という面倒な仕事を何とかこなした翌日だっ たのだが、起きてみると、空はみずみずしく青く、風はさわやかに薫っていたという。 ビルという男は、長い間「偽りの自己ーを生き、断酒後二〇年という時間をかけて「生き生き とした自己」「真の自己」を取り戻したというわけである。 人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけがない。二〇世紀の後半、私たちはい きつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認しようとしていた。そして、目前の仕事や名 と る誉やセックスや金儲けを追求してきた。 え めいりよう 見世紀末の今、「酔いから覚醒へ」の動きが、人々の間で徐々に明瞭になってきているように思 われる。若い人々の自己啓発セミナーや新・新宗教への関心は、そうした動きのひとつの表現だ 分 おぼ 自と思うのだが、覚醒に伴う孤独の苦痛を避けようとすると、たちまち次の酔いの中に溺れてしま さが 人うのが、私たちの悲しい性である。これを書いている今、オウム真理教に魅入られる若者たちの ドグマ ことが話題になっているが、特定の教義の中で葛藤を解消することと魂の成長とを混同してはな 、も らないだろう。 九人は少々プル 1 な気分で、適度な寂しさを抱えながら生きるのがいい 。そんな日々の中でこ みちばた そ、もう一人の人との出会いが何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡 もう かくせい かっとう かお 2 5 1
たど 辿っているのである。 それではこの人たちがアルコール依存症にならなかったり、その妻にならなかったりすればい 「生き残れた」としてよいか、ということになるが、そうとも言えないところにこの言葉の本当 のむずかしさがある。 ある男が六〇歳近くになって、こう言ったそうだ。 「俺はおやじのようにだけはなるまい と思って必死で生きてきた。そして、この年になって思 うことは、おやじと俺のちがいはただ一つだけ、おやじは酒で死んだが、俺はそうではなさそう だとい一つことだけだ」 この男は父親から受け継いだ飲酒以外の生活の仕方、価値観の持ち方、とくに人間関係のあり 方のことを言っているのである。 要するに、ここで言う「生き残り」には、酒や夫のために生きないで「自分のために生きる」 という意味が含まれているのである。ズ・必刺に・し 3 ら、・・、ぞ・・の・配耳・苛にいを・引屋、れ・プを・し・しぞ「 ~ / も人のためにだけ生きて自分の生に喜びを見いだせなければ「生き残れている」とは言えな の多くは「よい子」として育っと前に書いたが、それは , 、引自分の欲求や感情に沿っ て生きることがむずかしいからであるそういう人々の中には、他人の役に ~ 、ていないとき ていてはいけないような気がして、人の世話を一生の仕事として選ばうとする人が多い。
ない男たちの本音はスリリングに響く。それが聞ける場所は、ここしかない。 臨床家としての私は、中年男のアル中の治療から仕事をはじめた。それから妻たちの共依存、 娘たちの摂食障害、息子たちの非行やクスリ乱用、子どもたちの学校不適応につき合うようにな たど り、とうとう児童虐待にまで辿り着いた。 そんな二十余年を経て、今また、中年男の問題に回帰しようとしている。ただし、今度は自分 自身のためである。 若い治療者から悩む中年男へ。これが私の成長であったというわけだ。 「みは恵み」という言葉がある。悩みだけが人に成長をもたらすと思うので、私は周囲の悩ん でいる人々に「おめでとう」を言う。 ( アルコホリックス・アノニマス ) の創始者の一人であるビルという中年男は、アルコホリ ックとしての生活から抜け出したとたん、うつ病になった。 彼を救ったのは、抗うつ剤でも精神療法で その後、二〇年近くをうつ病者として過ごしたが、 , もなかった。 聖フランシスの洞察に発する「悩みも恵み」という言葉に接してから、ビルは孤独感とプルー 「悩みは恵み」 250
て貧弱なものになってしまった。 学校でしくじって学校嫌いになった子どもは、今や病気を自称して日中を寝て過ごすか、犯罪 こうした「学校嫌い犯 者のように「摘発」を恐れながら世間の目を逃れて暮らすかしかない。 罪」を犯すことの恐怖にかられながら、今の子どもたちは必死で学校へ通っているように思われ る。 ち学校はそれ自体、子どもたちにとって最大のストレスであるという現実を、われわれはもう少 もし受け入れたほうがよいのではないか。学校としう共同社会がどもたちにとストレスであ 子り続けるのは仕方がないとしストレスを限度以内に押さえる方向への努力か大人たちに 清されているのではないだろうか。 な き現在のような状況が続く限り、ここからは一定数の子どもたちが犠牲の野羊としてドロップア らウトしていく。彼らにとってはたとえ自己破壊的なものであるにせよ、シンナーや非行の仲間か 否らの誘いは、それ自体救いである。 校精神発達の極期にある人々を多数集めて教育するという仕事は、考えてみれば恐ろしいような ことである。知育に徹するという割り切り方でもしない限り、問題の多様性に応じ切れないのか 七もしれないが、現実に社会が学校に期待しているのはそれ以上のことである。今や教師は、でき 第 ないことをできないと、はきり一一 = ロうべきではないか。 191