了解 - みる会図書館


検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

無実体性の見解を確立しなければなりません。この見解を確立するための方法は、第一には、前 節で述べたように、「無知が対象を把握する仕方ーを理解することであり、第二には「そのよう に誤って把握された対象 ( 実体 ) は実在しない」という結論に達することです。そして、第三に は、瞑想の実修において、あなたの心を理解したことに慣れ親しませることです。そのとき、あ なたは実体に関する誤解を取り除くことができるのです。 無知の対象が実在しないことを了解しなければ、あなたは実体に関する誤解そのものを取り除 くことはできません。「対象を真実に存在すると思い込むもの」である無知こそが、生まれ変わ り死に変わりしつづける悪しき循環の種子、すなわち根本原因なのです。ですから、空性の了解 ( 空性の直接的な理解による了解、体得 ) を通して無知を一掃することによってのみ、私たちは、 輪廻における転生を起こさないようにできるのです。 方法上の注意事項 ( 誤った取り組み方 ) 私たちは、働き過ぎで疲れれば、休憩を取ります。休憩は、一時的には助けとなりますが、実 際にはそこにある本当の問題を解決しません。問題を克服するためには、問題に敢然と立ち向か 、実際にそれを解決することが必要なのです。 同じように、無知も、〃可も思わない〃 という瞑想を提唱する者たち ( 不思不観、無念無想を主 まかえん 張する中国の禅師摩訶衍 ) が主張するように、単に″あなたの心の働きを閉鎖すること〃によっ て排除することはできません。むしろ、あなたは積極的に「空性を理解する智慧ーについて瞑想 332

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

のです。空性を理解する智慧は、煩悩 ( 特に煩悩の根本である無知 ) をその潜在的な部分に至るま で完全に根こそぎにすることができるものなのです。 このような理由から、あなたが仏陀の境地を達成するためには、空性の意味を理解することが 絶対に必要不可欠なのです。そして、空性の意味を理解するには、訓練 ( 空性について学び考え て、正しく理解し、この理解を瞑想を通して心に馴染ませ、了解・体得するという聞と思と修の実践過 程 ) が必要となります。なぜならば、後述するような不適切な受け手は、空性を、「空虚さ」、す なわち「何もないこと ( 全無 ) 」と同一視したり、誤解したりするからです。空性とは、そうし た在り方を少しも含意してはいないのです。 では、私たちが経験する物事、すなわち現象は、何について空なのでしようか。中観学派によ じしよう れば、空性とは、「一切の現象が固有の本体 ( 自性 : ・原因と条件に依存せずに実在しているとされる もの、あるものをほかならぬそのものたらしめている実質的な本体、つまり実体のこと ) について空で あること」、「物事が固有の本体を欠いていること、もたないこと」なのです ( 以下の空性に関す きびゅう る議論は、主としてダライ・ラマご自身の属するゲルク派が最高の哲学的見解とみなす中観帰謬論証派 にもとづいて、行なわれています ) 。 空性、究極の菩提心、秘訣の適切な受け手 はじめに空性を理解するようになる過程があり、その次に理解した空性 空性と究極の菩提心 に自分の心を慣れ親しませる過程があります。ここでは、この両者を合 304

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

私と私のものという観念は輪廻の根本 さて、この無知は、どのように輪廻の根本としてはたらくのでしようか。「自己は実体的に存 がしよしゅう 在している」という生得の観念 ( 生得の無知 ) は、「自分に属するもの . という観念 ( 我所執 ) を 生じます。自分に属するものを″私のもの ( 我所 ) 〃と見なすのです。次に、この観念は、以下 に見るように、私たちに悪しき行為をさせながら、執着を生じさせます。これらの悪しき行為が、 輪廻上の転生を生みだします。 転生というものは、のちに何らかの結果をもたらす行為 ( 業 ) に依存しています。この行為自 身は煩悩によって引き起こされます。たとえば、「私の」幸福への欲望は、このような幸福を願 うという態度のもっ過失を私たちに気づかせないようにします。ですから、″私〃と〃私のもの〃 を実体的に存在していると見なすことは、「生得的な傾向」なのです。そして、これが輪廻の根 本としてはたらいているのです。 5 無実体性の見解を確立するための方法 無実体性の見解を確立して無知を排除する方法 実体に関する誤解 ( 物事を実体視する誤った理解、無知の働き ) を排除するためには、あなたは 3 尹第 8 章空性を了解する智慧

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

" 私。もまた分解します。これと同じように、まさに人が亡くなったあとにその肉体を残してい くように、 " 私。も捨て置かれることになります。そのうえ、 " 私。が真実として心身の構成要素 と同一であるならば、たくさんの構成要素があるので、ひとりの人のなかにたくさんのその人自 身 ( 私 ) があることになってしまうでしよう。 ' 私。が心身の構成要素と別であれば、自己、すなわち現世の″私〃と来世の " 私〃とのあい だに何の関係もなくなって、それらは同一の「心の連続体に属さないということになってしま います。したがって、現世の人格的個体によって行なわれた「功徳を得る善き行為 ( 善行 ) 、は、 その人の来世へと続く「心の連続体、に影響を与えないでしよう。しかし、この場合、その人が 前世の人格的個体と関係していない以上、来世の人格的個体が経験することは何でも、その人が 自ら経験しなかったということから、原因も条件もないことになってしまうのです。 こんなふうにして、あなたは、人格的個体が真実として心身の構成要素と同一で 分析を終えて あるとか、別であるとかという見解をもっことが誤りであるとわかります。こう した了解は、「実体的に存在する人格的個体、真実に存在する人格的個体、あるいは独立自存的 な人格的個体はない」という理解へと私たちを導くのです。そうしたことを突きとめてしまった とき、あなたは人格的個体の無実体性 ( 人無我 ) を了解・体得したということになるのです。 私のものと他我の間題 ( 関連課題と発展課題 ) 338

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

います。それは単なる哲学的な仮説でもなければ、虚無的な見解でもありません。なぜならば、 空性の理解は、「依存して生じること」を理解することへと私たちを導くからです。空性とは、 あらゆる現象の究極的な本質 ( 法性 ) を直接的に理解する智慧の「対象」なのです。しかも、こ の空性の了解・体得は、煩悩という障害 ( 煩悩障 : ・これを除去して解脱を得る ) と一切智に対する 障害 ( 所知障 : ・これを除去して仏陀の境地を得る ) という二つの障害を除き去ることへと私たちを 導きます。 集中する瞑想において無我の見解を保持するやり方 ・ゴム 心を対象に固定させる〈集中する瞑想〉のあいだ、私たちは、どのようにこの瞑想実修を行な まかえん ったらよいのでしようか。ある人たち ( 摩訶衍のような者たち ) は、ほかならぬ概念作用の働か ない心の状態にあって、瞑想することを主張します。別な人たちは、単純に心を否定対象から離 す すように教示します。これらの取り組み方はいずれも不十分なものであり、適切ではありません。 解 了 これに反して、もしあなたが分析を行なって、それ自身の権利において存在している「実体」を を 性 空 見いだせないならば、あなたは、まさにこの点について、自分の瞑想を持続させなければなりま 章 せん。 第 人格的個体の無実体性の場合、これについて瞑想するためには、あなたは、これまで述べてき たように、まず「実体視する意識 ( 生得の無知 ) が、どのようにして〃私〃を固有の本体をもっ ものであると思い込むのか、すなわちどのようにして″私〃という対象をそれ自身の側において

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

ば、そのやり方にはどこかに問題があるのです。それらの二つに関するあなたの理解が補完的で、 相互に関係があるのであれば、あなたは、ただ一つの対象にもとづいて、「依存して生じること」 と「固有の本体をもたないこと」の両方の意味を理解することができるのです。「物事の現れ方」 が極端な虚無論を暴き、空性が極端な絶対論を暴くというのは、仏教哲学の学派すべてに共通す ることなのです。 8 「空性の瞑想実修」における瞑想時間 「空性の了解」がもっ威力 しよ、つけん 私たちが空性に関する瞑想に専念しているとき、空性の見解 ( 正見 ) を妨げる「二つの避け じようけん るべき誤ち」があります。絶対論 ( 常見・ : 否定対象である実体をその最も微細な核心から否定せず だんけん に過少に否定して残滓を残し、実体があるとする場合 ) と虚無論 ( 断見・ : 否定対象を正しく確認せずに 過大に否定して全無とし、縁起説を破壊する場合 ) という極端な見解です。「依存して生じること ( 縁起 ) 」の論証がもっ顕著な特徴は、それがこれら二つの極論を同時に追い払う威力をもってい るとい一つことです % いろかたち 『太陽の光』は、〃固有の本体をもたないことという空性は、色形のあるものから仏陀の一切 と述べて を知る心に至るまで、あらゆるものに行き渡っていて、わけへだてするところはない〃 344

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

のようなものがあります。一つは、インドの偉大なる「空性説の主唱者たち」、すなわちナーガ ールジュナ、アーリヤデーヴァ、チャンドラキ 1 ルティのお名前を聞いただけで、深く信頼する 気持ちを抱くというものです。別なサインは、空性の説明を聞いたときに、その人が空性のこと をもっと知りたいという熱烈な関心と願望を起こすというものです。 なぜ適切な受け手に授けるべきか ( 空性と無の区別 ) では、なぜ、「空性を教示するにふさわしい受け手かどうか」を確認する必要があるのでしょ ニヒリズム うか。それは、もしそうでなければ、空性の教示は、人々を〃虚無論〃という極端で危険な立場 に陥らせるかもしれないからです。 もし空性がこの教えを信じて理解しようと望まない人たちに説明されるならば、彼らは、「物 むじしよう 事が固有の本体を欠いていること ( 無自性 ) ーという空性説を、「いかなるものも存在しないこと ( 全無 ) 」という説であると誤って理解してしまいます。もしそうであれば、このような人たちは、 誤解にもとづいて仏陀の教義 ( 縁起説、四諦説、業報論など ) を非難するという潜在的な危険を孕 むことになるのです。 さらに、次のような別種の危険もあります。これは、空性の哲学が過去の偉大な恩師たちによ って称讃されてきたという表面的な理由から、この哲学に興味を抱いて讃美する人たちに関係し ています。彼らは、表面的には信仰を抱いていますが、まだ空性に関する明確な理解をもってい ないために、次のことを了解してはいないのです。物事は原因と条件に依存して生じます。かか 306

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

るのです。 もしあなたが自らの生存 ( 輪廻的生存 ) の根底にある「独立自存するもの ( 実体 ) 」を措定する 感覚を否定することができるならば、そのとき、残っている存在の形式は、ただ名目であり、す なわち単なる名称、あるいは単なる名札にすぎないでしよう。空性を直接的に理解した者は、 「存在するもの ( 単なる有 ) 」と「独立自存するもの ( 実体 ) 、を区別することができるといわれて います。しかしながら、そうした人でさえ、空性を自ら直接的に理解していない人たちに対して、 空性の説得力ある説明をすることはできません。 二つの菩提心の一体化と悟りへの道 はんにやはらみつ 空性とは、私たちが〈智慧の完成 ( 般若波羅蜜 ) 〉の実際的な本質として称賛しているもののこ とです。私たちも一人ひとりが自ら努力するならば、空性は、最初はただ知的にだけ了解されま す。こうした了解は、煩を取り除くことのできる「実際的な対抗手段ーとはなりません。しか し、このあとも不断に空性の了解を心に馴染ませつづけるならば、この知的な「空性の了解ーは、 ″光明の経験 ( 空性の智慧を得ること ) 〃をもたらすための種子となります。この光明の経験が、 煩悩や内なる迷妄 ( 無知 ) を潜在的な部分に至るまで根こそぎにする「実際的な対抗手段ーなの です。 しかしながら、光明 ( 空性の智慧 ) は、憐れみの実践や世俗の菩提心の実践といった「補足し 補強する諸条件 ( 方便 ) 」によって支えられていなければなりません。世俗の菩提心 ( 日常世界に 3 ) 2

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

1 空性と空性の教えを受けるに値する者 菩提心と悟りと「空性」理解とのかかわり 菩提心は、序章に示した定義や第 1 章にあげた「発心の詩句」からも理解できるように、 の目標から成り立っています。二つの目標とは、「一切の命あるものの福祉を目指すこと」、そし てこれを実現するために、「自らの完全な悟りを獲得しようと目指すこと」です。しかしながら、 今日、多くの人々は、「仏陀の境地は個人が達成できるようなものなのだろうか」という疑問を 抱いているのではないでしようか。 わずら こうした疑念に対しては、私たちが「煩とは、心を一時的に煩いませるものにすぎない きやくじんぼんのう ( 客塵煩悩・ : 煩悩は私たちの心の本性に根ざしておらず、仏陀になる可能性はすべての命あるものに開 かれている ) ーと理解するとき、目標達成に向けて効力を発する解答が得られるはずです。これ くうしよ、つ らの煩悩に対しては、〈空性を理解する智慧〉といった、強力で、かつ効果的な対抗手段がある 第 8 章空性を了解する智慧 ちえ さいわい 3 丐第 8 章空性を了解する智慧

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

貴重なダイヤモンド ( 金剛石 ) は、貧困を取り除き、あなたの望みをすべてかなえてくれます。 しの つまり、ダイヤモンドはその破片でも卓越した装飾品と見なされ、金の首飾りさえも凌ぐとされ ています。同様に、憐れみや忍耐を実践するとゝっこ しオ「菩提心を起こすための実践ーは、その一 部分だけでも実行すれば、それは他の実践を凌ぐすぐれたものなのです。こうした一つの要素の 実践でさえも、実践者に特別な結果をもたらすのです。 菩提心の闘士である菩薩が、仮に智慧と空性の了解にあまり積極的に取り組んでいないとしま しよう。しかしながらそれでも、彼らは、菩提心を了解しているために、ただ個人の解放だけに 従事する人たちよりもずっと勝れているのです。そして、菩薩という称号を保持するのです。そ うした人たちは、他の命あるものの幸福のために働くことができるのです。たとえあなたが単に 菩提心の願望を起こしただけで、それをすぐに実践に移すことができないとしても、あなたは、 個人の解放だけを求めている人たちが行なうような、他の諸々の実践をはるかに超えています。 輪廻的生存の貧困を取り除くことは、このような実践を通して可能になるのです。 菩提心は太陽とも比較されます。それは、太陽が昇ったとき、闇はそれを覆い隠すことができ ないだけでなく、陽の一条の光でさえも闇を追い払うことができるからです。ですから、あなた はこの教示を聞くことによって、「部分的な了解 ( ダルマの実践、心の訓練を部分的に了解・体得し ていること ) 」ができるだけでなく、「実体に関する誤解ーによって引き起こされる「自己中心的 な態度」も抑えることができます。