功徳 - みる会図書館


検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

かっ後悔して認めれば、浄化されます。それゆえに、誤った行為を懴悔すること、および誤った 行為の繰り返しを断つ自制には価値があるのです。 ずいき 第四の支分は、喜びを伴うこと、すなわち〈随喜〉です。随喜は、福徳を積むのにた 随喜 いへん有益な手段です。もしあなたが自分の行なった「功徳を得る善き行為 ( 善行 ) 」 に喜びを見いだすならば、つまり自分の行なったことに対して、「それは意味深く、祝福する価 値がある」と考えるならば、その善行の価値は増大するのです。あなたがもし何か善きことを行 なって、後悔することなく心から喜ぶならば、「随喜」にそなわる善き可能性は何倍にでもなる でしよう。これは、あなたが功徳を蓄積するのを促進する優れた方法です。同じようにして、他 者が行なう功徳を得る善き行為に関しても、彼らに嫉妬したり、競争心を燃やすのではなく、称 讃して心の底から喜ぶほうがずっと良いことなのです。このようにしてあなたは、「本源的な功 徳 ( 根本的な善 ) 」にあずかって、福徳を積むのです。 他者の功徳を喜ぶことは、他者が行なう「功徳を得る善き行為 , だけではなく、菩薩と個人の 解脱を求める者が行なう「功徳を得る善き行為」も含みます。また、それは、仏陀の身体・一一一一口 葉・心の徳性を称讃することも含みます。ですから、こうした随喜の実践は、たいへんに広大な 可能性を伴うものなのです。単に喜ぶことによって、あなたは、短時間に大きな福徳を積むこと ができるのです。反対に、ほんの一瞬の怒りや敵意が私たちの生存を永遠に不幸な状態へと進ま せることも真実なのです。 ち 8

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

うな詩句です。 他者の悪行が我身に結果しますように。 そして、私の一切の功徳が他の命あるものに結果しますように。 一切の命あるもの苦しみが我身において熟成しますように。 そして、私の功徳によって、命あるもののいずれもが幸福になりますように。 命あるものが被るかもしれないどんな苦悶も、 ただ我身にのみ結果しますように。 菩薩の積み重ねたあらゆる功徳によって、 さまよえる命あるものが至福 ( 悟り ) を享受しますように。 「与える」と「受け取る」という瞑想実修は、絶大な内なる勇気と決意をもって取りかからね ばならないものです。シャラワ大師は、第 2 章に登場したチェカワの恩師ですが、このようなこ とをおっしやっています。〃もしあなたが本当にこのような指導に自分の心を馴染ませたいのな らば、あなたの実践は、単に急勾配の坂を転がり落ちる石のようなものであってはならないし、 2

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

せます。あなたが自分の富と所有物を与えてしまうという実践に至ったとき、想像して、それら も他の命あるものを満足させる対象に姿を変えてください。そして、それらが受け取られるとき、 それらは命あるものを励まして、ダルマの実践に従事するための条件として役立っことでしよう。 善根をえる「瞑想」 次は、自分の功徳を他者に与えるという瞑想です。これまでの一連の供養とは異なり、あなた は、すでに自分がつくってきた、現在つくりつつある、そして今後つくるであろう「功徳」を、 他の命あるものにささげることができるのです。動物に対する餌の贈り物といった単純なものか ら「菩提心を起こすことーに至るまで、身体・言葉・心によるあなたの功徳を得る善き行為を、 喜び讃えながら思い起こすべきです。命あるものに、それらのすべてを与えることを観想してく たさい。 肝心なのは、まず初めに、大きな慈しみ ( 大慈 ) と、かっては私たちの母であった他の命ある ものを大事に思う心を起こすことです。彼女たちは、有暇と幸福を望むのとは逆に、苦痛と心痛 の中にあり、苦しみとその原因によって抑圧されています。あなたの功徳の贈り物によって、不 幸のなかにある全世界の命あるものをすべて救済することを想像してください。そして、彼女た ちがそれぞれに、悟りに目覚めるための完全な原因と条件を獲得すること考えてください。 204

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

は言葉によるある行為が有害に見えるような仕方で行なわれたとしても、もし他者に実際に利益 をもたらすならば、その行為は許されるのです。菩薩行に専念することについて語るとき、大切 なのは私たちが自ら臆病者にならないことです。 菩提心の退転を防ぐ方法 先に説明したように、心が衰退するの防ぐための最上の方法の一つは、第 1 章にあげた「帰依 と発菩提心の詩句ーを唱えることです。菩提心に関するあなたの実践を増強するためには、あな たは昼に三度、そして夜に三度、この実践をすべきです。 功徳を集める一一つの方法 ( 福徳聚と智慧聚 ) 「功徳」を集めるには、二つの方法があります。第一は、〈福徳の集まり ( 布施などの善行によ って得られる功徳の集まり ) 〉です。これは、憐れみ、慈しみ、そして菩提心を起こすことによっ て得られます。第二は、〈智慧の集まり ( 空性を理解することによって得られる功徳の集まり ) 〉で す。これは、特に第 8 章で扱いますが、空性の意味を熟考すること、そして「空性を理解する智 しんによ 慧ーを起こすことによって得られます。〈真如〉、すなわち〈現象が固有の実体を欠いていること ( 空性 ) 〉を理解することは、たいへん重要です。そのためには、私たちは誰でもそれを発達させ るために努力すべきなのです。もちろん、空性の意味について瞑想することは、最初は難しいで すが、もし努力するならば、空性を理解する能力を徐々に発達させられるでしよう。福徳の集ま 2 ) 4

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

あなたが死に臨んで、たいへん強力な「功徳のある善き心」を保持するならば、あなたは、ある 程度まではよりよい未来の生涯を確実に手に入れることができます。もしあなたが生きて元気に しているときに、自分らを善き実践に慣れ親ませるならば、それは臨終の際に、善き心構えを保 持することを比較的に容易にさせるのです。 それにもかかわらず、功徳を得る善き実践に自分を慣れ親しませても、臨終の際に怒りと執着 に打ち負かされることがあり得ます。そのうえ、不幸な転生を受ける大きな危険もあります。で すから、臨終の際には、私たちは心を沈着冷静にして、穏やかに自らの意識を次の生涯へと移行 するよう努めるべきなのです。誰かが死にそうなときに泣き叫んだり、嘆き悲しまないほうが賢 明です。それは、死にゆく人の心のなかの怒りや執着を刺激する可能性があるかもしれないから る です。 す あなたが自分の心とエネルギーの流出を相当に制御しているならば、心とエネルギーのより粗 転 い過程を止め、意識の最も微細な水準である〈光明〉を顕わすことができます。意識の光明は、 境 よりよい再生を引き起こします。もしあなたがこのようにすることができないならば、意識を保を 持し、悪しき思いにとらわれていない限りは、少なくとも「功徳のある善き徳性 . について熟考逆 章 してください。もしあなたがそうすることもできないならば、少なくとも大切なことは、あなた 第 の恩師と仏陀のような帰依の対象に対して、深い尊敬と信仰を抱くことです。 臨終の際に、功徳のある善良な心を起こすことは重要です。それで、あなたが生きていて元気 なときに、自分をこのような実践に慣れ親しませることが大切なのです。こうした準備もなしに、

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

もつ人たちは、他者を手助けすることの功徳・利益という視点から、同じ話を理解することがで きます。 さらに、実際に「心の変革 . をかなり達成している人たちにとっては、前項で述べたことや 『上師供養』の詩句「自分の敵として現れたとしても」からもわかるように、現れるものは何で も″一つの教え〃となります。このような人たちにとっては、日常の経験さえもが教えの源泉な のです。これは、″見えたものすべてを「心の訓練」の教示として受け取れる〃ということを意 味しています。 「自己と他者を人れ換えること」へ 自己中心性の過失、他者を大事に思うことがもたらす功徳、そして実際に自己と他者を入れ換 えた心 ( 自他平等観利他心 ) を熟考することに関しては、数多くの方法があります。『上師供養』 は、これらを結びつけて、次のように簡潔にまとめています。 簡潔にいえば、仏陀たちがただ他のもののためだけに働いているときに、 幼稚な者は、ただ自分の目的 ( 私利 ) のためだけに精を出す。 両者のあいだにある過失と功徳の違いを理解して、 自分を他者と入れ換えられるように、力を与えてください。 190

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

り菩提心の力によって、彼は自分自身に対して煩と悪しき行為にふけることを許さなかったの とき です。功徳を蓄積する行為だけを遂行したのです。はるか無限の時間を超えて、生涯から生涯に わたって、さまざまな菩薩の実践 ( 菩薩行 ) に取り組まれました。 その結果として、彼は最終的に「仏陀」という完全に目覚めた者の境地に到達されました。こ の仏陀の境地とは、心の過失 ( 煩悩障と所知障 ) を完全に離れ、あらゆる功徳 ( 福徳聚と智慧聚 ) を円満にした境地のことです。こうした理由から、 いま私たちは仏陀を二切を知る心 ( 一切 智 ) をもっ教師」と見なし、真っ先に〃帰依の対象〃とするのです。 憐れみ深い仏陀は、完全な悟りを達成することができました。なぜならば、煩に汚れた心も、 空性を本質としているからです。第 8 章で取りあげますが、空性とは、あらゆる存在の究極的な まっしよう 真実の在り方 ( 決性 ) であり、あらゆる物事が固有の実体をもたないことです。つまり、この空 性のゆえに、心の過失を除き去り、功徳を円満にし、そして一切を知る心を得ることができるの です。 仏陀と同じように、私たちも試みることができます。もしこうした試みを信頼して、途切れる ことのない川の流れのように、絶え間なく功徳を得る実践に取り組むならば、私たちは、「本質 ぶっしよう としてもっている素質 ( 仏性 : ・仏陀となる可能性・素質 ) ーを、次から次へと転生するなかでよく していくことができます。私たちの心のなかには、本質として、〈仏陀の本性・仏陀をして仏陀 ならしめているもの ( 仏性・ : 仏性には本質として生まれながらにもつものと育んで増大させるものと がある ) 〉が備わっているのです。ですから、私たちは、あらためて仏性を生みだす必要はあり 224

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

「ひれ伏して敬意を払うこと」は、思いあがりの心に対する治療薬として効き目があります。 あなたは、身体的にも、言葉のうえでも、心的にもひれ伏すのです。ここで、ひれ伏すことは、 意志・思いと言葉と行為をもって、帰依する対象の前で真心から敬虔に敬礼することに他なりま せん。 くよう 第二の支分である〈供養〉は、福徳を積み重ねるためになされます。供養する場合、 あなたは実際に供物を配置することもできますし、あるいは供物をささげるのを観想 することもできます。後者は、瞑想における心の安定 ( 止 ) を発達させて、瞑想の対象へと心を 集中させつづけることができるならば、あなたは、心のなかで供物をつくることができるという ことです。そうでなければ、あなたはこのやり方を採用することはできません。 あなたは供養のために、瞑想における心の安定を保持して、内的な力によって、いわゆる「色 かたち 形あるもの ( 色 ) ーを得るのです。そして、たとえそのような力があなたに不足していたとして 人 証 つまりあなたの持ち物を心のなかでささげることは可能です。 も、誰かの所有物ではない、 を さんげ 第三の支分である〈懺悔〉はとても重要です。私たちの心は、数多くの過去の過失と 誤った行為 ( 悪行 ) によって汚され、妨害されています。これらを浄化するための方悟 章 法は、「懺悔」と「自制」の他には何もありません。 第 ミラレバは、″もしあなたが自分の誤った行為を浄化したいと思うならば、これらの誤った行 しいました。誤った行為は、あなたが強い自責の念 為は毎い改めることによって浄化される〃とゝ をもっときに浄化されます。不徳の行為、すなわち功徳を得ることのない悪しき行為は、率直に、 00 00 しき

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

意力」を弱まらせないでください。そして、心を訓練しているときの「喜び」の気持ちを失わな しでくたさい。 三つの所持すべき行為を决して手放さないてくださ、 恩師と三宝に対して適切に尊敬を表明する行為、すなわち礼拝 ( 敬礼、頂礼、五体投地 ) をし うによ、つ たり、供養したり、寺を右遶したりする「功徳を得る善き身体的な行為ーをやめないでください。 帰依の詩句をはじめとして祈りの言葉を唱える「功徳を得る善き言語的な行為ーをやめないでく ださい。そして、菩提心を養い育てあげる「功徳を得る善き心の行為」を放棄しないでください。 ( 一四 ) もし悪習に逆戻りするならば、そのどきは治療薬どして、自分の陥った事態に て瞑想してくださ、 もしあなたの心が以前の悪い習性に再び陥って、あと戻りするならば、あなたはそれに対する 対抗手段・治療薬として、そうした事態そのものを利用すべきです。「心の訓練」の実践に入っ たとき、実践者はしばしば、″多くの人たちが、実践する自分のことをばかにしているのがわか しっそう深刻 った〃と ) しいます。このとき、実践者たちの「物事を実体視する誤った認識」は、ゝ になっています。彼らの煩悩は増大しています。衣類や食べ物といった「生活のための道具類ー 296

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

り数多く手助けするように努めるべきだということです。 もし次にあなたが困難に直面したら、誰もがあなたを助けようと殺到するで 自他の入れ換え しよう。あなたが病気になれば、人々はあなたを見舞いにくるでしよう。た かもたらす利益 とえ彼らがあなたに一杯の水のほかに何もくれないとしても。そして、最後 に、あなたが死ぬ日には、誰もが大切なものを失ったという喪失感を抱いて、 " ああ、私たちは 善き友を失ってしまった。私たちはあの人がいなくて寂しくなります〃ということでしよう。あ なたの今生における経験は、このようなものとなるでしよう。あなたは、他者とかかわることに よって、「福徳 ( 功徳が身につく善行 ) 」を積み重ねてきました。このために、さらには、続く未 来の生涯においても、あなたの幸福はただ増していくばかりです。 ですから、仏教聖典を典拠として引用したり、他者を大事に思うことの功徳・利益と自己中心 性の過失を実証するために、論理的な推理を引き出したりする必要はありません。自他の入れ換 えがもたらす利益は、私たちの日々の経験から明白なのです。 苦境を脱するには自己中心から他者大事へと態度変更する 私たちはすでに人間的な知性を得ています。しかも、私たちの誰もが、長期的には、功徳のあ る行為を行なうことの重要性を理解しています。また、はじまりすらわからない永遠の時の流れ のなかで、私たち命あるものは、幸福だけを得たいと思い、苦しみを避けたいと思いつづけてき ました。しかしながら、私たちが置かれている現在の苦境は、誰にでもはっきるとわかるもので 3 第 5 章菩提心を起こすために