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検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

うに煩悩と戦うか」という一連の方法と技術なのです。 私たちは、自分自身の経験にもとづいて、さまざまな煩悩に立ち向かう対抗手段 ( 対治 ) の適 切さを正しく評価することができます。たとえば、仏陀は、怒りと憎しみという煩悩に対抗する ためには、〈他者をいとおしんで思いやること〉について瞑想しなくてはならないと説きました。 ある対象の嫌悪を感じる側面に注意を向けることは、その対象に対する執着をそらせるのに役立 ちます。 また、第 8 章で述べるように、「物事の真実の在り方」と「物事の意識への現れ方」とのあい だには″ずれ〃があります。後者が誤りであることを示すには、多くの論理的な根拠があります。 「物事は意識に現れた通りに実在する」という観念は一つの無知であり、この無知は他の煩悩の 根本となります。〈空性を直接的に理解する智慧〉は、無知に直接働きかけて衰えさせる対抗者 なのです。 このような教理にもとづいて、私たちは、さまざまな煩悩は心を一時的に苦しめるものにすぎ ず、それらは完全に根絶やしにすることができるのだと推論することができます。心が煩悩とい う汚れから離脱するとき、心の真の本質という潜在的な能力、すなわち他のものを照らし出して 明らかに知ることが、完全に顕現します。これらに関する理解が増幅されていくにつれて、実践章 者は涅槃と仏陀の境地を得る可能性を高く評価するようになります。これは、すばらしい啓示と してやってきます。 プロセス

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

になります。あなたの心はもっと広々としたものになります。あなたは他者を向上させること でき、しかも卓越した智慧を発現させます。 さんぜ 過去、現在、未来という三世の仏陀たちが、自己中心的な態度とそれが引き起こすさまざまな えいごう 唄悩の不利益と過失について、永劫にわたって説明されたとしても、説き終わることはないでし う。ですから、私たちがこれまでに論じたのは、簡略な説明にすぎません。それでも、あなた 刀に「自己中心的な態度の過失」について気づいてもらうには十分です。それは、あなた方を啓 北して、あなた方を自己中心的な態度を取り除くための実践へと向かわせることでしよう。 「心」から心の訓練の重要性を考える 私たちは外的な出来事・事象に刺激されて、さまざまな過去の経験を積み重ねてきました。ま 、未来に対しては、「ああしたい」「こうしたいー といったさまざまな計画をもっています。こ 両者はいずれも、〃心〃を共通の基盤としています。心の本質は、「対象を照らし出して、明ら に知るもの」にほかなりません。 過去の経験は、現在は単に記憶の対象にすぎません。私たちの未来の計画は、ただの憶測にす 0 ません。このような過去と未来の出来事・事象は、まさに〃心〃がつくりだしたものです。で ツから、私たちの経験のすべては、善きものであろうと悪しきものであろうと、有害であろうと 益であろうと、心によってつくりだされたものなのです。インド人の師チャンドラキールティ 『入中論』のなかで、このように述べています。 ワ 6

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

って、祈りの言葉を節を回しながら声明のように朗唱するのでした。そして、あたかも眠りに落 ちたかのように、完全に深い瞑想のなかにあって、静かに黙したままでいるのでした。 同様に、私の恩師の一人であり、第 4 章でもふれた、今はなきクンヌ・ラマ・テンジン・ギャ じようえ ゝこ一丁くといつでも、自らの僧衣の上衣で頭を被 ルツェンは、彼の知人たちによれば、彼らが会し。彳 瞑想のなかに深く没入しているということでした。これは、私が彼の知人たちから聞いた話 です。彼らは、クンヌ・ラマが大きな声で祈りの言葉を唱えているのを見たこともなかったでし よう。それにもかかわらず、誰かが彼に近づくと、彼は頭を覆っている上衣をすぐにとって、 〃どうかなされましたかみと尋ねるのでした。 このような方たちが本当の実践者なのです。祈りの言葉や真言を大声で唱える代わりに、彼ら は自分の心を見つめているのです。彼らは心に善き思いが起こるときは喜び、それを増進させよ うと努めます。また、悪しき思いが起こるときには対抗手段を用います。こんなふうにして、彼 らはいつも自らの心を見つめながら、絶えず自らの心に注意を向けながら、一日を送るのです。 もちろん、最初はたいへん難しいのです。私の知人のうちの何人かの実践者は、第 3 章で述べた ように、〃中国の監獄にいるより、心を見つめるほうがずっと難しい〃と、私に語ったことがあ ります。これは彼ら自身の個人的な経験です。 こうした瞑想は、〈一つのものに集中する瞑想〉、すなわち対象を分析しないで、一つの対象に 自分の心的な注意のすべてを集中することです。この種の瞑想はたいへん難しいもので、あなた が対象に習熟する度合いが高まるにつれて、それは次第に難しくなっていきます。 180

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

に関して実体があるとする誤った認識」の対象は、世俗的な、すなわち日常世界における〃私〃 です。「現象に関して実体があるとする誤った認識」の対象は、日常世界における〃現象〃です。 つまり、心のなかにある無知は、私たちが人格的個体と現象という対象が、他のものに依存せず に独立自存的に存在する、すなわち固有の本体をもって存在すると見るとき、これらの対象を 〈それ以上のものととらえること ( 増益 : ・実際にはないものに対してあると措定する過剰肯定であり、 ここでは、人格的個体と現象は実際には実体がない、無自性であるのに、実体をもって存在すると見な すこと ) 〉をしているのです。 否定対象が広すぎるとどうなるか 私たちは、無我の意味を確定するためには、これらのそれ以上ものとしてとらえられたもの ( 人の我と法の我 ) を否定しなければなりません。しかし、私たちはまさに否定しようとするもの、 つまり否定対象 ( 我、自性 : ・実体 ) を正しく確認する必要があるのです。否定対象を正しく確認 できない場合には、否定対象の確認が広すぎる場合と狭すぎる場合とがあります。その結果、前 者の場合には、否定されるべきではないものまでも否定し、後者の場合には、否定されるべきも とい一つとき、 のを残してしまうのです ( 無我、すなわち「—が実体をもたない —は否定の主題、実 体は否定対象とよばれる ) 。 〈真実の存在 ( 否定対象である実体、さらには無知が実体をもって存在する、真実として成立してい せぞくうごんぜっう ると見なしたもの ) 〉と、〈日常世界における存在 ( 世俗有、言説有 : ・実体をもたずに単に存在するも ぞうやく

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

成立しているものであると思い込むのか」を知らなければなりません。〃私〃というものは、こ んなふうにも、あんなふうにも存在してはいないというだけでは十分ではないのです。ですから、 最初に重要なのは、否定対象についての明晰な意識をもっことなのです。そのあとで、否定対象 の存在を論駁するとよいでしよう。否定対象とは、「実体 ( 我、自性 ) ーのことです。ただし、こ の実体の存在を確認することなくして、あなたは無実体性を直接的に理解することはできません。 私たちが耐え忍んでいる苦しみはすべて、無知によって引き起こされます。「固有の本体」と は、この無知の対象なのです。固有の本体について空であること ( 空性 ) とは、そうした実体の 絶対的な否定、すなわち実体がないことです。ですから、瞑想するときには、先に述べたように、 最初に「否定対象ーである固有の本体を確認してください。そして、これを基礎として、無実体 性 ( 無我 ) を確定してください。 こうした無実体性に関する理解を、あなたの瞑想の対象として保持してください。そして、そ この「一つのものに集中する瞑想」 のままの状態で、対象にあなたの心を集中させてください。 は、人格的個体の無実体性に対する力強い意識によって維持されます。この意識は、″分析〃を 繰り返し適用することによって強化されるのです。何度も、無実体性を証明するために行なった 〃論証〃について熟考してください。あなたは、無実体性 ( 人格的個体には固有の本体がないこと ) を確信する力をつねに保持しなければなりません。もしすでに確信したことに対する確信力が弱 まるならば、集中したままであっても、それは空性に関する瞑想ではありません。 最初に、実践者は否定対象を正しく確認します。次に、これに対する強い確信を養い育てなが 346

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

の、他の要因に依存して生じたもののうえに仮に名前がつけられて存在するもののことであり、これを 否定しないのが帰謬論証派の立場 ) 〉とがあります。もし両者を区別するのに失敗すれば、すなわ ち否定対象の範囲を「日常世界における単に存在するもの」まで広げてしまえば、私たちは、否 定の行き過ぎから、「単に存在するもの」までをも否定してしまいます。つまり、実体を否定す るときに、否定対象が″広すぎれば〃、真実の存在と日常世界における存在が区別されずに混同 されているために、否定対象ではない「単に存在するものーまでをも誤って否定してしまうとい うことなのです ( 虚無論に陥る ) 。 そうなれば、私たちは、日常世界における正しい認識にもとづいて、「日常世界において存在 もの 1 」と している」と認められる人格的個体 ( たとえば単なる私 ) と現象 ( たとえば単なる現象 ) さえも、 主張できなくなってしまいます。そして、結果的には悟りへの道、そしてその結実である仏陀の 境地が存在することも説明できなくなります。原因と結果の法則といった縁起説が確かに誤りの ないものであることを正当に評価することができなくなるのです。 否定対象が狭すぎるとどうなるか 同じように、私たちは「否定されるべきもの ( 否定対象 ) 」を安易に見てはなりません。 換えれば、否定対象が″狭すぎて〃はいけないのです。 しほういん 仏教哲学のすべての学派が共通に認めるのは、〈四つのしるし ( 四法印 ) 〉として知られている ものです。これらの四つの要点は、仏陀の教示を実際に要約したものです。仏陀は、このように 尹 9 第 8 章空性を了解する智慧

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

げる、あなたが魔術師のように何かをつくり出すという意味ではありません。「固有の本体につ いて空であるという空性ーは、他の要因に依存して存在していることを意味しているのであり、 「依存して生じること」は、空性を意味しているのです。それで、ナーガールジュナは、〃一切の 現象は空であると知ること、および行為と結果の法則を信頼することは、最もすばらしい実践で ある〃とおっしやったのです。 人と人我と人無我、諸法と法我と法無我 こうした解釈によれば、「物事を実体視する意識 ( 我執・ : 生得の無知を指 ここでの考察課題 す ) 」が対象をとらえる仕方とは、次のようなものです。対象が人格的個 体であろうと、もの・こと ( 法 : ・特に存在の究極的な要素 ) であろうと、これらの対象は、心の働 慧 智 きによって仮に設定されているにすぎないのです。しかし、私たちはそのようには見ずに、これ る す らの対象を客観的に存在するものをもっている ( 主観とは無関係に客観的に存在している ) と見て 解 了 しまうのです。このとき、この「客観的に存在するもの ( 実体 ) 」は否定対象です。 を 人格的個体 ( 人 : ・否定の主題 ) について実体がないことは、〈人格的個体の無実空 にんむが 考察上の重要 章 体性 ( 人無我 ) 〉と呼ばれます。また、すべてのもの ( 諸法、一切法・ : 否定の主 ほうむが 語のかかわり 第 題 ) について実体がないことは、〈現象の無実体性 ( 法無我 ) 〉と呼ばれます。 〈実体 ( 我・ : 自性、否定対象 ) 〉とは、他のものに依存することなく、固有の本体として成立して いるもののことです。こうした実体のないことが〈無実体性 ( 無我 ) 〉です。そして、無実体性

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

「煩悩とは何か」を確認し、「煩悩とはどのような過失をもっているか」をさまざまな角度から熟 考し、そしてそれらを終息させるために絶えざる努力をしてください。 ( 七 ) すべてを大乗の道に転化してください あなたの活動が仏陀の境地を獲得したいという願いに動機づけられていて、命あるものに対す る慈しみと憐れみの心に伴われているとき、身体・一一一一口葉・心によるあなたの行為はすべて大乗の 実践となります。 一切の命あるものを包みこみ、しかも広く行きわたった実践を重んじてくださ、 菩提心において訓練しているとき、あなたは一部の命あるものだけを偏愛する心をもってはい ししようたいしようらんしようしっしようけしよう けません。四種類の生まれ方をした一切の命あるもの ( 四生 : ・胎生、卵生、湿生、化生 ) を差別 することなく含めてください。あなたの実践は、たとえば寺院に祈りに来る漁師のようであって はならないのです。漁師は寺院を訪れて、一切の命あるものののために祈るかもしれません。し かし、彼は家に帰れば、命あるものに含まれる「魚ーを捕えて、命を奪わざるを得ません。彼の 祈りは、彼の行動が「祈りの対象」である仏陀の助言と矛盾しているために、ほとんど影響力・ 説得力がないのです。彼の参詣は、一切の命あるものという点からいえば、参観したという性質 290

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

6 人格的個体の無実体性を確定する 人格的個体の無実体性を先に確定するのはなせか 無実体性の見解は、どのようにして確立されるのでしようか。最初に、二つの無実体性 ( 人無 我と法無我 ) を確定する順序を明らかにします。人格的個体に関する「実体ーと現象に関する 「実体」は、ともに否定されるべき対象です。中観帰謬論証派によれば、実体 ( 否定対象 ) に関 しては、微細さの点で両者のあいだに違いはありません。しかし、人格的個体と現象という実体 視される対象 ( 否定の主題 ) の性質については、微細さに違いがあるのです。このために、人格 的個体の無実体性の方がたやすく了解されるといわれています。 人格的個体の無実体性を確定する 人格的個体の無実体性を確立するためには、あなたは最初に、「自己、すな 否定の主題は人 わち人格的個体 ( 否定の主題 ) とは何か」を理解しなければなりません。仏 格的個体である 教思想のさまざまな学派によれば、これには異なる解釈があります。実体視 される実際的な対象は、″私みです。この″私〃とは、仮に名づけられた現象として、すなわち 心身の構成要素 ( 五蘊 ) という基体のうえに仮に設定されたものとして、日常世界において存在 しているもののことです。 4

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

という誤った認識におかされているように見える〃と述べています。 もし輪廻の根本となる無知を「知的に習得された無知ーであると考えて、否定対象をこの無知 の対象に限るならば、輪廻からの解放は起こりません。否定対象の範囲が″狭すぎる〃からです。 チャンドラキールティによれば、輪廻の根本にある無知は、〈生まれながらに備わっている無知 くしよ、つき ( 倶生起の無知、生得の無知 ) 〉であって、知的に習得された無知ではないのです。ですから、否定 対象の範囲は、生得の無知を基準にして確定されるべきなのです。輪廻からの解放は、生得の無 知を排除することによって得られます。 世俗有・言説有は実体なき縁起的存在である チャンドラキールティの中観学派によれば、たとえ物事が相対的に、すなわち日常世界におい て存在する ( 世俗有 ) としても、それらの物事は、正しい論理によって厳密に分析したときに、 存在することを見いだせるような存在 ( それ自体で成立しているような存在 ) ではありません。こ の解釈によれば、あなたがある現象をこのような分析にかけても、あなたはそれがそれ自体にも とづいて存在していることを見いだせません。あなたはそれが自立的に存在していることを見い だせないわけですから、結論は、「物事は他の原因と条件に依存して生じる ( 物事は縁起的存在で ある ) 」ということになります。 このゆえに、現象は、正しい認識として、名称と概念的思考によって仮に名づけられたものと して存在する ( 一言説有 ) といわれています。これは、あなたの心が好きなように何かをつくりあ 322