思いやり - みる会図書館


検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

これこそが、「ダルマ」という言葉がもっ真実の意味です。以前のあなたの悪しき思いは、除 き去られ、その人に対する善き憐れみ深い感情によって取って替わられます。私たちは、このド ラマチックな変化を心に留めなくてはなりません。これは、すばらしい意義のある大きな一歩だ といえます。ダルマの実践が真に意味するものです。しかし、それは簡単に達成できる事柄では ありません。 行動における心・動機の大切さ 心が善き力、強い思いによって支配されているとき、悪しき思いが同時に働くことはできませ ん。両者は、両立不可能な関係にあるのです。もしあなたが思いやりのある幸せな思いによって 動機づけられているならば、一見したところ悪しき行為も、善き結果を引き起こす可能性をもっ のです。たとえば、嘘をつくことは通常は悪しき行為ですが、誰か他の人を助けるために、隣れ みと論理的な思考にもとづいてそうするならば、嘘をつくことは何か善いことに転化するのです。 菩提心という利他の心は、菩薩が命あるものをいとおしんで思いやること ( 慈 ) と憐れみ ( 悲 ) の実践を行なうなかで育まれて起こってきます。ですから、ある場合には、菩薩は悪しき 身体の行為と言語の行為を犯すのを許されています。このような悪しき行為は、通常、好ましく むき ない結果を引き起こします。しかし、「動機」次第では、ときにこれらの行為は中立的 ( 無記 ) であり、そして他の場合にはすばらしく功徳をもたらすものになります。 ゆえん これらは、仏教が根本的に「心」に関係すると主張される所以です。私たちの身体の行為と言 -6

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

やりのおかげでのみ、私たちは生きながらえることができるのです。私たちの誕生ですら、両親 の思いやりを頼みとしました。私たちが享受する「生活のための道具類」はすべて、多くの命あ るものの労働のおかげなのです。それらは、まるで私たちが隠されていた宝物を見つけたときの ように、思いがけなく出現したのではありません。 名声、富、友人といったこの生涯で成し遂げたものも、ほかならぬ他の命あるもの 名声も富 を頼みとしています。たとえば、名声は、その人を知っている他者に依存していま も友人も す。誰も、何もない荒れた土地で有名になることはできません。 命あるものの恩に報いようとする ( 報恩 ) 私たちは、「命あるものの思いやりは、彼らが自分の両親だったり、友人だったりしたときに 限られるものではない と了解する必要があります。つまり、彼らの自分に対する思いやり ( 自 分が彼らから受けている恩 ) は、彼らが自分の敵であったときにまで及ぶのです。これは、私たち インスビレーション が深く熟考する価値のあるものです。深く熟考することは、おおきな加持力を得て、進んで憐 れみを養い育てあげるために役立つでしよう。 報恩は慈悲と殊勝な決意のもと このように「命あるものの特別な思いやり ( 大恩 ) 」を熟考するとき、あなたは、「彼らの思い ゝまここで、一切の命 やりに報いたい ( 報恩 ) 」というさらに強力な願いをもっことでしよう。し ー第 5 章菩提心を起こすために

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

隣れみという彼らの綱は、いつでもすべての命あるものに差し伸べられているということを思 い起こしてください。これらの仏陀たちと菩薩たちは、あなたの帰依の対象として、あなたの前 に現れていると思ってください。 なかでも最も重要なのは、次にあげる二つです。第一は、あなたのまわりに、助ける者のいな い命あるものを観想することです。第二は、苦しみと苦しみの原因から彼らを解放するために、 自分が完全に目覚めた仏陀の境地を達成しなければならないと考えることです。こうした理由か ら、またこうした動機のもとに、次にあげる詩句を三度唱えながら、仏陀たちと菩薩たちに帰依 してください。 教師 ( 戒師 ) よ、思いやりをもって私の一言葉をお聞きください。ゝ しまからのち悟りの真髄 ( 智慧と憐れみ ) を得るまで、私こと、〇〇〇は、人間のなかでも最高の方である仏陀に帰依 します。 教師よ、思いやりをもって私の言葉をお聞きください。 いまからのち悟りの真髄を得るま で、私こと、〇〇〇は、執着を離れた平和の境地状態である最高のダルマに帰依します。 教師よ、思いやりをもって私の言葉をお聞きください。ゝ しまからのち悟りの真髄を得るま ふたんてん で、私こと、〇〇〇は、最高の精神的な共同体、すなわち不退転位にある聖なる菩薩たちに 帰依します。 * 〇〇〇には自分の名前を人れてください。 ち 4

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

着したただの外来的な汚れにすぎないー とわかることです。これらは、心の本質にとっては、本 来的なものではありません。ですから、完全に取り除けるのです。これは、一切を知ること ( 一 さいち 切智 ) が私たちの達成できるものであるということ含意しています。もし私たちが一切を知るこ とを達成したならば、私たちは自然に他者を救済することができるのです。救済しようとすると きに、真剣さや献身さだけでは十分ではありません。本質的なのは、各個人の興味と受容力と心 的傾向を理解することです。そのとき、命あるものの福祉を実現しようとする私たちの努力は効 力をもち、私たちは徐々に彼らを導いて仏陀の境地に至らせることができるのです。 菩提心は他者のなかにも善い原因をつくれる 菩提心は、崇高にして最も善き意志・思いです。第 5 章で具体的に述べますが、菩提心を起こ すために、あらゆる手段と体系だった方法を講じることは価値のあることです。平凡な日常生活 にあっても、思いやりと善き心根は高く評価されるのです。これは、犬や猫のような動物につい ても明白です。やさしい、穏和な犬の方が、攻撃的な犬よりも好感をもたれます。同じことが人 間社会にも当てはまります。私たちは誰でも、周囲は思いやりのある人であって欲しいのです。 たち 彼らの平和でリラックスした性情は、人をなぐさめ、喜びで満たします。 家族の先頭に立つ者が思いやりをもち、心を広くもっとき、家族のものは心の平和を楽しみま す。口論や議論も当然起こりますが、寛容と忘却を原則として対処するならば、家族崩壊には至 りません。そうした状況のもとで、このような家族は必ず平和と繁栄を味わいます。攻撃的で、 巧 4

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

偏狭で、そして利己的な人が家族の先頭に立っときは、まったく逆になるのです。個人の段階に おいてさえも、私たちは皆、思いやりのある、心の解放された人たちを高く評価します。もし自 分の仲間に対して悪意を抱けば、私たちは自然にその人を疑います。これは、彼らを憎しみの悪 循環へと導きます。このような状況下で、平和と幸福を楽しめるでしようか。 人間は、本質的に自己中心的ではありません。なぜなら、自分本位とは、孤立の一形態のこと なのですから。私たちは本質的に自分の欲求を満たすために、他者に依存する「社会的動物 , で す。私たちは " 社会的な相互作用・コミュニケーション。を通して、幸福、繁栄、発展を達成し ます。それゆえ、思いやりのある、しかも他者を手助けする心のもち方は幸福の源泉です。そし て、菩提心はこのような利益をもたらすあらゆる「思い」のなかでも最高のものです。菩提心は、 個人を動機づけて、無数の命あるものに利益をもたらすために、完全に目覚めた者・仏陀がもっ 〈想像も及ばない徳性 ( たとえば三十二相など ) 〉を求めさせるのです。この貴い思いが、高潔な て 菩薩の行為 ( 菩薩行 ) を支えています。菩薩とは、悟り〈の道に乗り出した " 目覚めているる闘れ 士。なのです。ですから、もし菩提心の価値を理解したならば、私たちは菩提心を自分の実践の 人 中心課題にすべきです。 章 第

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

に考えてみましよう。 いまこの場合にあって、ダルマの正しい実践者、つまり心の訓練の実践者 であるためには、あなたはこのことについて″論理的に〃考える必要があります。つまり、怒り がもっ多くの過失、および憐れみの心を起こすことがもたらす「善き結果」について考える必要 があるということです。第 5 章で再論するように、あなたは、自分の怒りの対象である人も、 「幸福を得ることを望み、不幸を免れたい」という点で、まさに自分と同じであると考えること ができるのです。こうした事情のもとで、あなたはどうしてその人を傷つけることを正当化でき るでしょ一つか あなたは、このようにいって、自分自身に語りかけることができます。〃私は仏教 仏教徒の 徒なんだ。朝、目が覚めてすぐに、帰依するために、菩提心を発現させるために、 内なる声 「帰依と発心の詩句」を唱えたじゃないか。一切の命あるものために働くと誓った じゃないか。それなのに、ゝ しま、自分は残酷で、しかも菩提心からはずれたことをしようとして ら いる。仏陀の生き方を辱しめたら、どうして自分を仏教徒と呼べようか、どうして仏陀に顔を向機 動 けられようか〃と。 て べ あなたは、こんなふうに考えることによって、荒々しい態度と怒りの感情を完全に解消するこ す とができます。そして、その代わりに、〃こんなに腹を立てるなんて、なんて悪いことなんだろ 章 う〃〃その人は、なんと自分の思いやりと善意を受けるにふさわしいのだろう〃と反省すること 第 によって、穏やかで、思いやりのある考え方が喚び覚まされます。このようにして、あなたは本 当に心を変革することができるのです。

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

は、 " 思いやりのある〃 " 同情的な〃といった言葉でいいあらわすことができます。辺境の遊牧地 帯にあって、読み書きのできないチベット人でも、すべての命あるものを前世においては自分の 母親だったこともあると考えます。そして、彼女たちのために祈るのです。 私は、かってこれらの地域から来た数多くのチベット人に会ったことがあります。彼らは私 ( 一九五九年にインドへ亡命 ) に、「母なる一切の命あるもののために、すぐにチベットに戻ってく ださい」と頼んだのです。″母なる命あるもの〃というものは、チベットにしかおらず、他のど こにもいないと彼らが考えることは、ときに私に穏やかな笑みをもたらします。いずれにせよ、 重要なことは、彼らには憐れみのために命あるものを心配する「強い生来の善き性質」があると いうことなのです。 仏教はかって中国でも隆盛しました。そして、チベット人はかって中国の皇帝を、智慧の菩薩 マンジュシュリ ーの化身であると信じました。振り返ってみれば、私たちチベット人はあまりに も純真すぎて、対等に対応することに失敗したのだと、私は思っています。結果的に、私たちは 苦しまなければなりませんでした。中国共産党が政権を握ってからこのかた、大きな政治的動乱 が続いています。 彼らは、それがあたかも「毒」であるかのように、仏教を嫌っているように見えます。中国の 人たちはイデオロギ 1 教育のために、敵意、疑念、嫉妬、および他の悪しき思いをもって互いに 反発し合います。イデオロギー上の理由のために鳥や虫を駆除するキャンペーンのあいだは、子 供までも集められました。こうした状況のもとでは思いやりがあって、有徳であるはずの彼らの 8

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

でなくなります。しかし、″現実の生な生活〃のさまざまな状況に直面したときに、私たちがこ うした心境を維持するのは、本当に難しいのです。 瞑想とは、いわば現実の世界に向けて、自分を鍛えるようなものなのです。瞑想中の自分の経 験と瞑想後の自分の経験とを織り交ぜて一致・調和させることに取り組まないならば、私たちの 精神的な努力は、必要に迫られたときにその効力を発揮できないでしよう。 私たちは瞑想しているあいだ、思いやりと憐れみの心でいられます。しかし、もし誰かが私た ちに路上で嫌がらせをしたり、私たちを公共の場で侮辱したりするならば、私たちが怒って攻撃 的になる可能性は非常に高いのです。その場で仕返しさえするかもしれません。もしそんなこと が起こったら、瞑想中に発現した思いやり、忍耐、理解はすべて、即座に消滅してしまいます。 もちろん、ゆったりと椅子に腰掛けているときに、私たちが憐れみ深く、かっ利他的であるのは 極めて簡単なことです。 しかし、瞑想実修の成果が問われるテストは、何らかの問題に出会うときなのです。 ダルマの たとえば、私たちが争う機会に出くわし、そして争うことを自制してやめるとき、 真の実践 それはダルマの実践です。私たちが誰かをいじめる力をもっていて、そうすること を自制してやめるとき、それはダルマの実践です。ですから、「本当のダルマの実践ーとは、こ のような状況にあっても、自分を統制することなのです。 私は、クンヌ・ラマ・テンジン・ギャルツェンから教えを授けられているとき、彼からこんな 話を聞きました。ラサに住むある人が寺を右遶していました。そのとき、別なある人が、とある なま 112

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

もしこれらの善き実践を遵守するならば、あなたは決してあなたの恩師や友人を裏切らないこ とでしよう。他の人たちに「ダルマに関する彼らの実践」について落胆を感じさせるようなこと は許されないのです。 四つの悪しき活動 〈四つの善き実践〉と〈四つの悪しき活動 ( 四悪行 ) 〉とは本質的に相対立していますので、も しあなたが嘘をつかず、正直であり、仏陀たちと菩薩たちを讃え、そして「仏陀の境地ーの到達 に向けて働く他の人々を励まして勇気づけるならば、四つの悪しき活動は自然に止みます。私は、 あなた方が挑戦するならば、これらは難しすぎるとは思いません。要するに、「思いやりのある、 心のおだやかな人であれ」ということなのです。そして、あなたの残りの人生は、他者を助けよ うと試みてください。 もしあなたが他者を助けられないならば、何度もいいますが、少なくとも 他者を傷つけるのはやめてください。もしあなたがいま正直で、意味のある人生を送っているな らば、未来の生涯は自然に善いものとなるでしよう。 6

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

苦しみは発菩提心に活かせる 私たちの実践はすべて、菩提心という「一切の命あるもののために、完全な悟りを得ようと執 望する利他の心」を発達させることに向けられるべきです。この気高い心を起こすためには、命 あるものの苦境を理解することが絶対に必要なのです。これは、私たちが他者に対する思いやり と憐れみを起こすのを手助けしてくれます。もし私たちが苦しみを少しも経験をしていないなら ば、他者に対する私たちの憐れみは、たいしたものにはなりません。 ですから、「苦しみから解放されたいという願い ( 出離心 ) 、は、他者に対するいかなる憐れみ の気持ちにも先行するのです。私たちが行なうあらゆる実践の目標は、菩提心であるべきです。 これは、仏陀の一切の教えのなかでも至高のものであり、しかも最も貴重なものです。菩提心と いう私たちの気持ちが有効で、かっ強力であるためには、「死に関する瞑想」と「因果の法則に さらに付加するならば、「輪廻の悪しき本性に関する瞑想」と 関する瞑想」をしてください。 「涅槃の利点に関する瞑想」をしてください。これらの実践はすべて補足的なものです。なぜな らば、それらはそれぞれ、私たちを刺激して菩提心を開発させるものだからです。 ー第 4 章人間に生まれて