1 空性と空性の教えを受けるに値する者 菩提心と悟りと「空性」理解とのかかわり 菩提心は、序章に示した定義や第 1 章にあげた「発心の詩句」からも理解できるように、 の目標から成り立っています。二つの目標とは、「一切の命あるものの福祉を目指すこと」、そし てこれを実現するために、「自らの完全な悟りを獲得しようと目指すこと」です。しかしながら、 今日、多くの人々は、「仏陀の境地は個人が達成できるようなものなのだろうか」という疑問を 抱いているのではないでしようか。 わずら こうした疑念に対しては、私たちが「煩とは、心を一時的に煩いませるものにすぎない きやくじんぼんのう ( 客塵煩悩・ : 煩悩は私たちの心の本性に根ざしておらず、仏陀になる可能性はすべての命あるものに開 かれている ) ーと理解するとき、目標達成に向けて効力を発する解答が得られるはずです。これ くうしよ、つ らの煩悩に対しては、〈空性を理解する智慧〉といった、強力で、かつ効果的な対抗手段がある 第 8 章空性を了解する智慧 ちえ さいわい 3 丐第 8 章空性を了解する智慧
無実体性の見解を確立しなければなりません。この見解を確立するための方法は、第一には、前 節で述べたように、「無知が対象を把握する仕方ーを理解することであり、第二には「そのよう に誤って把握された対象 ( 実体 ) は実在しない」という結論に達することです。そして、第三に は、瞑想の実修において、あなたの心を理解したことに慣れ親しませることです。そのとき、あ なたは実体に関する誤解を取り除くことができるのです。 無知の対象が実在しないことを了解しなければ、あなたは実体に関する誤解そのものを取り除 くことはできません。「対象を真実に存在すると思い込むもの」である無知こそが、生まれ変わ り死に変わりしつづける悪しき循環の種子、すなわち根本原因なのです。ですから、空性の了解 ( 空性の直接的な理解による了解、体得 ) を通して無知を一掃することによってのみ、私たちは、 輪廻における転生を起こさないようにできるのです。 方法上の注意事項 ( 誤った取り組み方 ) 私たちは、働き過ぎで疲れれば、休憩を取ります。休憩は、一時的には助けとなりますが、実 際にはそこにある本当の問題を解決しません。問題を克服するためには、問題に敢然と立ち向か 、実際にそれを解決することが必要なのです。 同じように、無知も、〃可も思わない〃 という瞑想を提唱する者たち ( 不思不観、無念無想を主 まかえん 張する中国の禅師摩訶衍 ) が主張するように、単に″あなたの心の働きを閉鎖すること〃によっ て排除することはできません。むしろ、あなたは積極的に「空性を理解する智慧ーについて瞑想 332
のです。空性を理解する智慧は、煩悩 ( 特に煩悩の根本である無知 ) をその潜在的な部分に至るま で完全に根こそぎにすることができるものなのです。 このような理由から、あなたが仏陀の境地を達成するためには、空性の意味を理解することが 絶対に必要不可欠なのです。そして、空性の意味を理解するには、訓練 ( 空性について学び考え て、正しく理解し、この理解を瞑想を通して心に馴染ませ、了解・体得するという聞と思と修の実践過 程 ) が必要となります。なぜならば、後述するような不適切な受け手は、空性を、「空虚さ」、す なわち「何もないこと ( 全無 ) 」と同一視したり、誤解したりするからです。空性とは、そうし た在り方を少しも含意してはいないのです。 では、私たちが経験する物事、すなわち現象は、何について空なのでしようか。中観学派によ じしよう れば、空性とは、「一切の現象が固有の本体 ( 自性 : ・原因と条件に依存せずに実在しているとされる もの、あるものをほかならぬそのものたらしめている実質的な本体、つまり実体のこと ) について空で あること」、「物事が固有の本体を欠いていること、もたないこと」なのです ( 以下の空性に関す きびゅう る議論は、主としてダライ・ラマご自身の属するゲルク派が最高の哲学的見解とみなす中観帰謬論証派 にもとづいて、行なわれています ) 。 空性、究極の菩提心、秘訣の適切な受け手 はじめに空性を理解するようになる過程があり、その次に理解した空性 空性と究極の菩提心 に自分の心を慣れ親しませる過程があります。ここでは、この両者を合 304
" 私。もまた分解します。これと同じように、まさに人が亡くなったあとにその肉体を残してい くように、 " 私。も捨て置かれることになります。そのうえ、 " 私。が真実として心身の構成要素 と同一であるならば、たくさんの構成要素があるので、ひとりの人のなかにたくさんのその人自 身 ( 私 ) があることになってしまうでしよう。 ' 私。が心身の構成要素と別であれば、自己、すなわち現世の″私〃と来世の " 私〃とのあい だに何の関係もなくなって、それらは同一の「心の連続体に属さないということになってしま います。したがって、現世の人格的個体によって行なわれた「功徳を得る善き行為 ( 善行 ) 、は、 その人の来世へと続く「心の連続体、に影響を与えないでしよう。しかし、この場合、その人が 前世の人格的個体と関係していない以上、来世の人格的個体が経験することは何でも、その人が 自ら経験しなかったということから、原因も条件もないことになってしまうのです。 こんなふうにして、あなたは、人格的個体が真実として心身の構成要素と同一で 分析を終えて あるとか、別であるとかという見解をもっことが誤りであるとわかります。こう した了解は、「実体的に存在する人格的個体、真実に存在する人格的個体、あるいは独立自存的 な人格的個体はない」という理解へと私たちを導くのです。そうしたことを突きとめてしまった とき、あなたは人格的個体の無実体性 ( 人無我 ) を了解・体得したということになるのです。 私のものと他我の間題 ( 関連課題と発展課題 ) 338
にどんな行動をすることもできるのだ〃と主張するのは、間違っているのです。 実体のないものは果を生する能力をもち、因果関係は成立する ドムトウンパはかってある人に、〃私の手は本質として空であり、そして火も本質として空で ある〃と語りました。しかし、このことは、ドムトウンパが火のなかに手を入れたとしても、手 は燃えないという意味ではありません。これは、私たちが自分の手を火のなかに入れれば、手は 燃えるのですから、手も火もともに確かに存在しているのだということを示しているのです。 しかし、その存在するものの本質 ( 存在するもの・ことの真実の在り方 ) は、数多くの要因に依 存しています。あなたが空性を「他のものに依存して存在すること」という点から理解するなら ば、空性の理解は力をもつものとなり、あなたを鼓舞して、原因と結果の法則 ( たとえば、善い 原因に対しては好ましい結果が生じ、悪しき原因に対しては好ましくない結果が生じるといった因果関 係としての縁起 ) をより厳密に遵守する気持ちにさせることでしよう。 空性に関する教示が「適切な受け手」に伝授されるとき、彼らの空性に関する理解は、「物事 は原囚と条件に依存して生じる」という理解の仕方を補足して、完全なものにするでしよう。結 果的に、彼らは、繰り返される未来の生涯においても「空性の理解」を追究するために、好まし い境涯に転生することに向けて、必要な原因と条件を積み重ねなければならないと了解・納得す るのです。ですから、彼らは、純粋な行動規範を遵守すること、もの惜しみのなさを実践するこ と、忍耐を実践することなどといった「手段 ( 方便 ) 」に従事するのです。このようにして、彼 丿 08
あなたは、ただ焦点を、人格的個体からあなたの身体や一冊の本などといった現象へと変える だけなのです。そして、現象もまた究極的には一でもないし、多でもないということを確認する のです。 人格的個体の心身の構成要素 ( 五蘊 ) といった現象 ( 諸法 : ・物事 ) は、真実には 現象は部分 一であることを離れていますし、多であることを離れています。なぜならば、現 か、り成る 象は「部分をもつもの」だからです ( すべての物事は、それを構成する部分に分解 でき、それらの部分に依存している ) 。したがって、現象は固有の本体をもっていないのです。 私たちは自らの物質的身体、すなわち肉体のなかに、視覚機能などの内的な諸要素 ( 六内処 ) をもっています。そして同じように、私たちはまた、視覚対象などの外的な諸要素 ( 六外処 ) に 依存してもいます。それらの内的な諸要素と外的な諸要素のあいだにある依存的な関係は、容易 に理解できます。 すべての現象は部分をもっており、部分に分解できないような現象はどこにもありません。何 かが色形をもっているならば、それは部分をもっています。色形をもつもの ( 物質的なもの ) と は、いろいろな空間的方向に広がるものだからです。もしそれが意識のように色形のないもの ( 非物質的なもの ) であれば、その部分とは、意識という連続体を構成する一瞬一瞬を指します。 こうしたことを理解することは、「依存して生じること ( 縁起 ) 」の論証をより 現象の存在の 理解しやすくします。現象は、日常世界における存在、名目上の存在をもって 仕方と縁起 いますけれども、もしあなたが分析的に現象を追究するならば、それを見出す 340
るのです。 もしあなたが自らの生存 ( 輪廻的生存 ) の根底にある「独立自存するもの ( 実体 ) 」を措定する 感覚を否定することができるならば、そのとき、残っている存在の形式は、ただ名目であり、す なわち単なる名称、あるいは単なる名札にすぎないでしよう。空性を直接的に理解した者は、 「存在するもの ( 単なる有 ) 」と「独立自存するもの ( 実体 ) 、を区別することができるといわれて います。しかしながら、そうした人でさえ、空性を自ら直接的に理解していない人たちに対して、 空性の説得力ある説明をすることはできません。 二つの菩提心の一体化と悟りへの道 はんにやはらみつ 空性とは、私たちが〈智慧の完成 ( 般若波羅蜜 ) 〉の実際的な本質として称賛しているもののこ とです。私たちも一人ひとりが自ら努力するならば、空性は、最初はただ知的にだけ了解されま す。こうした了解は、煩を取り除くことのできる「実際的な対抗手段ーとはなりません。しか し、このあとも不断に空性の了解を心に馴染ませつづけるならば、この知的な「空性の了解ーは、 ″光明の経験 ( 空性の智慧を得ること ) 〃をもたらすための種子となります。この光明の経験が、 煩悩や内なる迷妄 ( 無知 ) を潜在的な部分に至るまで根こそぎにする「実際的な対抗手段ーなの です。 しかしながら、光明 ( 空性の智慧 ) は、憐れみの実践や世俗の菩提心の実践といった「補足し 補強する諸条件 ( 方便 ) 」によって支えられていなければなりません。世俗の菩提心 ( 日常世界に 3 ) 2
を投射している ( 他のものに依存して生じている ) 」というものです。 たとえば、幻術師が幻術を用いて石を″馬〃に変えたとしましよう。このとき、幻術によって 顕現した″馬 , は、幻術師の視覚によって直接的に認識されています。しかし、彼は内心におい て、「顕現した馬がまやかしであること ( 真実としては成立していないこと ) 」、および「顕現した 馬が本当には馬でないこと ( そのように馬として顕現していること ) 」を知っています。ですから、 彼は馬が本質として幻のようであると知っているのです。幻術師と同じように、ある人が空性を 直接的に理解するならば、諸々の物事が真実に存在しているように現れているときでも、その人 はそれらの物事を幻のようであると見るのです。 空性の理解 空性に関する瞑想をはじめたときは、たとえば「人格的個体という否定の主題」と「人格的個 体に措定される固有の本体という否定対象」が入り混じっており、幻のような顕現は微力なので す。ですから、私たちが自らの「空性。理解を本当に改善し得る一定の段階に到達するまで、私 たちにとって、「実際の存在の仕方」と「固有の本体」を判別することはたいへん困難なのです。 確かにそうなのですが、私たちは存在に関する限り、疑いを抱く必要はありません。なぜならば、 それは私たち自身の経験によって疑いのないことが証明されているからです。このことは、私た ちが「現象は本質的に他の要因に依存している」ということを証明するときに、「現象の在り方 あるいは本質は、独立自存的である」ということを否定しようと論証を適用する前提となってい 丿第 8 章空性を了解する智慧
います。それは単なる哲学的な仮説でもなければ、虚無的な見解でもありません。なぜならば、 空性の理解は、「依存して生じること」を理解することへと私たちを導くからです。空性とは、 あらゆる現象の究極的な本質 ( 法性 ) を直接的に理解する智慧の「対象」なのです。しかも、こ の空性の了解・体得は、煩悩という障害 ( 煩悩障 : ・これを除去して解脱を得る ) と一切智に対する 障害 ( 所知障 : ・これを除去して仏陀の境地を得る ) という二つの障害を除き去ることへと私たちを 導きます。 集中する瞑想において無我の見解を保持するやり方 ・ゴム 心を対象に固定させる〈集中する瞑想〉のあいだ、私たちは、どのようにこの瞑想実修を行な まかえん ったらよいのでしようか。ある人たち ( 摩訶衍のような者たち ) は、ほかならぬ概念作用の働か ない心の状態にあって、瞑想することを主張します。別な人たちは、単純に心を否定対象から離 す すように教示します。これらの取り組み方はいずれも不十分なものであり、適切ではありません。 解 了 これに反して、もしあなたが分析を行なって、それ自身の権利において存在している「実体」を を 性 空 見いだせないならば、あなたは、まさにこの点について、自分の瞑想を持続させなければなりま 章 せん。 第 人格的個体の無実体性の場合、これについて瞑想するためには、あなたは、これまで述べてき たように、まず「実体視する意識 ( 生得の無知 ) が、どのようにして〃私〃を固有の本体をもっ ものであると思い込むのか、すなわちどのようにして″私〃という対象をそれ自身の側において
のようなものがあります。一つは、インドの偉大なる「空性説の主唱者たち」、すなわちナーガ ールジュナ、アーリヤデーヴァ、チャンドラキ 1 ルティのお名前を聞いただけで、深く信頼する 気持ちを抱くというものです。別なサインは、空性の説明を聞いたときに、その人が空性のこと をもっと知りたいという熱烈な関心と願望を起こすというものです。 なぜ適切な受け手に授けるべきか ( 空性と無の区別 ) では、なぜ、「空性を教示するにふさわしい受け手かどうか」を確認する必要があるのでしょ ニヒリズム うか。それは、もしそうでなければ、空性の教示は、人々を〃虚無論〃という極端で危険な立場 に陥らせるかもしれないからです。 もし空性がこの教えを信じて理解しようと望まない人たちに説明されるならば、彼らは、「物 むじしよう 事が固有の本体を欠いていること ( 無自性 ) ーという空性説を、「いかなるものも存在しないこと ( 全無 ) 」という説であると誤って理解してしまいます。もしそうであれば、このような人たちは、 誤解にもとづいて仏陀の教義 ( 縁起説、四諦説、業報論など ) を非難するという潜在的な危険を孕 むことになるのです。 さらに、次のような別種の危険もあります。これは、空性の哲学が過去の偉大な恩師たちによ って称讃されてきたという表面的な理由から、この哲学に興味を抱いて讃美する人たちに関係し ています。彼らは、表面的には信仰を抱いていますが、まだ空性に関する明確な理解をもってい ないために、次のことを了解してはいないのです。物事は原因と条件に依存して生じます。かか 306