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検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

るか」は切実な問題になります。確かに、私たちは、ゝ しま行なっている行為が何らかの善き結果 を生むとどこかで信じられるから、行動へと、努力へ駆り立てられるともいえます。その未来を 数年後とかいった具合に、どこかに想定したりもします。 しかし、人生には終わり、つまり死という避けられない事実がまっています。限られた人生と いう範囲内で、善き行為の結果は結実するのでしようか。正直者は報われるのでしようか。現在、 多くの日本人は、「人間は死んで無に帰す」、「死によって、一切が終わる」と考えている方は多 いのではないかと思います。死によって積み重ねた行為をはじめとする一切が無に帰すならば、 行為の善悪など考えず、たかだか長く生きても六、七十年の人生は、欲望のおもむくままに生き たほうがよいのではないかともいえます。現在、このような考えをもって生きる人は、多くなっ ているのではないでしようか。死によって一切が無に帰すならば、倫理、つまり善き心を育み、 善き行為をするという考えは、成立し得ないようにも思われます。 仏教の主張する業と輪廻は、こうした考えの明確なアンチ・テーゼになり得るものです。なぜ ならば、死で一切が終わるわけではないと考え、次の生存、さらなる次の生存を見つめながら、 現在の生き方を創造していくのが、業と輪廻の真価だといえるからです。業と輪廻の思想は、 「今を大切に生きること」に私たちを駆り立てる原動力になり得るものではないでしようか。業 と輪廻は、迷信でも邪信でもなく、現代という時代を生きる私たちにとって再考すべき問題を投 げかけているように思われます。この生涯を超えたより大きな視野に立って、現在の自らの生き 方・行動の仕方を考えさせるところに、輪廻思想の真価があるのではないでしようか。この生涯 0

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

~ 苦しみを離れることを願う心 ) によって発達が強化されるべきだということです。つまり、憐れ と智慧は、組み合わせて実践されるべきなのです。このときに鍵となる条件は、あなたがどの 、らいこうした実践に習熟しているかということです。また、重要なのは、「菩提心とは何か」 」っいて何らかの考えをもっこと、および繰り返し実践することによって、その考えを自分に慣 親しませることです。このために、私たちの多くは、迷わずに「母なる一切の命あるもの」、 プなわち「六つの生存領域にある命あるもの」を話題にするのです。 2 正式に菩提心を起こすために 願望の菩提心を正式に起こすための前行 〈願望としての菩提心 ( 発願菩提心 ) 〉を〃正式に〃起こすために、ここでは、まず次のような 程を経ながら、祈りの言葉 ( 請願 ) を唱えます。 「聖衆」を観想する 発菩提心の証人とし て聖衆を観想する あなたがもし仏陀の絵画 ( タンカ ) をもっているならば、それを、実際 きこん に方便 ( 人々の機根に応じた教導 ) に巧みで、しかも憐れみ深い「仏陀」 と見なしてください。そして、あなたの面前に仏陀をありありと思い描 22 / 第 6 章悟ることを証人に誓う

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

った思考のために、心が一段と汚れてしまったように感じるのです。もしこうしたことがあなた に起きるならば、このときに重要なのは、第 8 章で取りあげますが、「物事の知覚への現れ方」 と「物事の真実の在り方 ( 実相 ) ーとの不一致・ギャップを了解することです。 そうした経験は、あなたの実践が正しい道筋にそって行なわれているという″しるし〃なので す。ダルマの実践に入るまえ、あなたは煩悩が無数の勝負をいどんでくるという考えをもってい ませんでした。しかし、ひとたびダルマの実践をはじめたならば、あなたはただ煩悩の存在に気 づくばかりなのです。この経験は次のようにたとえることができます。たとえば、誰かが深い傷 をおった場合、その人ははじめはその痛みをほとんど感じません。しかし、治療を受けて意識が 回復してくると、その人は激しい苦痛を感じはじめます。 ダルマの実践における私たちの努力は、「苦難からの解放を得ること」と「平安と成功を享受 すること」を目的としています。しかし、事は意図したとおりには運ばないかもしれません。私 たちは苦難がますます大きくなり、困難が増大したかのように思うかもしれません。このような ときには、あなたは偏狭な考えに縛られずに、視野をより広くして、物事をながめなくてはなり ません。なぜならば、ダルマの実践のためにあなたの悪しき行為のある面が、よりはやく結実し たのかもしれないからです。そうでなければ、悪しき行為はあとで結実するでしよう。こうした 事態が起こるとき、あなたはそれを悪しき行為を浄化する形態の一つであると見なすことができ ます。 260

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

を育んでください。 再び帰依して誓詞を唱える あなたは、仏陀たちと菩薩たちの身体、言葉、および心の徳性を記憶にとどめるにつれて、 " 自分も長いあいだには同等の能力を獲得して、他者のために楽々と自発的に働こうみと考えて ください。そして、こうした考えを基礎にして、仏陀たちと菩薩たちに帰依してください。そし て、再び菩提心を起こす決心をしてください。菩提心とは、一切の命あるもののために最高の悟 りを達成しようと熱望することです。このような強烈な感情をもって、二回目、先ほどあげた 「誓詞」を繰り返してください。 きよう、私たちは人間の生涯を得ており、そして仏陀の教えと実践に出会っています。こんな っえん 誓 にすばらしい″機会 ( 仏縁 ) 〃をもったのですから、私たちはそれからエッセンスを汲み取れる 人 証 ように努力しなければなりません。「ダルマの実践」のエッセンスとは、菩提心なのです。私た を と ちは、たとえ想像上のレヴェルであっても、このような菩提心を起こせるのは本当に幸運なこと る なのだと熟考すべきです。菩提心を起こすことは、仏陀たちと菩薩たちに実践というささげ物を 悟 するようなものです。それは、命あるものの一時的な願いと永続的な願いをかなえるための方法章 さいわい 第 です。あらゆる福祉と安楽は、この菩提心から生じるのです。

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

ラトナーヴァリー の根拠となる源泉は、彼の著作である『宝石の花輪』のなかに見出すことができます。そこには、 「命あるものの悪しき行為が私に結果しますように、私の積み重ねた功徳がすべての命あるもの に結果しますように」と説かれています〃と答えました。 チェカワは、次のように応じました。〃私はこの「心の訓練ーの教えが好きです。どうか、私 にそれを授けてください〃と。シャラワは、〃この教示の実践は、長期にわたって不断の努力を 必要とします。でも、もしあなたがそのような努力をする準備が整っているならば、私からこれ らの教えを得ることができますみと忠告しました。 チェカワは、そこで、〃この実践が仏陀の境地を得るために絶対に必要であるならば、どうし てあなたは教えを説かれたときに、もっと早くそれに言及しなかったのですか。なぜ、あなたは そのとき「心の訓練ーに何の言及もしなかったのですか〃と尋ねました。 シャラワは、″本当にそれを修行しようと望まないならば、「心の訓練」のようなすばらしい教 えを授けても何の役にも立ちません〃と答えました。 チェカワは、三度ひれ伏してから自分の滞在していた所へ戻りました。そして、持参していた ナーガールジュナの『宝石の花輪』の写しを開き、シャラワの読誦した引用文を見つけました。 そこで、チェカワはシャラワに教えを請うたのです。 こうしてチェカワの強い願いが叶い、恩師より「心の訓練」の秘訣を伝授さ チェカワの修行 れたのです。そして、すべての悪しき考えを放棄して、ショーにある住居に おいて、この「心の訓練ーに関する教えを実践すること、二年以上を費やしました。それから、 -6

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

仏陀の利他の心を自分の心とする あなたが仏陀を本当に信頼して、心の底から帰依するならば、あなたは、「仏陀がどのように お感じになるか」ということも考えなければなりません。日常のレヴェルにおいて、具体的に考 えてみましよう。あなたが好むことであっても、あなたの親しい友人がそれを好まないならば、 あなたは友人のことを思いやって、そうしないように努めるでしよう。また、あなたがある友人 をタ食に招待するとします。友人は辛くてスパイシーな食べ物が嫌いですが、あなたは辛い食べ しこう 物が大好きです。この場合、友人の嗜好を考えずに、辛みのあるチリスパイスを料理にたくさん 入れるのは間違いでしよう。少なくともこの場合には、配慮するのがよりよいことなのです。 ですから、日常的な状況にあっても、あなたは友人の意志・願いを考慮するのです。そうする のは、あなたがその人の本当の友人であることをあらわしています。したがって、仏陀は、私た ちが長きにわたる幸福をお任せしてきた大切な方なのですから、仏陀の意志、つまり命あるもの に利益をもたらそうとする意志に心を留めるのは重要なことなのです。 仏陀たちと菩薩たちは、母親がほかならぬわが子を心配するのと同じように、命あるものを心 配してくださいます。ですから、たとえ直接的ではないとしても、命あるものをおろそかにする のは、仏陀たちの考え・思いを軽んじることになるのです。仏陀たちと菩薩たちに帰依し、そし てそのあとの実践する段階にあって、無数の寄るべなき命あるものの利益・幸福をおろそかにす るのは、矛盾しています。なぜならば、あなたは彼らのために、すでに菩提心を起こして悟りを 248

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

なり、三度目になると、あなたは蚊を殺そうと考えはじめます。 重要なのは、″殺す〃という過失について考えることです。これについて考え 死の観想の実 たあとで、あなたが誰かを殺す機会をもっても、そうするのをやめるならば、 際的な効用 「殺さない」という功徳を本当に実践しています。殺す立場に実際にいないと きに、あなたが「自分は殺すことはない」といっても、それはたいして意味がありません。人間 として転生するといったより善い転生を未来において得ることが、殺さないことの結果です。あ なたの寿命は長く、あなたは殺すことに対する嫌悪感を生まれながらにもっており、他者の命を 奪うことはないでしよう。行為というものは、現在の生涯において、善き経験あるいは悪しき経 験を起こすだけなく、未来の生涯においても同様の効力を及ばします。 自らを顧みて実践を誓う もし自分の現在の振る舞いと心的な傾向を検証するならば、私たちは過去において悪しき活動 にかかわっていたと容易に結論することができます。また、私たちは自分の現在の経験にもとづ いて、自分がどんな種類の活動により慣れ親しんでいるかについても容易に知ることができます。 朝、祈りの言葉 ( 帰依と発心の詩句 ) を唱える行為を間違いなく積み重ねてきたと思われる人に とっては、今そうすることは難しいことではありません。しかし、私たちの一人ひとりにとって、 そのように身についた習慣もなしに、毎日すわって祈りの言葉を唱えるのはとてもたいへんなこ とです。受戒出家して、すでに数年のあいだ実践者であるような出家者でさえも、一人ひとりは 46

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

い法律がつくられているのを見ますが、どんな刑罰が定められても、人々はいつも法律をのがれ る方法を見つけようとしているように見えます。もし個人の側に適否の感覚や自制の感覚がない ならば、社会の平和や落ち着きを維持することは難しいでしよう。恥の感覚や良心は、警察と衝 突することや刑罰を覚悟のうえですることの脅威よりいっそう効果的です。もし私たちがダルマ の実践に取り組むならば、心が実際に変革されるので、私たちは外在的な力に頼らなくてもよい のです。そして、もし個人の心のうちに抑制があるならば、社会には規律と平和があるでしよう。 特に殺生について考える ですから、私たちは、生涯を通して十種の不健全な行為を避けるべきあらゆる努 殺生と輪廻 力をすべきなのです。少なくとも、頻繁にそれらに従事することは避けるよう努 めるべきです。なかでも、私たちは特に「殺すこと ( 殺生 ) ーについて注意しなくてはなりませ ん。 もしあなたが激しい怒り、執着、あるいは無知から、小さな虫であっても殺すならば、その行 為はあなたを駆り立てて、悲惨な転生に向かわせます。たとえあなたがどうにか人間として再び 生まれてくるとしても、傾向として短命であったり、その生涯においてもまた殺したいという気 持ちになりやすいでしよう。このようにして、つねに悪しき活動を積み重ねるでしようし、また それゆえに、来るべき多くの生涯において悪しき経験をするでしよう。こうしたことの形跡は幼 い子供に見えます。ちょうどほんの二歳か三歳のころですが、幼い子供はとても虫を殺すのが好 きた 144

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

実践者が実修時間のあとに身体・言葉・心の放縦な行為にふけりながら、ある種のだらしなさ を経験することを除いては、実践者が瞑想中に真剣なのは共通しています。私たちは、「自分が こうした落とし穴にはまっていないか」を確かめる必要があります。自分の心の状態を見つめる ことは、極めて大切です。『七つの要点』は、これについて次のように述べています。 三つの対象、三つの毒、三つの功徳 ( 物事が固有の実体をもたないこど、智慧、解脱 ) にかか わるど医、、 従うべき教誨は、簡絜にいえは これらの言葉をむに銘記してあらゆる活動に従事するこどてす。 ろっきよう ろっこん 心 ( 意識 ) は、六つの感覚器官 ( 六根 ) が対象 ( 六境 ) と接触しているとき、対象を好ましい もの、好ましくないもの、あるいはそのいずれでもないものとして識別します。そして、これに 応じて三毒 ( 欲望、憎悪、無知 ) に代表される煩悩が生じます。心は、こうしたあらゆる種類の 好ましくない考えと感情、すなわち否定されるべき悪しき煩悩をつくりだす可能性をもっている のです。あなたが誰かと出会ったり誰かを思ったりして、あなたの心がかき乱されるとき、怒り と田ったとき、欲胡王という や敵意という煩悩が生じます。あなたが何かをふと見て、「欲しい 火悩が生じます。 このような状況のもとで、あなたは、これらの煩悩があなたを圧倒するのを絶対に許してはな 216

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

また、もしあなたが他者に対して有益な善き心構えを抱くならば、あなたと他者の双方にとって 助けとなるでしよう。これは、心構えとそれがもたらす結果とのあいだには、〃関係 ( 因果関 係 ) 〃があるということを表しています。同じように、実体に関する誤解と過去におけるさまざ まな種類の煩悩の影響は、それらによって形成された長い習癖のせいで、この現在の生涯のなか に感じられるのです。これらは、自分自身の経験を通して「依存して生じること」を理解できる 方法なのです。 すべての現象は他の要因に依存して存在しているにすぎません。このゆえに、 意識などの現 それらの現象は独立自存的ではあり得ないのです。内的な現象 ( 意識 ) はそれ 象と相互縁起 らの部分に依存しています。意識とは、連続する流れにおける瞬間の集合体と いう基体のうえに仮に設定されたものにすぎないのです。 ある特定の現象は、行為と行為者のように、相互に依存するとき仮に設定されたものにすぎま せん。親と子供は同じように相互に依存しています。ある人は子供をもっから親であるにすぎま せんし、子供も親との関係において子供と呼ばれるにすぎません。こうしたことを分析するとき、 たとえばある人が子供をもっているときだけ、父親であるということがわかります。しかし、私 たちはまず父親が先にくると考えがちです。職業の名前に関しても、同じことが当てはまります。 仕立て屋は、服を仕立てるという行為から、そのように呼ばれるにすぎません。 こうした分析をいっそう深めて、名前の本質を追究しようと努めるならば、 縁起から空性へ そこには何も見いだせません。物事はただ名札と虚構としてだけ存在してい 342