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検索対象: ダライ・ラマ他者と共に生きる
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1. ダライ・ラマ他者と共に生きる

して私たちは何をすることができるでしようか。もし彼らが憎悪、執着、無知などの煩によっ て圧倒されるなら、彼らは幸福ではないでしようし、他者をますことでしよう。 ですから、仏陀の教えを実践することは、チベット人を含む仏教徒の務めなのです。つまり、 私たち仏教徒の実践は、敵意、執着、無知といった煩悩を取り除くことにあるべきです。私たち の心は、これらの迷妄 ( 煩悩 ) から解き放たれていなくてはなりません。そして、これらに代わ って、私たちは「善き徳性ーを発達させなくてはならないのです。 タンカ 仏教徒は、自分の家の仏壇に仏像や仏画をもっています。寺院や僧院に行っ 仏陀の言葉に従 て、仏陀に敬意を表明します。これらはすべて、尊敬と信仰のあらわれです。 って行動する しかし、真に問われるのは、「私たち仏教徒がどれくらい、仏陀の言葉に従 って行動しているか」なのです。仏陀とは、私たちの教師、案内者、精神的指導者なのです。で しんく すから、私たちは、身体と言語と心の行為 ( 身ロ意の三業 ) を、その教えにかなうようにしなく てはならないのです。たとえ完全に仏陀の言葉に従えなくとも、私たちは熱心に努力すべきです。 心の底から堅固な決意をもって、仏陀の教義に照らして正しいと認められる範囲内で行動すべき です。 私たちは、日々の生活が仏教徒であるという自らの主張と一致することを確実にする必要があ ります。もしこうしたことができないならば、私たちの宣言は表面的で意味のないものでしよう。 仏教徒であるとの装いのもとで、私たちが仏陀の言葉を無視して顧みないならば、これは一種の 詐欺行為です。それは矛盾していて、嘆かわしいものです。仏教徒として、言行は一致しなくて

2. ダライ・ラマ他者と共に生きる

4 正式に菩提心を起こす 正式に菩提心を起こすための言葉 ″正式に〃菩提心を起こすために、先に述べたように脚を組んで、次にあげる「誓詞 ( 誓約の 言葉 ) 、を繰り返し唱えて、みずから菩提心を起こしてください。私がすでに説明してきた通り 、つ に、あなたが観想によって眼前に思い描いている目覚めた仏陀たち、菩薩たち、そして無数の命 誓 こ あるものを、〃あなたの証人〃と見なしてください。仏陀の身体・言葉・心の一つひとつがもっ 人 証 徳性を、自ら実現しようと決心してください。それから、そうした意志に意識を集中しながら、 を 自分が起こした菩提心を絶対に放棄しないことを決心し、三度、次の誓詞を繰り返してください。 る 悟 章 おお、上下・東西をはじめとする十の方向におられる仏陀たちと菩薩たちょ、お聞きくだ さい。おお、教師 ( 戒師 ) よ、お聞きください。私こと、〇〇〇は、もの惜しみのなさ ( 布第 施 ) 、行動規範の遵守 ( 持戒 ) 、および他の功徳を得る実践を通して、さらには他者にもこれ らを実践するように勧め、しかも彼らの実践を喜ぶことによって、現在の生涯と他の生涯に 求めているのですから。もし私たちが本当に彼らに利益をもたすことができないならば、私たち は、少なくとも彼らに危害を加えることは避けなくてはなりません。

3. ダライ・ラマ他者と共に生きる

隣れみという彼らの綱は、いつでもすべての命あるものに差し伸べられているということを思 い起こしてください。これらの仏陀たちと菩薩たちは、あなたの帰依の対象として、あなたの前 に現れていると思ってください。 なかでも最も重要なのは、次にあげる二つです。第一は、あなたのまわりに、助ける者のいな い命あるものを観想することです。第二は、苦しみと苦しみの原因から彼らを解放するために、 自分が完全に目覚めた仏陀の境地を達成しなければならないと考えることです。こうした理由か ら、またこうした動機のもとに、次にあげる詩句を三度唱えながら、仏陀たちと菩薩たちに帰依 してください。 教師 ( 戒師 ) よ、思いやりをもって私の一言葉をお聞きください。ゝ しまからのち悟りの真髄 ( 智慧と憐れみ ) を得るまで、私こと、〇〇〇は、人間のなかでも最高の方である仏陀に帰依 します。 教師よ、思いやりをもって私の言葉をお聞きください。 いまからのち悟りの真髄を得るま で、私こと、〇〇〇は、執着を離れた平和の境地状態である最高のダルマに帰依します。 教師よ、思いやりをもって私の言葉をお聞きください。ゝ しまからのち悟りの真髄を得るま ふたんてん で、私こと、〇〇〇は、最高の精神的な共同体、すなわち不退転位にある聖なる菩薩たちに 帰依します。 * 〇〇〇には自分の名前を人れてください。 ち 4

4. ダライ・ラマ他者と共に生きる

三度繰り返す目的は、唱えるのと同時に、その言葉がもつ意味をよく考えることができるという 点にあります。 こうした実践を通して、私たちは、第 3 章で再び取りあげるように、 〃心構えの変更〃をもた らすことができなければなりません。つまり、自らの心を善きものとして形づくるということで す。こうするには、何度も「帰依と発心の詩句」を唱えることが必要になるかもしれません。 あなたの気質いかんによっては、あなたは、「帰依の詩句ーだけを何度も唱えるのが好きかも しれません。しかし、救済を求める心と菩提心が一つになるように、「帰依の詩句 , を唱えたあ こうしたやり方で、あなたは一時に一 とには、「発心の詩句」を同じゃり方で唱えてください。 つのことに集中し、実践をより効果的なものにすることができます。「帰依と発心の詩句」を十 五回ほど唱えたあとには、あなたの心には変化が起こっているでしよう。ときにはあなたは、目 に涙が浮かぶほど感動するかもしれません。 ら 機 動 すべては善い動機から て べ 「帰依と発菩提心 ( 発心 ) 」に関する正しい実践をしたあとでだけ、あなたは祈りの言葉を唱え す しんごん たり、真言 ( マントラ ) を唱えたりといった他の実践に従事すべきです。「帰依と発菩提心の実章 践が、どのような動機にもとづいて行なわれるか」は、あとに続くあらゆる実践の質と効力を決第 定します。正しい動機なしに、単に祈りの言葉を唱えることが仏教徒の実践かどうかは疑わしい ものです。それは、テープ・レコーダーをかけて聞くほども、有効ではないかもしれません。

5. ダライ・ラマ他者と共に生きる

って、祈りの言葉を節を回しながら声明のように朗唱するのでした。そして、あたかも眠りに落 ちたかのように、完全に深い瞑想のなかにあって、静かに黙したままでいるのでした。 同様に、私の恩師の一人であり、第 4 章でもふれた、今はなきクンヌ・ラマ・テンジン・ギャ じようえ ゝこ一丁くといつでも、自らの僧衣の上衣で頭を被 ルツェンは、彼の知人たちによれば、彼らが会し。彳 瞑想のなかに深く没入しているということでした。これは、私が彼の知人たちから聞いた話 です。彼らは、クンヌ・ラマが大きな声で祈りの言葉を唱えているのを見たこともなかったでし よう。それにもかかわらず、誰かが彼に近づくと、彼は頭を覆っている上衣をすぐにとって、 〃どうかなされましたかみと尋ねるのでした。 このような方たちが本当の実践者なのです。祈りの言葉や真言を大声で唱える代わりに、彼ら は自分の心を見つめているのです。彼らは心に善き思いが起こるときは喜び、それを増進させよ うと努めます。また、悪しき思いが起こるときには対抗手段を用います。こんなふうにして、彼 らはいつも自らの心を見つめながら、絶えず自らの心に注意を向けながら、一日を送るのです。 もちろん、最初はたいへん難しいのです。私の知人のうちの何人かの実践者は、第 3 章で述べた ように、〃中国の監獄にいるより、心を見つめるほうがずっと難しい〃と、私に語ったことがあ ります。これは彼ら自身の個人的な経験です。 こうした瞑想は、〈一つのものに集中する瞑想〉、すなわち対象を分析しないで、一つの対象に 自分の心的な注意のすべてを集中することです。この種の瞑想はたいへん難しいもので、あなた が対象に習熟する度合いが高まるにつれて、それは次第に難しくなっていきます。 180

6. ダライ・ラマ他者と共に生きる

他の人と論争しないでください、あるいは相手の心を傷つけるような害のある一言葉使いをしな いでください また、恩師チェカワがおっしやったように、相手にあなたの行なった釜ロいことを しばしばいって思い出させるのは、適切なことではありません。あなたが善いことを行なったと きに、その場で相手がそのことに気づかないときはなおさらそうです。 す可能性をふさいでしまうのです。 これは比喩的な表現です。誰かに軽視・冷遇されたからといって、その人に復讐する機会を待 この種のたくらみのある態度、すなわ ちながら、恨みつらみの心を育てるのはやめてください。 ちその人をやつつけるときを待っているとか、その人の誤ちを暴露する機会がきて嬉しく思うと いうのは、「心の訓練」の精神に完全に反しています。他者の困難を受け取って、自分自身の苦 しみとするという実践に反しているのです。 ( 一四 ) 人の心を傷つけません。 一三 ) 〔恨みをはらすために〕薮のなかて待ち伏せをしません。 ニ ) 〔人の心を傷つけるような〕悪意のある言葉使いはしません。 2 第 7 章逆境を順境に転化する

7. ダライ・ラマ他者と共に生きる

請願の言葉を唱える 最初に、あなたが自分のまわりに観想している命あるもののために、慈しみと憐れみの強い感 覚を起こしてください。それから、「自分は、命あるものの大きな究極的目的を実現するために、 菩提心を起こそう。そして、そのために、〈七支分の行〉によって福徳を積み重ねよう。仏陀た ちと菩薩たちが〃私の証人〃となってくださるのだから」と思ってください。それから、菩提心 を起こすために、次にあげる「請願」を繰り返してください。 アーチャーリヤ 教師 ( 戒師 ) よ、お聞きください。かくのごとく行ける者 ( 如来 ) たち、輪廻の苦しみか ら解放された者たち、円満にして完全に目覚めた仏陀たち、および過去の聖なる菩薩たちは、 最初に、無上にして円満な、そして完全な菩提心を起こされました。それとまったく同じよ うに、教師よ、どうか〇〇〇という名前のもとに、無上にして円満な、そして完全な菩提心 を起こせますように、思いやりもって私を助けてください。 * 〇〇〇には自分の名前を入れてください。 ここでも、そして以下にあげる祈りの言葉 ( 請願 ) においても、あなたが実際に参加している これが請願を完全なものにす という感覚を強めるために、自分の名前を入れて唱えてください。 るのです。 2 引第 6 章悟ることを証人に誓う

8. ダライ・ラマ他者と共に生きる

きょ , つりつ ての教え ( 一切法 ) は、それが仏陀の言葉 ( 経、律 ) であろうと、仏陀に従う者たちのそれらに ろん 対する解説 ( 論 ) であろうと、一つの目的あるいは意図をもっています。一つの目的・意図とは、 物事を実体視する誤った認識を制圧することです。これを実現するための効果的な教えが「心の 訓練ーの秘訣なのであり、すべての教えを内包しているといえます。 もしあなたの身体・言葉・心を用いた活動が、たとえそれが教えを学び、沈思・熟考し、瞑想 することであっても、物事を実体視する誤った認識を増大させて、さらに深める原因となってし まうならば、これは、あなたが取り組んでいる「ダルマの実践 ( 心の訓練 ) 」が誤った道となっ ていることを示しています。逆に、もしあなたの実践があなたを手助けして、物事を実体視する 誤った認識を克服させるならば、これは、あなたが正しい道筋にそって歩んでいることを示して います。 ( ニ ) 最も重要な地位は、ニ人の証人に与えられるべきてす。 二人の証人とは、あなた自身とあなたの周囲にいる他者です。あなたの実践、つまり「あなた が心の訓練をどのように実践しているか」に対する実際の証人は、他者の判断だけではないので す。あなたは自分を欺かずに、絶えず自分の心を見つめつづけなくてはなりません。 二人の証人に従う ( 第二基準 ) 2 乃第 7 章逆境を順境に転化する

9. ダライ・ラマ他者と共に生きる

そ理的な思考の重要性 私たちは、仏陀の言葉を調べられないような何か神聖なものと見なす必要はありません。反対 に、私たちが仏陀の教えを吟味して確認することは、自由なのです。実践者は、自分で実践する ことで仏陀の教えの味わいを試すことができます。個人的な経験の結果として、個人はその教え に納得と信頼を得ます。私が思うには、こうしたことは仏教だけのものです。他の宗教では、神 (God) 、あるいは創造主の言葉は絶対的なものだと考えられています。 他の宗教に対して当然の敬意を払いながらも、私は、「ただ仏教だけが信奉者に、論理と推理 にもとづいて信仰と確信を育てあげるように指導する」と信じています。人に仏教を信じてもら アプロ うには、威圧や強制は絶対に必要ありません。事実、仏教では、理性的な取り組み方が高く尊重 されているのです。仏陀は、〃 個人はまさに仏陀に千の灯明をささげることによってではなく、 善き行為をつくり、殺生・盗みなどといった悪しき行為を捨てることによって、より高次の転生 を獲得する〃とおっしやたのでした。すばらしい結果を引き起こすことがまさに信仰なのではな く、その正しい原因に注意を払うことが信仰なのです。 二つの到達目標と因果の法則 仏教的な文脈では、悟りへの道には二つの大きな到達目標があります。第一は〈より高次の転 ぜんしゅ しぜん 生 ( 善趣 ) 〉であり、第二は〈無上の幸福 ( 至善 ) 〉として知られているものです。後者は、輪廻

10. ダライ・ラマ他者と共に生きる

なり、三度目になると、あなたは蚊を殺そうと考えはじめます。 重要なのは、″殺す〃という過失について考えることです。これについて考え 死の観想の実 たあとで、あなたが誰かを殺す機会をもっても、そうするのをやめるならば、 際的な効用 「殺さない」という功徳を本当に実践しています。殺す立場に実際にいないと きに、あなたが「自分は殺すことはない」といっても、それはたいして意味がありません。人間 として転生するといったより善い転生を未来において得ることが、殺さないことの結果です。あ なたの寿命は長く、あなたは殺すことに対する嫌悪感を生まれながらにもっており、他者の命を 奪うことはないでしよう。行為というものは、現在の生涯において、善き経験あるいは悪しき経 験を起こすだけなく、未来の生涯においても同様の効力を及ばします。 自らを顧みて実践を誓う もし自分の現在の振る舞いと心的な傾向を検証するならば、私たちは過去において悪しき活動 にかかわっていたと容易に結論することができます。また、私たちは自分の現在の経験にもとづ いて、自分がどんな種類の活動により慣れ親しんでいるかについても容易に知ることができます。 朝、祈りの言葉 ( 帰依と発心の詩句 ) を唱える行為を間違いなく積み重ねてきたと思われる人に とっては、今そうすることは難しいことではありません。しかし、私たちの一人ひとりにとって、 そのように身についた習慣もなしに、毎日すわって祈りの言葉を唱えるのはとてもたいへんなこ とです。受戒出家して、すでに数年のあいだ実践者であるような出家者でさえも、一人ひとりは 46