深遠なレベルでなされていることです。顕教のシステムでは方便と智慧は合体しているとはいえ、両 者はまったく別のものとして、二つの完全に異なる実体として認識されています。顕教における方便 と智慧の合一とは互いを補うという意味なのです。補完しあい、支え、増強するのです。しかし、密 教では方便と智慧はもっと深いレベルでの合一がなされ、意識のある出来事、ひとつの心の状態で、 方便と智慧は完結しているのです。方便と智慧は心の異なる局面ではなく、互いに補完し合うわけで もなく、対象を一瞬一瞬に認識しつつ、方便と智慧が完全に融合しているのです。 密教の分類法はいくつかあり、六種の分類法もありますが、通常は四種類にわけます ( 一三九ペー ジの表の新訳派の密教分類法参照 ) 。最初の三つのタントラと無上ヨーガタントラの大きな違いは、 前者にはまったくない光明の修行が、後者では強調され、広範囲に説かれている点です。 光明という概念を正確に理解するためには、意識について、意識とともに流れるエネルギーについ て、多くの微細なレベルで理解しなくてはなりません ( 「微細な」とは奥深く捉えがたいという意 味 ) 。それゆえ無上ヨーガタントラの典籍には、チャクラ、脈管、脈管の中を流れる風、身体の主要 な各部位に存在する滴と、それらに関わるさまざまなレベルの意識についての記述が多くなされてい るのです ( ※ ) 。 ※風 ( ルン ) ・脈管 ( ツア ) ・滴 ( ティクレ ) の三つは密教生理学とチベット医学の重要な概念である。 風 ( ルン ) は筋肉の動きから血液循環、呼吸から排泄に至る身体の内部の動きや生命を司る生体工ル ネギー ( 気 ) のようなもの。意識という騎手を運ぶ馬のような役割を果たし、五官にまつわる意識が ティクレ 2 う 2
五つの感覚器官 ( 五根 ) ( ※ ) と六つの意識 ( 六識 ) に「我」「わたし」があるとするなら、先ほど 指摘したように、意識がなくなった瞬間に「我」「わたし」もなくなってしまいます。だからこそ唯 識派は根源の意識であるアーラヤ識を個人存在の主体と、輪廻の主体としているのです。同様に仏教 では空性を直感的に悟った状態があるとしています。その際、意識は穢れを知らず、清浄にして澄み わたっています。その瞬間、完全なる悟りに至っていなくても、清浄で穢れのない意識の状態にある のです。しかしそれと同時に、人を完全な悟り至らせない障害が、潜在的な力があることも認めなく てはなりません。だからこそ唯識派は過去の影響の潜在的な力の集積所としてのアーラヤ識を想定し たのです。 ※眼・耳・鼻・舌・身体 ( 触覚 ) の五つの感覚器官。これらに思考器官である「意」をあわせた六つ の感覚器官によって、それぞれの感覚器官の対象を認識するのが眼・耳・鼻・舌・身体・心の六つの 意識。 若者の犯罪 社会への怒りや憎しみに駆り立てられた若者が冷酷無残な殺人を犯しています。憎しみから生 じた行為に社会はどう対応すればよいのでしようか。 ここ何十年か人間の本源的価値が軽んじられ、ないがしろにされてきたような気がしてなりま せん。これとさらに他の要素も組み合わさって、今のような社会ができあがったのですから、
念的思考のプロセスによってーー考えをめぐらし、内省し、知的な思考のプロセスのある瞑想を通じ て、最終的に無分別の境地に至ることができると主張しています。このことを忘れてはなりません。 また瞑想にも二種類あります。一つは対象を分析的に観察する瞑想法、もう一つは心を揺るがすこ となく、 一点に集中させる瞑想法です。分析的瞑想法では、思考を、思考のプロセスを用います。そ のため、特別な洞察カ ( 観 ) を培う無上ヨーガタントラの段階では、分析的瞑想法は使われないので す。というより、一点に集中した心の状態を強めるためのテクニックを用いて特別な洞察カ ( 観 ) を 養うのです。このタイプの瞑想はゾクチェンやマハ 1 ムドラーのなかにも見受けられます。 像 自らの意志で善悪の行為を選択できるか 体 全 善い行為を行うにしろ、悪い行為を行うにしろ、私たち自身にどの程度の選択権があるのでし よう。現在の行動や意見を決定するのは過去の行為なのでしようか。 教 これまで述べてきたように、私たちの行動や考え方の大半は、過去からの条件づけ、パターン 顕 の 化によって成り立っています。その意味で行為によって決定づけられ、支配されているといえ 教 仏 ましよう。しかし、過去の行為に影響を受けているといっても、そう習慣づけられ、癖になっている べ にすぎません。意志を強く持ち、自ら選べば、過去の果から自身を遠ざけ、過去とはまったく別の心 チ 講のありようを確立することも可能なのです。しかしそのためには、意識的に新たな心のありように馴 染むようにし、過去の行為の束縛から自由になるようにしなければなりません。 24 う
は、幸せになったり、満ち足りたり、くたびれたり、飽きたりしたことでしよう。今回の瞑想の対象 は、幸せや、飽きた気分を体験する主体である「自分」あるいは「わたし」「我」です。これに意識 を集中させ、「わたし」なるものを探求してみてください。 心身とは別に独立して存在する「わたし」あるいは「我」なるものは存在しません。これだけは確 ごうん かです。身体を「我」とみなすことはできません。また五蘊のなかの感受作用も「我」とみなすこと はできません。なぜなら、ごく通常の概念で「わたしは感じる」というとき、「感じる主体」と感じ るという行為が別々に存在しているかのように思えるからです。ですから感受作用も「わたし」では ありません。また五蘊のなかの認識作用も「わたし」ではありません。なぜなら、「わたしは認識す る」というとき、認識という行為と、認識する主体が別々に存在しているかのようだからです。そう いうわけで認識作用もまた「わたし」ではありません ( ※ ) 。 ※個人の存在は身体 ( 色蘊 ) と、心の作用四つーー感受作用 ( 受蘊 ) ・表象 ( 想蘊 ) ・意志的形成カ ( 行蘊 ) ・認識 ( 識蘊 ) の計五つの集まり、すなわち五蘊からなっている。五蘊のそれぞれの蘊は、主 体的な自我である「わたし」「我」ではないことを確認するのが人無我の瞑想の第一歩である。 自分の心を、もっと完璧で、澄明で、さえわたった心と交換できるチャンスがあるなら、大半の べ人々は喜んでそうすることでしよう。身体でも話は同じです。例えば身体をもっと魅力的で、望まし 、現在の医学技術では、脳の移植はできませんが、そうし いものに取り替えることができるなら : た希望がないわけではないのです。もし可能なら、より魅力的な身体に脳を移植することだって望む 26 ろ
す。しかし仏教における無我説は、永久不変の「我」、固定的な実体など存在しないと説くものです。 永久不変の「我」こそ、仏教が否定の対象としてきたものです。 仏教は意識 ( 心 ) の流れを否定しません。それゆえ、サキャ派の高僧レンダワをはじめとするチベ にん・か ットの何人かの学者などは人我 (gang zag gi bdag ) ーー人の中に存在すると妄想されている我を 肯定しています。しかし多くの学者たちがこの人我の存在を否定していることも事実です。 このように今生から来生へと輪廻していくものの主体は何か、「わたし」とは何かについてはさま ごうん ざまな論議がなされています。ある説ではそれを身体の五つの構成要素の集まり ( 五蘊 ) の中にある とします。別の説では、「わたし」なるものは五蘊に依拠して仮に名づけられたものにすぎないと説 きます。 唯識派の流れをくむある一派では、意識の根底にはアーラヤ識があると主張しています。こんな仮 説が出たのも、今生から来生へと続く意識の流れが、「我」「わたし」なるものがあるなら、必ず見出 むけん すことができるはずだ、見出すことができないならば無見 ( 虚無論 ) に陥ってしまうだろうという思 る うけん いがあったからにちがいありません。逆に心身とは無関係な独立した主体とするなら、有見に、すべ さ 源ての存在に固定的実体があると思いこんでしまうでしよう。さらに意識の流れそのものの中に「我」 の 「わたし」があると仮定するのも問題があります。仏教では意識の欠けた状態をーーなんの概念も生 怒 まれない瞬間があるとしているからです。そのために唯識派などでは通常の意識の流れとは別の、基 講 第盤の心であるアーラヤ識の存在を仮定しているのです。
夢のもつ意味 夢の中のイメージは、覚醒時の意識にどのような意義を、天啓をもたらすものなのでしよう カ 通常の夢ならば、荒唐無稽もよいところ、特に真剣にとる必要はないと思います。もちろん、 フロイドやユングのように、夢を真剣にとる者もいます。 とはいえ、夢を完全に無視することもできません。多くの要素が集まった結果、夢の中に重大なお 告げが現れることもあるからです。なかには重大な意味をもっている夢もあります。そのようなわけ で、すべての夢を無視することはできないのです。 密教の行、特に無上ヨーガタントラには、特別な夢を見ることを可能にする特殊なテクニックがあ ります。無上ヨーガタントラで夢ヨーガが重要視されるのは、これを行じることで、覚醒時の修行に 特別なインパクトを与えることができるからです。また夢を見ている最中に、機会が許せば、また正 しいテクニックを用いることができれば、あなたの微細な身体 ( ※ ) を、より粗い身体から分離させ ることができます。 ※微細な身体すべての生きものは、粗い・微細・最も微細という三種類の身体を有している。粗い 身体とは地水火風空からできた私たちの通常の身体、微細な身体とは、脈管 ( ツア ) ・風 ( ルン ) 滴 ( ティクレ ) のこと ( 詳しくは第八講二五二ページ参照 ) 、もっとも微細な身体とは光明の心が出 現するさいの乗り物となる最も微細な風のことである。密教、特に無上ヨーガタントラの行者たち 106
によって、いかにすばらしい目的を達成できるのか等々を知るのです。こうして自分にはできるとい う自信と勇気を植え付けていくのです。この段階では、身体のネガテイプな面に意識を向けるような ことはしません。自己嫌悪に襲われがちな人、自己評価の低い人ならなおさらです。そのような人が 身体の不浄さや不完全さといった教えを受けても、自己嫌悪が増すだけです。この段階では主に、人 間の身体を有することの長所、美点、特質などについて知り、今すぐ身体がもっ可能性を認識しなけ ればという思いを、また、この身体をポジテイプな形で活用しようという誓いの気持ちを起こさせる のです。 死と無常 全 の 教 密 次に修行者は、無常と死について念じます。ここでいう無常は、きわめて世俗的な意味での無常、 教 いつの日か自分はこの世からいなくなるだろうという無常観です。こうした無常観でも抱くことがで 教きれば十分です。これに加えて、人の身体にいかに大きな可能性が秘められているかを認識できれ 仏 ば、「貴重な人生の一瞬一瞬を活用しなくては」と一種のあせりの気分が生じます。この種の情熱と べ意気込み、信頼を培うのです。 ここまでたどり着くには、まず学ぶことが肝心です。ドムトウンパがこんなことを述べています。 講 学ぶ時には、考えをめぐらし、瞑想することを忘れない、またあることについて考えをめぐらしてい 2 61
えば「 bzod pa に優れた人」は忍耐づよい性格をもっているといわれる。私自身は bzod pa という単 語を、「忍耐 (patience) 」あるいは「辛抱すること (forbearance) 」、あるいは「寛容さ ( ( 0 一 e ・ rance) 」と翻訳すべきだと主張するつもりはない。ただ、 bzod pa というチベット語の多彩な意味を 示し、そこに含まれる概念の複雑さを読者に喚起したいだけなのである。 シャーンテイデーヴァは忍耐の行を唱えてはいるが、といって人からの虐待や搾取を甘んじて受け 人れよなどとは決して主張していない。なんの疑問も抱くことなく、苦しみや痛みをただ受け入れよ などという単純な方針も勧めていない。彼が提唱しているのは、苦難に対して固い決意をもって立ち 向かえということなのである。ダライ・ラマ法王は『入菩提行論』の解説のなかで、卑屈と忍耐の違 いについてのべている。はっきり見て取れる被害にもあえて報復しようとしない、そのようなスタン スを意識的にとることによってのみ、真の忍耐は培われるというのだ。ここで大切なのは「意識的に そうした立場をとれる」ことである。シャーンテイデ 1 ヴァもダライ・ラマ法王も bzod pa ( 忍耐 ) かいかなる意味なのかはっきりと定義づけていないが、私たちは以下のように定義づけてもよいだろ う。「 bzod pa とは、仏教的見地に従い、内外とわず、いずれの障害によってもかき乱されることの ない、揺るぎない性格から生み出される、逆境に対する確固とした対応」。これだと確かに、逆境に あってもただそれに屈服するのではなく、積極的なアプローチをとることを意味する。シャーンティ デーヴァ自身は三種類の忍耐の特質を説いている。三種類の特質とは ①苦難や痛みを意識的に受け入れることから生じる忍耐
あると同時に、外的な、身近な環境の影響もこうむっているのです。 こうした煩悩の起源はどこにあるのでしようか。仏教では意識に始まりはない、無始であると説き ます。これは、意識は意識からしか生まれないという前提に基づいていますが、私個人はこれで百パ ーセント相手が論理的に納得するとは考えていません。とはいえ逆の立場にたって、意識に始まりが あるなら、外的な造物主によって創造されたはずだと考えるのも無理があります。また意識が因果律 と関わりなく、つまり原因や条件ぬきで発生したとするのも論理的に矛盾します。 ですからどちらかを選べというなら、意識の流れには始まりはないという前提に立つほうが、論理 的に矛盾が少ないように思えます。煩、つまりネガテイプな心の習性の起源も同様な前提に立たな ければなりません。煩には始まりはないのです。 高い悟りに達した人の意識は、過去の生を、はかりしれない過去とまではいかなくても、過去何回 もの人生を思い出すことができます。 二番目の質問に関しては、仏教のどの宗派でも、煩悩に汚染された感情や認識を断つには智慧が必 要であるという点では一致しています。これは不可欠な要素なのです。空性や無我を説かない宗教哲 学でも、怒りや憎しみの直接的な克服法として、慈悲心 ( 慈しみの心とあわれみの心 ) の行をあげて にんむ います。しかし慈悲心だけでは怒りや憎しみを完全に取り除くことはできません。そのためには人 我 ( ※ ) を悟った智慧が必要なのです。仏教のいかなる伝統も、心の悪しき習性を根本から取り除く ために智慧の要素が不可欠であるという点では一致しています。大乗仏教の伝統ではこれはきわめて 104
ようになります。ここであなたは知識と禅定体験を融合できるのです。 最初の段階では、理解の対象と理解そのもののあいだにギャップがあります。しかし「修慧」の段 階、瞑想体験を通じて得た知識のレベルまで至ればギャップはなくなります。例外的にこうした階梯 を歩まずにすむ人もいますが、ほとんどの場合、こうした境地に自ずと至るわけにはいかず、段階を 踏んで、意識的な努力をしつづける必要があります。またこうした階梯を通じて、対象をより体験的 じねん に、生々しく、自然に理解できるのです。 煩悩の場合もこれと似かよっています。煩悩とはあるものに対して自ずと生じてくるものです。例 えば怒りや憎しみは湧き上がっても、放っておけば次第に薄らいでくるものです。逆に自分に加えら れた不正な仕打ちやひどい扱いについてくよくよ考えつづけていると、火に油を注いだごとく、ます ます憤りがひどくなります。同様に誰かに愛欲の心をおこし、なんて彼女は美しいのだろう、なんと すばらしい長所があるのだろうなどと考え続けていると、相手に対する執着の心はますます強まって いきます。このことからも同じ思考パターンを繰り返し、それに馴染めば馴染むほど、煩悩の力が強 まり、パワフルになっていくことがわかると思います。 前述のように、まず最初の段階では、教えに耳を傾け、経典などに目を通すことによって理解を得 ます。次にそれについて考えをめぐらし、分析することで、ある程度まで悟り知ることができるよう になります。チベット語に「ニャム・オートウ・チュ ハ ()y 「 ams 'og tu chud (a) 」という一一一一口葉が ありますが、これは対象を捉えたかのように感じることを意味します。ある事柄に心が馴染み、もは 194