慈悲の心は情念か 感情を取り除くことが、感情から解放されることがゴールなら、どうして慈悲を感じることが できるのでしようか。慈悲の心は情念ではないのでしようか。 感情とは何かを定義しようと、私は何人かの科学者となかなか興味深い討議を重ねてきまし た。最終的に私たちは仏の境地に至ってもなお感情はあるという結論に達しました。この観点 こゝ一つことができます。 からすれば慈悲も感情であると確か冫し 感情は必ずしもネガテイプなものということはできません。感情のなかには破壊的なものも、建設 的なものもあります。要は破壊的な感情を取り除くことです。 キリスト教徒は仏教の戒を受けられるか 信仰告白したキリスト教徒が仏教の戒を受けることはできますか ? 私は献身的なキリスト教 徒であり、実際に司祭でもあります。けれども私の理解するところ、イエスの教えと仏教の修 行の道は両立しうるし、一致するのではないでしようか。仏教とキリスト教という二つの修行の道 は、ともに光明を、真理と愛と自由の道をめざしているゆえに、両立し得るのではないでしようか。 ちなみに私の先生の一人であるト 1 マス・マートンはカトリックの司祭兼修道士で、仏教の修行者で もありました。 142
憎しみはどこから生じるか ダライ・ラマ法王は以前、人間は本来的におもいやりの心を、やさしさを持っているとおっし やられました。ならば憎しみはどこから生じるのでしよう。 これは一言では答えられない問題です。仏教徒の観点からすると、怒りや憎しみは無始の過去 から存在します。もっと詳しく説明すると、仏教ではさまざまなレベルの意識の存在を説いて います。もっとも微細な意識が過去生の、今生の、来生の基盤となると私たちは考えています。この 微細な意識は、因縁 ( 原因と条件 ) に依って生じたものであり、それ自体も一瞬のうちに滅していき ます。では意識をつくりだす因とはなんでしようか。意識は〔肉体のような〕物質から生み出される ことはありません。意識は意識から生じる、つまり意識とは生じては滅する瞬間瞬間の意識のつなが りなのです。これが転生の理論の基礎となるのです。 意識のあるところ、無知や怒りも自ずと生じます。ネガテイプな感情 ( 煩悩 ) はポジテイプな感情 と同様に無始の過去より存在しているのです。こうした感情は心の一部をなしているのです。しか し、こうしたネガテイプな感情は実際のところ無知から生まれており、しかるべき根拠をもっていま せん。ネガテイプな感情がいかに強力であろうと、正統な根拠をもっていないのです。逆に慈悲や智 慧といったポジテイプな感情は正統な根拠をもっています。理にかなった、論理的な根拠のあるもの です。ネガテイプな感情にはそのような根拠を欠いています。 ・ 4
で修行を重ねた果として、⑦の菩提心の境地にたどり着くことができる。 これらすべてが完全なる悟りへと至ることのできる大乗仏教の多様な修行法の一部です。しかし、 真のあわれみの心をーー他の生きものが苦しみのなかにある姿を見るのは忍びがたいという感情をお こすためには、まず苦の深刻さ、厳しさについて理解する必要があります。 私たちが通常感じるあわれみの心とは、ひどい苦痛のなかにある人に会ったとき、自ずとわきあが る同情心のことです。「これはひどいなあ、かわいそうに」と思うことです。ところが、世俗的な意 味での成功者に会うと、かわいそうに思ったり、同情したりする代わりに、羨んだり、妬んだりする のです。つまり、あわれみの心といっても、ごく幼稚なものにすぎないのです。妬み心が生じるの も、私たちが苦の真の意味を理解していないからです。苦を、苦の意味を真に理解するには、まず修 行の基本道で自分自身を訓練する必要があります。 苦の本質を悟り、苦の真の意味を理解するだけでは十分とはいえません。新たな可能性を、苦から ししようたい 解放された状態があることも理解する必要があります。ここで四つの聖なる真理 ( 四聖諦 ) の理解 が関わってきます。これは大乗、小乗を問わず、すべての仏教に共通の修行の道です。 十二縁起の観想ーー・ 四つの聖なる真理は、二つの因果関係から成り立っています。一つは輪廻世界での苦と、その苦の 256
大切な人が第三者のことを怒りにまかせて悪し様に罵っているとき、どう反応すればいいので とはいえ、その怒りを煽った しようか。その人の味わっている感情に対して共感を示したい、 り、認めたりはしたくないのです。 こんなエピソードがあります。その昔、ガムボワというカダム派の導師がおり、多くの責務を 負っていました。ある時、彼はカダム派の導師ドムトウンパに自分には瞑想する暇も修行をす る暇もないと嘆きました。そこでドムトウンパはこう答えました。「あなたのいわれることはもっと もだ。だが私も修行の暇がなくてねえ」 こうして相手の好意を勝ち得たあとで、ドムトウンパは巧 みにこう言い足しました。「だが、仏法にお仕えできているので、満足はしてるが」 これと同じように、大切な人が、怒りにまかせて他人を悪し様に罵るのを耳にしたら、まず相手に 共感と同情を示してあげてください。そして一旦相手の信頼を勝ち得えたなら、おもむろに切り出す のです。「もっともだけれども : 方便とは何か 「方便 ( 方法 ) 」についてもっと詳しく教えてください。 これは難しい。方便にも種種さまざまなものがあり、入り組んでいるために、理解するのは難 しいのです。どちらかというと「智慧」の方がたやすく理解できるでしよう。 ののし 198
微細な意識の本来的性質、すなわち仏性はポジテイプでもネガテイプなものでもなく、ニュートラ ルです。ですからこうしたネガテイプな感情をすべて取り除く、浄化することもできるのです。怒り は、ネガテイプな感情は無始です。つまり始まりもなければ終わりもないのです。このことだけは確 かです。 相手への反撃を許される状況とは どういう状況下なら相手に立ち向かうことが許されるのでしよう。ダライ・ラマ法王がチベッ トのジェノサイド ( 民族の虐殺 ) に対して示された態度から私たちは何を学ぶべきなのでしょ 誰かがあなたを傷つけたとします。それをそのまま放置しておくと、相手は極悪非道の行為を 次々と行っていき、相手自身にも致命的な結果をもたらすかもしれません。そのような場合に は、確固たる反撃に出てもよいのです。反撃するといっても、慈悲の心や利他の心から、相手の心身 を気づかう心から、それを行うのです。 の 中国政府との交渉に関していえば、私たちは常々中国に対してネガテイプな感情をもたないように へ 薩しています。感情に溺れることが決してなきよう、怒りや憎しみが生じても、丹念にチェックして取 り除き、中国人へのあわれみの心を養うようにしています。 講 第 加害者や侵略者に対して何故あわれみの心を起こさなければならないかというと、因果の法則によ 、つカ
士は来世に地獄などの悪しき境地に転生することを恐れて修行する者。中士は輪廻の苦から自らが解 き放たれることを願って修行する者、上士は一切の衆生が輪廻から解脱することを願って修行する 者。大乗仏教の修行者は上士の心がまえをもたなくてはならない。 悪癖は過去生の影響か くんじゅう 悪癖はすべからく過去からの習慣によって心にしみついたもの ( 薫習Ⅱ心の潜在勢力 ) にす ぎないのでしようか。こうした悪癖は、それぞれ対処法をとることによって、取り除くことが できるのでしようか。それとも、悪癖もまた空性を見出すための手段、あるいは方便とすることがで きるのでしようか。 しカ まず最初の質間ですが、現在私たちの心の中にある煩悩なるもの本質を吟味してみると、 なる感情や認識も、一瞬前の心の状態から生み出されたものであることがわかります。心は連 続して流れているのです。感情や認識。 ま、さまざまな条件 ( 五官の対象や、一瞬前の心など ) から生 さかのぼ み出されています。この心の流れは今生のみならず、前世にまで遡ることができます。それゆえ転生 質理論をも考慮しなければならないのです。とはいえ、個々の外的、環境的要因も煩悩に大きな影響を のおよばします。一つ家族の、同じ両親から生まれた子供も、それぞれの過去のカルマの結果、異なる 苦 心の潜在勢力をもっています。成長するにしたがい、外的な環境や条件から、ある種の感情 ( 煩悩 ) 講 第 は強まり、別の感情は弱まっていきます。というわけで、煩悩は過去生や一瞬前の心の状態の反映で 105
ればなりません。このように仏教の文脈で「我」という単語を使うときは気をつけなくてはなりませ ん。「これは内で、あれは外」というふうに割り切って語ることはできないのです。 忿怒の神々を瞑想する意味 忿怒の神々の役割はなんですかフ これは簡単にお答えできない問題です。その根底にあるのは、怒りなどの人の激烈な感情は、 素早い行動の機動力となるという思想です。忿怒の神々というアイディアの裏にあるのは、怒 りや貪りなどの煩悩にまみれた感情にはある種のエネルギーがあり、こうした感情を味わっている と、素早い行動に打って出ることができるという事実です。忿怒の神々の修行は、こうした事実を踏 まえて理解しなければなりません。 ついでに仏教では煩をどのように扱っているか、基本的なスタンスも知っておく必要があるでし る げだっ さ よう。大乗仏教以外のシステム、つまり上座部仏教では究極の目的は解脱 ( 輪廻世界からの脱出 ) に を 源あり、発菩提心の大切さは説きません。身体・一 = ロ葉・心の不善の行為を放棄してゆくことのみが強調 されます。そこでは煩もまた断ち切らなければならないのです。 怒 しかし大乗仏教においては、他者に奉仕することが第一義とされます。ですから身体や言葉の不善 講 第の行為については一定の例外があります。しかし心の不善の行為 ( 悪しき考え ) についてはなんら例
第三講苦の本質 ( 25 ) ものはあなたを傷つけようという意図はなかった。故意ではなく、選択の余地もなかったのだと。 そこでシャーンテイデーヴァは答えるわけです。ならばある人があなたを傷つけたとしても、それ は煩に、ネガテイプな感情に駆り立てられて行ったにすぎず、ある意味では当人さえコントロール がきかなかったのだと。さらに分析してみれば、悪意や憎しみといったきわめてネガテイプな感情 も、多くの縁 ( Ⅱ結果を生じせしめる条件 ) が集積した結果、選択の余地なく生じたことがわかるは ずです。 二十五番目の詩句と二十六番目の詩句はこれまで述べてきたことのまとめです。 一切の過失 種々さまざまな罪は すべて縁の力によって生じたのてあり 独立自存てはない これらの集積した縁も 「〔怒りや危害などを〕生じさせよう」ど念じていたわけてなく 縁から生じたものも 「私は生まれよ、つ」どいう思いかあったわけてはない
ずあなたの傍らに、救いを求め、悲惨な状況にある衆生を、苦のさなかにある衆生を観想します。逆 の側に他の衆生が救いを求めていることにまったく無関心な、利己主義を体現した人物としてあなた 自身を観想してください。そしてまったく中立な第三者としてこの二つの存在を観察し、どちらに自 分の感情が自ずと傾いていくかを見るのです。助けを求める衆生と利己主義そのものである人物、こ の二つのどちらにあなたは感情移入できるでしようか。 それから、悲惨な状況にあり、助けを求めている衆生に注意を向け、あなたのポジテイプなエネル ギーを流し込んであげます。つまり心の中で、あなたの成功や福徳、よきエネルギーを布施してあげ るのです。次に衆生たちの苦しみや困難、悪しきものを引き受けたと観想します。 例えばソマリアの飢えたあどけない子供を観想し、その映像に自分が思わずどう反応するかを見て ください。その苦に深い共感を覚えるなら、「この子は私の親戚だ」とか「彼女は私の友達だ」とい った身びいきの感情は無縁となります。相手を知らなくても、相手も人類であり、あなた自身も人類 であるというその事実ゆえに、あなたは自ずと相手に共感を覚えることができるのです。このように 観想し、さらに子供がこの苦難から自力では脱出できないと思ってください。そして思念の中で、飢 え、貧困、苦しみを引き受け、あなたの成功や富などのよきものをすべて子供に与えると観想するの です。このように「与え、引き受ける」関係を樹立し、あなたの心を訓練していくのです。「引き受 ける」方の観想をするさいには、苦難や災いや苦しみを、通常なら目にするだけでも身震いしたくな るような危ない毒物や危険な武器の形で瞑想するのがよいでしよう。見るのも耐えられないほど恐ろ 192
対処するよう、決して勧めはしない。仏教でも現代心理学でも感情をただ抑圧すれば弊害が生じると いう点では一致している。怒りの源までさかのばり、それを断ち切ってしまうのが仏教式のアプロー チである。 いいかえれば、シャーンテイデ 1 ヴァもダライ・ラマ法王も、私たちが性格を作り直し、 腹を立てるといった感情的反応を減らす方法を教えてくれるのである。こうした観点に立てば、本書 の勧める考え方の大半が理解できるはずだ。そのモットーはしごく単純、「自らの心をコントロール せよ」である。シャーンテイデーヴァは内面のコントロールの大切さを以下のようなすばらしい喩え を用いて強調してみせる。 この地上を覆いつくすだけの皮革を どこて手に入れるこどかてきよう 靴底〔に貼るだけの〕皮革てこそ 地上をすべて覆い尽くすこどかてきるどいうもの このよ、つ に、私は外界のものを 制止するこどはてきない 〔だが〕自分のこの心を制止して どうして他を制する必要かあるか ( 『入菩提行論』第五章 3 4