があるのです。もちろん一般論としては、中絶は避 外ーー例えば慈悲心からの殺人というような けるべきです。しかし、状況によっては中絶もまた選択肢の一つとして容認しうるのです。例えば母 体が危ないとか、子供の誕生が家族に深刻な問題をひき起こすといったような。 安楽死についても同様です。患者を生かしつづけると莫大な出費をしいられ、残りの家族が生活も できないようならば、また患者が昏睡状態にあり、脳の機能が回復する見込みがないならば、安楽死 も容認されます。もちろん患者の家族に十分なお金があり、患者を生かしつづけることを望むなら、 それもまた彼らの権利です。しかし、そうした状況が多くの問題をひき起こすようなら、例外として 安楽死も認められるのです。同様に中絶も特別な状況下では認められるのです。とはいえ、そうした ことはそれぞれの状況から判断しなくてはなりません。これが仏教的なアプローチです。 112
耐を養おうという熱意が高まれば、忍耐の行も進みます。 怒りの源 熱意が最頂点に達したところで、実際の行に、忍耐力を高める修行にとりかかります。まず怒りを 引きおこした因縁 ( 原因と条件 ) を探求します。難しい問題や、困った状況に出くわしたなら、仏教 徒は必ずこうした態度をとるべきなのです。 例えば仏教徒は、因果の法則を自然の法則であると、現実と関わるさいに常に考慮すべき法則であ るとみなしています。日々の生活で何か望ましくない出来事が生じないようにするには、その源とな るものを断ち切る必要があります。逆に何かが起きて欲しいと望むなら、しかるべき因縁 ( 原因と条 件 ) をつみあげていくのが論理的な行動です。 心の状態についても同じことがいえます。例えば幸せを味わいたかったら、その主因となるものを る まず作り出さなくてはなりません。逆に不幸な思いを避けたければ、不幸な状況の源となる因縁を断 さ を 源ち切る必要があります。 の こうした因果の法則を理解しておくことが肝心です。怒りや憎しみに打ち勝とう、少しでも減らそ 怒 うと決意しても、ただ願い、祈るだけで十分とはいえません。また心が怒りや贈しみでいつばいにな 講 第 った瞬間になにか手を打とうとしても手遅れです。事態はすでにあなたのコントロ 1 ルできない状態 0 ノ
た心の状態の一つなのです。 チャンドラキールティはその著書『入中論』で、報復行為がなんらかの形で誰かの手助けになった り、与えられた危害を減らすことができるなら、カに対してカで応じることもある程度正当性がある だろうと述べています。しかし肉体的なものであれ、精神的なものであれ、すでに加えられた危害 を、復讐によって減じることはできません。 こうした状況下で忍耐するどころか、ネガテイプな態度で対応すれば、その場においても決してよ い結果が生じないばかりか、将来においてあなたに不幸を生み出す因となるネガテイプな感情、すな わち煩悩が生じます。仏教の観点では、復讐を行えば、カルマの法則に従い、行った当人が将来その 果を自ら背負わなければなりません。 とはいえ、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたり、理不尽きわまる扱いを受けることもあるでしょ ひど う。そして、あなたを酷い目にあわせた相手はとてつもなく悪いカルマをつむことになるのです。こ のような場合、こうした状況を正すべく反撃に出てもかまいません。ただし、その場合、罪を犯した 者へ、怒りや憎しみをおこしてはなりません。慈悲の心をもって、相手に対して確固たる対応をする のです。実際、菩薩戒の一つに、必要とあれば確固たる対応を行うべきだと記されています。状況が 求めているのに、なんら対策をとろうとしないのは、菩薩の戒の一つを破ることになってしまいま す。 また『入中論』でも指摘されているように、怒りをおこすと、来世に望ましくない姿に生まれ変わ
論 序 「なんだと ! おまえこそ地獄へ堕ちろ ! 」という怒鳴り声が返ってきた。 羊飼いは笑い出し、忍耐の修行をしていたんじゃないのかね、と隠者に指摘したのだった。 この逸話は忍耐を行じる者が遭遇するであろう試練の要を見事に表している。普段なら激昂するよ うな状況で、どうすれば無理なく、平静を保ってこれに対処できるか ? こうした試練は、仏教の修 行者のみならず、人としての尊厳と気品を保ちつつ、人生を生きようとする者すべてが必ず遭遇する 問題である。人生の節目節目には、必ずといっていいほど忍耐と我慢の限度を試される目に遇うもの だ。家庭で、仕事場で、いや、ただ他人と関わるだけで、しばしば自身の偏見が露呈し、信念は試さ れ、セルフ・イメージは脅かされる。私たちの内なる資質がもっとも要求されるのはこうした瞬間な のである。こうしたことすべてが私たちの人格を試し、忍耐や辛抱が十全に培われた状態にほど遠い ことを思い知らせてくれると、シャーンテイデーヴァも述べている。 隠者と羊飼いの逸話はまた、他人から孤立した状態で忍耐心を培うことの難しさを示している。実 際、忍耐心とは他の存在と、特に他人と交わることで育まれる徳性なのだ。隠者がつい羊飼いを罵倒 もろ したことからもわかるように、彼の培ってきた内面は子供が作る砂の城のように脆いものだったので ある。まったくの孤独のなかで、他者への温かい忍耐心やあわれみの心を育み、それに浸ることもで きるだろう。だが、日々実際に他者と交わりつつ、そのような理想の姿を体現できるかといえば、話 はまったく別である。これはなにも瞑想行を軽んじているのではない。孤独のなかでの瞑想修行を通
れば、加害者はそうした行いをすることによって、後の人生に望ましくない果を得る因縁を積んでし まったからです。このように考えれば、加害者あるいは侵略者に対してあわれみの心をおこす十分な 根拠があるとわかるはずです。 このような考え方を抱いて私たちは中国人と交渉を続けているのです。あなたのおっしやるとお り、この問題は憎悪や攻撃性への対処法の好例ともいえましよう。と同時に必要とあれば断固として 物事に対処する、反撃に出るという原則も忘れてはならないのです。 反撃すると、相手はさらに怒るのでは ? 私自身が怒りを覚えていなくとも、他人の怒りや贈悪に反撃すると、かえって相手の怒りをか きたてるような気がします。これにどう対処すればよいのでしようか。 これは非常によい質問です。そうした場合、状況に即してその場で対応していかなければなり ません。前後関係や状況を敏感に察する力が必要です。あなたのとる対応がどのような結果を 生み出すかを考えるのです。放置しておくと、次々と悪業をなすような相手には確固たる対応をとっ たほうがよいでしよう。悪業をなすことによって、相手は自分自身の未来に悪しき果を招いているわ けですから。逆に相手に立ち向かい、反撃することによって状況がさらに悪化するなら、相手の悪感 情をさらに掻き立てるだけなら、やりすごすか、あまり強い態度に出ないほうがよいでしよう。 個人の要求にまつわるものはできるだけ減らし、義務も関わりもできるだけ避けるが、大衆 ( 社 0
を見計らうことも肝心です。未熟な者にはできない行だからです。私たちはその前に高い悟りを、そ ふさわ れに相応しい力を獲得しておかなければなりません。これについては前にも指摘したとおりです。大 きな可能性を秘めたものを、つまらぬ目的のために犠牲にしてはなりません。シャーンテイデーヴァ でも、そのようなことのために、他者が加える危害をただ耐え忍べと菩提心を行じる者たちに勧めた りはしないでしよう。必要とあれば、尻に帆をかけて逃げ出すのが最善にして最高の策です。 なぜタイミングを、個々人の悟りのレベルを見計らうことが大切なのかというと、経典のなかに自 らの肉体を犠牲にした偉大なる修行者たちの物語がいくつも出てくるからです。例えば釈尊の前世譚 であるジャータカ物語のなかで、釈尊は肉体を切り裂かれたり、手足を切断されたりといった肉体的 危害を自ら望んで受け入れます。そうした状況を避けようとせず、あえて受け入れたのです。こうし たタイプの行は高いレベルの悟りに達した者が、偉大なる目的に到達するために行うものなのです。 こうした例からわかるように、修行をするさいにはその場の状況を、即座の、あるいは長い目で見 た結果を考慮しなければなりません。 一般的に僧院の規律や道徳的な規範である律 (vinaya) は大乗仏教の戒より厳格です。釈尊も当 時から、一般論では禁止されている行為でも、新たな状況下では許されることもあり得ると述べてい ます。また釈尊は弟子たちが総じて行うべき行為についても定められていますが、これまた個々人に よって、あるいは時に応じて守らなくてもよいと例外を設けています。というわけでより厳格な律の 観点からいっても、それぞれの文脈と立場を考慮する必要があるのです。 126
第五講大切なものが傷つけられたとき ( 69 ) ないわけです。ならば間違っているのは誰なのでしよう。誰が正しくて誰が悪いのでしようか。危害 を加えた人間も、それに対して怒る人間も所詮同じ穴のムジナなのです。 他人に危害を加えられるようなカルマを どうして私はその昔つんてしまったのか すべてが自分の行為に依存しているなら とうして加害者に対して直るこどかて医、よう 他人への怒りを正当化する口実として、もっともらしくこう抗弁する人もいるかもしれません。 「こちらがなんの手出しも、刺激するようなこともしなかったのに、相手が一方的に危害を加えてき た。どうみても相手が悪い。腹を立てても当然だ」 シャ 1 ンテイデーヴァはこうした場合、よくよく検討してみれば、究極的には自分に責任があるこ ます。なぜなら、あなたのカルマがこうした状況をつくり出したのですか とがわかるはずだといい ら。ですから誰も「自分にはこの状況に責任はない」といい切ることはできないのです。 そのよ、つに観じて なんどしても、一切の衆生が互いへの慈しみの心を 149
るべき教育をうけること、そしてメディアも重要な役割を果たします。 自己嫌悪への対処法 私は二人の人間に裏切られ、不当な扱いをうけました。金銭的にも大きな損失をこうむり、家 族を養うこともできないほどです。つらつら考えてみるに、もっと用心深くあり、もっと前に この裏切りに気づいていれば、この二人を切り捨てて、損失をこうむらずにすんだはずなのです。で すから責められるべきは私自身なのです。この損失から生じた自己嫌悪にどう対応すればいいのでし ようか。自己嫌悪がよくないのはわかっていますが、止めることができないのです。 すでにそうした状況に陥っているなら、一度や二度、考え方を変えようと何かやってみても、 自己嫌悪を抑えることはできないでしよう。これまでに、こうした状況にふさわしいさまざま なテクニックについて述べてきたはずです。そうしたことを学び、習熟し、心をそれに馴らしていく ことで、こうした困難にも対処できるはずです。 カルマ理論の誤解 今生だけで何かを学ばうとしても無理だと経典に記されているのを読みました。これはカルマ 理論を反映しているように思えます。これは正しい理解でしようか。 240
不平等な目にあわされても、それを忍耐の材料にすべきでしようか。それともその不平等をも たらした社会構造を変革するよう努力すべきなのでしようか。忍耐と変革の試みのバランスを どうやってとればいいのでしようか いうまでもなく、率先して状況の改善に務めるべきです。これについては疑念の余地はありま せん。 シャーンテイデーヴァの『入菩提行論』は何世紀も前に書かれたものですが、今日でも社会に変革 をもたらすためのエネルギ 1 の源になるはずです。シャーンテイデーヴァは決して、相手の言いなり になれとか、完全に屈服せよなどという忠告はしていません。というより忍耐心を養い、それをカと して状況の変革にとりかかるべきなのです。 忘れかたい怒りへの対処法 誰かに不当な扱いをうけたなら、それを忘れることはできず、思い返せば思い返すほど腹が立 ってきます。これにどう対処すべきなのでしよう。 これまでもいってきたように、あなたを怒らせた人物のことを考えるとき、ちょっと見方を変 えてみれば、その人物にもたくさんのよい性質があることがわかるはずです。よくよく検分し てみれば、当初腹を立てていたような出来事でも、それに遭遇したことで、ある種の可能性がーー・そ うでもなければあり得なかったような可能性が生じたことがわかるはずです。このように一つの出来 224
微細な意識の本来的性質、すなわち仏性はポジテイプでもネガテイプなものでもなく、ニュートラ ルです。ですからこうしたネガテイプな感情をすべて取り除く、浄化することもできるのです。怒り は、ネガテイプな感情は無始です。つまり始まりもなければ終わりもないのです。このことだけは確 かです。 相手への反撃を許される状況とは どういう状況下なら相手に立ち向かうことが許されるのでしよう。ダライ・ラマ法王がチベッ トのジェノサイド ( 民族の虐殺 ) に対して示された態度から私たちは何を学ぶべきなのでしょ 誰かがあなたを傷つけたとします。それをそのまま放置しておくと、相手は極悪非道の行為を 次々と行っていき、相手自身にも致命的な結果をもたらすかもしれません。そのような場合に は、確固たる反撃に出てもよいのです。反撃するといっても、慈悲の心や利他の心から、相手の心身 を気づかう心から、それを行うのです。 の 中国政府との交渉に関していえば、私たちは常々中国に対してネガテイプな感情をもたないように へ 薩しています。感情に溺れることが決してなきよう、怒りや憎しみが生じても、丹念にチェックして取 り除き、中国人へのあわれみの心を養うようにしています。 講 第 加害者や侵略者に対して何故あわれみの心を起こさなければならないかというと、因果の法則によ 、つカ