に、これをあなた自身の体験に結びつけ、こう決意するのです。「今後私は二度と激昂したり、癇癪 を起こしたりはすまい。そんなことをすれば、これと同じ轍を踏むことになる。怒りの果として、さ まざまな苦が 心の平和を失い、冷静さを失い、すさまじい形相になるといった結果がもたらされ ることになる」 こ達したなら、心静かにその状態を保ちます。 このような結論。、 とうじ 最初の部分が分析的瞑想であり、後半の部分が等至 ( 精神統一によって心が平静に保たれた状態 ) です。 このような想像力を用いた観想行は、あなたにとってきわめて効果的で強力な道具になってくれる はずです。例えばあなたは日々の生活で、テレビや映画を思わせる多くの筋書きや場面に遭遇してい るはずです。なかには暴力シーンもあれば、セックスシーンもあるでしよう。しかし、そうした場面 にでくわしても我を忘れることなく、極端に反応すればどんな結果がみちびき出されるかを念頭にお いて行動できるばかりか、逆にこうした場面からしかるべき指針を得ることができるようになるので す。カダム派の師ポトワは、ある程度の悟りと三昧を得た者にとっては、すべての体験が教えとなる 質と述べています。すべての体験、すべての出来事が、ある種の教えとして表れるのです。これはまさ 本 の に真理だと思います。 苦 講 第 てつ 101
ここでいう幻とは、手品師の見せる幻のようなものだということです。幻それ自体はなんら実体を もっておらず、手品師の気まぐれに依存しており、客観的に、自ら独立して存在しているわけではあ りません。この幻は他のカでつくり出されたものなのです。それと同様に、すべての事象は他によっ て、因縁によって存在するに至ったのであり、独立自存ではありません。このような観点に立てば、 すべての事象は幻のようなものであることがわかります。ですから、他によって生じた状況に対し て、極端な態度で応じるのは相応しくないのです。ある意味で、それ自身にはなんの自由もないわけ ですから。 仏教の因果論ーー 因果論を語るなら、仏教におけるこの教義の基本的特質を理解しておく必要があるでしよう。 だいじようあびだつまじゅうろん アサンガの『大乗阿毘達磨集論』には因果論の基本的特質について明晰に述べられています。そ 質れによると、基本的特質は三つです。 の その①絶対的な造物主あるいは創造者は存在しない。 苦 下絵を描く者などいないのです。釈尊自らも、原因ゆえに、結果が生じるのだと述べています。独 講 第立自存の造物主も創造者も認めないならば、純粋に因果関係のみがあると理解すべきです。仏典にも
④財ど尊敬どいう恩を施してくれる 主人を頼る者 ( 召使 ) ても その主人が怒ったら 殺しかねない 6 それ ( 怒り ) によって、親しき者たちからも厭われる 布施に誘われて集まった者からも、信頼されるこどはない 要するに、怒りをかかえて、幸福に住するこどなど まったくない 〔〕怒りどい、つ敵か そうした苦しみを作り出す 誰てあれ、一心に怒りを打ち砕く者は 今生ど来世て幸福を得る 第六の詩句には忍耐の長所と価値が述べられています。人は怒りや憎しみの破壊的効果を、また忍 耐の長所を知れば知るほど、両者への認識を深め、怒りや憎しみに注意深くなり、それらを遠ざけよ うとするものです。その結果、人は忍耐に馴染み、忍耐が心の中に刷り込まれるようになります。忍
それゆえにどうして〔衆生を〕敬わないこどなどあろうか そしてシャーンテイデーヴァは結論づけるのです。 朝〔衆生に危害を加えられてもそれを忍び、衆生を敬うこど〕 これこそか如来たちを喜ばせる 自らの正しき目的を達成てきるのも、これによっててある この世の苦を取り除くこどかてきるのも、これによっててある それゆえに私は常にこれを行じつづけよう 仏や覚者ではなく、造物主や絶対神を信じる人であっても、この修行について考えをめぐらし、実 際に行じることができます。神の意志にそい、神を喜ばせ、神の愛の原則に従って生きることを真剣 に考えるなら、他の生きものと、少なくとも他の人間との関わりあいの中にそれが表れるはずです。 つまり慈愛に満ちた神の理想は、他人への対応という形で移し変えられるのです。 キリスト教的な理解では、神との関わりは一回の生に限定されます。前世の概念はなく、私たちの 命は神によって創造されたものと信じられています。その結果、神と人の仲は近く、親しい関係にあ ります。一回限りの人生でも、この忍耐の行を行えば、確かにある種の効果はあるはずで、自分の行 218
微細な意識の本来的性質、すなわち仏性はポジテイプでもネガテイプなものでもなく、ニュートラ ルです。ですからこうしたネガテイプな感情をすべて取り除く、浄化することもできるのです。怒り は、ネガテイプな感情は無始です。つまり始まりもなければ終わりもないのです。このことだけは確 かです。 相手への反撃を許される状況とは どういう状況下なら相手に立ち向かうことが許されるのでしよう。ダライ・ラマ法王がチベッ トのジェノサイド ( 民族の虐殺 ) に対して示された態度から私たちは何を学ぶべきなのでしょ 誰かがあなたを傷つけたとします。それをそのまま放置しておくと、相手は極悪非道の行為を 次々と行っていき、相手自身にも致命的な結果をもたらすかもしれません。そのような場合に は、確固たる反撃に出てもよいのです。反撃するといっても、慈悲の心や利他の心から、相手の心身 を気づかう心から、それを行うのです。 の 中国政府との交渉に関していえば、私たちは常々中国に対してネガテイプな感情をもたないように へ 薩しています。感情に溺れることが決してなきよう、怒りや憎しみが生じても、丹念にチェックして取 り除き、中国人へのあわれみの心を養うようにしています。 講 第 加害者や侵略者に対して何故あわれみの心を起こさなければならないかというと、因果の法則によ 、つカ
第一講菩薩への道 さ る可能性があるばかりか、弖し ム虫 ) 怒りの感青が湧くと、無理にとりつくろっても、どこか醜い表情があ らわれるものです。その人の身体から、不快感が、敵意にみちた雰囲気が湯気のごとく噴出し、他人 はそれを感知することができます。ペットやそれ以外の動物でさえも、その瞬間、その人を避けるほ どです。 こうしたことが怒りによって即座に引き起こされるのです。怒った人は醜く、意地悪そうな形相に なります。また強烈な憎悪や怒りが生まれると、頭が錯乱して、良し悪しを判断することも、その怒 りが即座に、あるいは遠い将来に、いかなる結果を生み出すかもわからなくなってしまいます。これ が怒りや憎しみの悪しき果です。怒りや憎しみのもっ破壊的な効果について考えをめぐらせてみれ ば、このような激烈な感情を遠ざけることの大切さがわかるはずです。 いかに富に恵まれ、億万長者であろうと、ある ) ま ) ゝ し。し力に立派な卒業証書があろうと、怒りや憎し みの悪しき果からは逃れることはできません。核兵器など精密な防御システムでも煩悩の悪しき果か らあなた方を守ることはできないのです。 怒りや憎しみの悪しき果からあなたを守り、庇護してくれるのは、忍耐の行だけです。 瞑想と質疑応答ーー・ ではここで五分間黙って瞑想し、これまで私がお話ししたことについて考えをめぐらせてみてくだ ) 0
※基盤・修行道・結果 ( 基道果 ) とは、揺るぎない正しい見解・瞑想修行・修行の成果として得られ る吾り。 瞑想の実践ーーー無常と苦 今回の瞑想セッションでは無常について、ありとあらゆるものは移り変わっていく性質をもってい ることを、それから生じる苦しみについて省察します。すべてのものは一瞬一瞬移り変わっていきま す。変容し、決してとどまることはありません。仏教では、外からの作用がなくても、あらゆるもの は崩壊すると考えます。それはメカニズムのように組み込まれているのです。このことは、すべての ものが、何か別の要素の影響のもとにあることを示しています。私たちの心身 ( 心身を構成する五つ ごうん の構成要素のあつまりⅡ五蘊 ) を吟味してみると、無知と煩悩の影響下にあることがわかります。心 身が無知と煩悩の影響下にある限り、幸せの余地はありません。無知はネガテイプなものです。ネガ テイプな力の影響下にあるものもまた、ネガテイプなものであり、好ましいもの、望ましいものとみ る なすことはできません。 さ を 源 私たちがこれまで論じてきた内なる敵、怒りと貪りは無知の「身内」です。無知を首相、あるいは の 大統領とするならば、怒りと貪りはその配下にある絶大な権力をもった大臣といえましよう。この三 怒 毒に冒されているかぎり、私たちは本質的に心の安らぎを得ることができません。こうしたことを観 講 第じるのが苦の瞑想です。苦の根は実に深いものです。苦とは身体的な痛みに苦しむといった単純なも
あるかどうかはともかく、頓知をきかせた説であることだけは確かだ。たが、果たしてこれを真剣に 取り上げるべきなのであろうか。普通の読者にはある種の「思考実験」としか思えまい 私たち自身、自らの体験を通じて知っているように、自分に道理があると思うと、それだけ怒りも 強まるものだ。このことを顧みれば、現代のシャ 1 ンテイデーヴァの読者も、なにかの出来事につい 感情的に反応してしまうことの不合理さを辛辣に指摘してくれる「思考実験」の価値を認めざるを得 ないのではないか。 怒りへの対処法 『人菩提行論』やダライ・ラマ法王の法話で、最も明晰に述べられているのは、怒りや憎しみへの対 処法である。忍耐の章の冒頭を飾るのは「千劫の間に」っまれた善行も一瞬の怒りによってうちこわ されるという詩句であり、二番目の詩句には、怒りほどの罪はなく、忍耐ほどの苦行はないとある。 それゆえ誰もが忍耐の心を培うべきである。シャーンテイデーヴァの意見によると、忍耐心を培うさ 最も大きな障害となるのが怒りの心である。よく知られた喩えだが、怒りは毒であり、忍耐は心 の中から毒素を取り除いてくれる薬であるといわれる。ダライ・ラマの註釈でも明らかなように、シ ャ 1 ンテイデーヴァは怒りを克服するため、要となる二つの原理を提示する。まず第一に、怒りのマ イナス面をよく理解すること。特に、怒りをおこすことで、破壊的な結果がもたらされるという事実 論 序をよくかみしめるべきである。第二に怒りが生じるまでの因果の法則を深いレベルに至るまで理解す
とによって、ものには自性がないことを証明する方法もあれば、原因と結果の間には「同一性と別異 性」もないことから、あるいは果を生み出す能力という観点から論証する方法もあります。 しかし、これらの論証方法のなかでも最も強力なのは、ナーガ 1 ルジュナが用いた縁起論に基づく 論証です。すべてのものや出来事は他に縁って成立しています。その意味で自性を、固有の実体を欠 いているのです。実体を欠いているといっても、そのものの存在を否定しているわけではないことを 理解しておいてください。すべてのものは、諸々の事象は、他との関わりによって成り立っているの です。 この論証法のユニークな点は、これによって「中道」へと至ることができるからです。永久不変の うけん 自立的な実体を想定しないので、世界も人も常住不滅であるという極論 ( 有見 ) に走ることもなけれ むけん ば、逆にあらゆるものの存在を否定する虚無論 ( 無見 ) に走ることもありません。世界も人も存在は するが、それは他に縁って生じたものであることを受け入れているのです。 チャンドラキールティは『入中論』で以下のように述べています。あらゆるものは他に縁り、他に 依存することで成り立っていることを理解すれば、存在のありようが理解できる。すべてのものが相 互依存関係によって成り立っていることを理解すれば、仏教の基本概念である因果関係を、あらゆる 者ものは原因や条件によって生じ、完全に実体を欠いていることが理解できるようになると。こうして 講因に縁らないものを否定することができるのです。なぜならば、あらゆるものは他の要素に縁って、 第原因や条件に縁って成り立っているからです。すべてのものが他に縁っていることを悟れば、絶対的 20 ろ
第三講苦の本質 ( 25 ) ものはあなたを傷つけようという意図はなかった。故意ではなく、選択の余地もなかったのだと。 そこでシャーンテイデーヴァは答えるわけです。ならばある人があなたを傷つけたとしても、それ は煩に、ネガテイプな感情に駆り立てられて行ったにすぎず、ある意味では当人さえコントロール がきかなかったのだと。さらに分析してみれば、悪意や憎しみといったきわめてネガテイプな感情 も、多くの縁 ( Ⅱ結果を生じせしめる条件 ) が集積した結果、選択の余地なく生じたことがわかるは ずです。 二十五番目の詩句と二十六番目の詩句はこれまで述べてきたことのまとめです。 一切の過失 種々さまざまな罪は すべて縁の力によって生じたのてあり 独立自存てはない これらの集積した縁も 「〔怒りや危害などを〕生じさせよう」ど念じていたわけてなく 縁から生じたものも 「私は生まれよ、つ」どいう思いかあったわけてはない