苦 - みる会図書館


検索対象: ダライ・ラマ怒りを癒す
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1. ダライ・ラマ怒りを癒す

親は弑されるべきものと語ったのは、カルマと貪りの心は滅するべきであるという意味だったので和 す。釈尊はまたいくつかの経典で「我」の存在を認めたかのような発言を行っていますが、これもあ る種の修行者の要求に応えたものと理解すべきでしよう。 輪廻から脱しようという決意 ( 出離 ) をおこすには 輪廻の本質を認識することによって人は輪廻から脱出しようという決意 ( 出離 ) をおこすこと ができます。しかし、どのようにすれば輪廻の本質を認識できるのでしようか。体験した苦の 量によるのでしようか。それとも単に認識するだけでいいのでしようか。 苦を認識しただけでは、真の意味で出離の心をおこすことはできません。それに付け加え、苦 の源を、その源からいかに苦が発生するかを認識する必要があります。苦の正しい理解と苦の 源の認識、この二つがそろって初めて人は出離の心を持っことができるのです。 えく 苦には、①苦苦 ( 好ましくない対象から生まれる苦しみ ) 、②壊苦 ( 変化の苦 ) 、③行苦、の三種類 があるといわれています。苦苦から逃れたいという欲求は動物でさえも本能的に持っています。これ を出離の心と呼ぶことはできません。苦から逃れることを望んでいるゆえに、解脱へと心は傾いてい るとはいえ、真の意味での出離の心とはいえないのです。 非仏教徒 ( ヒンドウー教徒 ) の行者でも、変化の苦 ( 壊苦 ) を苦の本質とみなし、苦から解き放た れたいという望みを抱きはします。けれども彼らが第一に望むのは禅定の状態を保つことなのです。

2. ダライ・ラマ怒りを癒す

ですが、失墜すれば愉快です。これが人というものなのです。 このことは私たちが苦しみや不幸、困難を好まず、喜びや幸せを好む性向を自ずと有していること を示しています。このように人は不幸を回避しようとする傾向があるのですが、シャーンテイデ 1 ヴ アはそれを変えていく必要があると指摘しています。苦は私たちが考えるほど悪いものではないので す。 苦の意味 まず苦全体に対する仏教のスタンスを理解しておくことが肝心です。釈尊は初転法輪 ( サールナー ししようたい トで行われた最初の説法 ) で四つの聖なる真理 ( 四聖諦 ) を説きました。この四つの聖なる真理の 最初のものが、苦にまつわる真理です。この教えの中で釈尊はこの世が苦そのものであると悟ること の大切さを説かれました。苦について考えをめぐらせることが何故大切かというと、そうすることに よって苦から解き放たれる可能性が出てくるからです。そのためにはまずこの世が苦そのものである ことを悟る必要があります。逆に苦から解放されるチャンスが皆無なら、苦について思いをめぐらせ ても陰鬱になるだけ、気が沈むだけでしよう。 ここではシャーンテイデーヴァは、将来の苦から逃れるというより高い目的のために目先の苦は忍 ばなくてはならない、そのためにある種の心がまえをもっことが肝心であると説いているのです。

3. ダライ・ラマ怒りを癒す

修行の初期の段階では、苦しみに直面し、苦を実際に目のあたりにし、そこから衝撃をうける ことが、あわれみの心をおこすよいきっかけとなります。とはいえ苦を念じる方法もいろいろ です。これまでも述べたように、他人の苦しみを直接目にすれば、自身がそこまで確たる具体的な苦 しみを体験していなくても、同情心やあわれみの心が湧き上がってくるものです。 次に、他人に危害を加える行為や悪業をなしている人を目撃したら、将来望ましくない結果を生み 出す因縁をつんでいると思い、あわれみの心をおこします。前者と後者は時間の問題にすぎません。 前者では私たちは果を目にしています。後者では苦そのものはまだ存在していませんが、苦という果 を実らせる因を目撃しています。こうして私たちは、あわれみの心を培っていくことができるので 体 全 前にも述べたように、苦にもさまざまなレベルがあります。例えば、世間一般の常識では望ましい の ひっきよう 密体験とされるものも、変化の苦 ( 壊苦 ) にさらされます。畢竟、輪廻世界は苦そのもので成り立っ 教ているのです。ですから深いレベルに至るまで苦を正しく理解し、その上に立ってあわれみの心を起 の こせるようになったなら、苦を直接体験せずとも、慈悲行が行えるようになるのです。 教 仏 べ仏教と社会苦 ダライ・ラマ法王は、他者に忍耐の心と思いやりの心をもって接し、他者を傷つけないのが、 講 八 あわれみの心だとおっしゃいました。しかし、切実に救いを求める者には、そのようなあわれ 第 2 ろ 7

4. ダライ・ラマ怒りを癒す

苦なくして輪廻から脱出しようどいう決意 ( 出離 ) もおきない それゆえ、心よ、確固としてあれ この詩の後半部には、苦について省察することの大切さと、それによって多大な利益がもたらされ くびき ることが述べられています。なぜなら苦の本質を認識することによってのみ、輪廻世界の軛から解き 放たれたいという純粋な欲望を抱けるようになるからです。 仏教の修行では、目前の明らかな苦しみだけでなく、この世の本質が苦そのものであることを省察 しなければなりません。煩悩とカルマの影響下にある限り、苦から抜け出すことはできないのです。 かんなんしんく 危害を加えられ、苦痛を覚え、艱難辛苦を味わうことによって、私たちはこの世が根源的に苦そのも のから成り立っていることを悟るのです。こうした苦しみは生の本源的性質を指し示すもの、想起さ せてくれるものなのです。 自らの苦悩や痛みを訴える仏教徒の友人に出会ったときなど、私はこんな冗談をいったりします。 苦を瞑想するまたとない機会が得られたのだから、感謝すべきかもしれないよ、と。そうした機会に 恵まれなくても、私たちの肉体そのものが、この世が苦そのものであることを教えてくれます。この ように私たちは苦に感謝すべきなのです。

5. ダライ・ラマ怒りを癒す

も経典を盲目的に絶対のものとして受け入れる必要はないのです。 修行の道を歩む者にとって、第一義の関心は解脱を得られるかどうか、苦から解き放たれることが できるかどうかです。しかし、よりあらわな事象について釈尊の教えが信頼しうる正しいものと証明 できることからも、より秘められた事象についても釈尊の教えは正しいと推論できます。その意味で も釈尊の教えは信頼に足る、正しいものといえるのです。 苦の徳性 . 盟 . 土从↓に、五の 2 性どは えんー さよ、つまん 厭離の心がおきるこどて、驕慢の心が取り除かれ 輪廻の生き物にあわれみの心を生じ 罪を避忌し、善行を喜ぶこどてある 質 この詩句でシャーンテイデーヴァは苦について考えをめぐらすことの大切さを詳しく説いていま 本 のす。苦について思いをめぐらすことで、この世界が苦そのものであることを理解し、それによって自 苦 うぬぼ 講ずと自惚れや驕慢の心が減じます。また苦に、苦の本質に気づくことにより、他人に感情移入するこ 第とで、他人の気持ちゃ苦しみに共感することができるようになります。さらにそれによって他者に対

6. ダライ・ラマ怒りを癒す

( 73 ) 今のこの程度の苦しみさえ 耐えられないどいうのに 地獄の苦の因どなる 怒りをどうして捨て去るこどかてきないのか この二つの詩句でシャーンテイデ 1 ヴァは、他人から危害を加えられても、怒りをこらえ腹を立て ることなくこれに対処すれば、将来もたらされるはずの苦の果を避けることができると説いていま す。怒り心頭に発したところで、すでにうけた危害はいかんともしがたく、さらに将来自分に苦がふ りかかる因を生み出すだけです。逆に怒りをこらえ、忍耐力を育めば、一時の被害や不快感を忍ぶ必 要はあっても、その苦を耐えることで、将来起こりうる危険な果を避けることができるのです。つま り些細なことを犠牲にして、小さな苦難や苦労を忍ぶことで、将来起こりうる大きな苦を体験せずに たと すむのです。ここでシャーンテイデーヴァは、死刑囚の喩えを出してきます。手を切り落とされると いう刑罰だけで釈放されるなら、手を切断するという苦を忍びさえすれば、死という大きな苦から逃 れることができるなら、死刑囚は大喜びするのではないだろうかと。 またシャーンテイデーヴァは一時の苦を忍べば、もう一つの収穫があると指摘します。将来起こり うる大きな苦を避けることができるだけでなく、他人が引き起こした一時の苦痛や苦しみを耐え忍ぶ ことで、過去につんだ悪しきカルマの潜在的な力を取り除くことができるのです。このように一時の 1 う 4

7. ダライ・ラマ怒りを癒す

それゆえ危害を顧みす 苦に冒されてはならない 後半部の二行はこれまで述べてきたことの総括です。 このセッションでは、苛立ちゃ憤懣などの不幸な思いが生じたとき、どう対応すればよいか、一つ の方法をお教えしました。ここでは苦への心がまえを変容させるわけです。そもそも私たちは苦しみ や苦痛を徹底的に嫌っています。これはごく自然なことです。私たちは猛烈に苦を、痛みを厭い、な んとか遠ざけようとします。しかし苦の本質について省察し、苦になじむことによって、苦への心が まえを変じていくことができると吾れば、前ほど苦が忍びがたいものだと感じられなくなります。 しかし、こうした省察も正しい文脈で行わなければなりません。その場合、多かれ少なかれ、四つ の聖なる真理と二つの真理 ( 世俗の真理と究極の真理 ) に基づく仏教道の枠組みが前提となります。 ここでいう枠組みとは基盤・修行道・結果 ( 基道果 ) をも含みます ( ※ ) 。こうした枠組みを理解してお かなければ、苦を忍ぶという行為も愚かに見えてしまうことでしよう。正しい文脈のうえで、忍耐の 行をすることが肝心なのです。 このように仏教のテキストを読む時には、仏教の修行道の正しい文脈において読み解く必要がある のです。チベット仏教は学問面と修行面が合致した形で行われます。チベット仏教はそういう意味で 称賛に値するものといえましよう。

8. ダライ・ラマ怒りを癒す

で修行を重ねた果として、⑦の菩提心の境地にたどり着くことができる。 これらすべてが完全なる悟りへと至ることのできる大乗仏教の多様な修行法の一部です。しかし、 真のあわれみの心をーー他の生きものが苦しみのなかにある姿を見るのは忍びがたいという感情をお こすためには、まず苦の深刻さ、厳しさについて理解する必要があります。 私たちが通常感じるあわれみの心とは、ひどい苦痛のなかにある人に会ったとき、自ずとわきあが る同情心のことです。「これはひどいなあ、かわいそうに」と思うことです。ところが、世俗的な意 味での成功者に会うと、かわいそうに思ったり、同情したりする代わりに、羨んだり、妬んだりする のです。つまり、あわれみの心といっても、ごく幼稚なものにすぎないのです。妬み心が生じるの も、私たちが苦の真の意味を理解していないからです。苦を、苦の意味を真に理解するには、まず修 行の基本道で自分自身を訓練する必要があります。 苦の本質を悟り、苦の真の意味を理解するだけでは十分とはいえません。新たな可能性を、苦から ししようたい 解放された状態があることも理解する必要があります。ここで四つの聖なる真理 ( 四聖諦 ) の理解 が関わってきます。これは大乗、小乗を問わず、すべての仏教に共通の修行の道です。 十二縁起の観想ーー・ 四つの聖なる真理は、二つの因果関係から成り立っています。一つは輪廻世界での苦と、その苦の 256

9. ダライ・ラマ怒りを癒す

それか傷つけられたどき、誰に対して怒るべきなのだろうか 第四十四の詩句でシャーンテイデーヴァはカルマと煩悩の産物である五蘊 ( 心身の構成要素の集ま り ) を有するかぎり、人は常に苦を、痛みを、不満を味わうものだと述べています。 子供 ( Ⅱ凡夫 ) は苦を望まないのに 苦の因に執着する 自、らの過失によって傷つきなから どうして他に腹を立てるのか 例えば、地獄の獄卒や 剣葉林 ( 葉が剣ててきた地獄の林 ) のように この苦も自らのカルマから生している ならば一体誰に腹を立てるこどかてきようか 第四十五の詩句で、シャーンテイデ 1 ヴァは、些細なことには過敏に反応するくせに、長い目で見 れば深刻な結果に至る問題を見過ごす私たちの子供じみた態度から、大半の苦は生まれることを指摘 しています。自分の行動の結果、苦を味わう破目になったからといって、どうして他を責めたり、責 ごうん 120

10. ダライ・ラマ怒りを癒す

第三講苦の本質 それに対するシャーンテイデーヴァの答えはこうです。すべての事象は幻のようではあるが、それと 同時に、それを体験している者も、行為者も夢か幻のようなものであると。しかし、私たちが体験す る苦や痛みは幻のようなものであるとはいえ、リアルそのものなのです。私たちの体験がそれを現実 のものとして肯定するのです。ですからそれを否定しないでください。私たちは問題に直面し、苦を 味わいます。そして、それは現実にほかならないと体験が語るのです。この点に関しては否定の余地 はありません。つまり、幻のように実体を欠いた行為者は、これまた幻にほかならない苦や痛みを体 験するのです。ちょうど私たちが夢の中で苦や痛みを体験するように。とはいえ、私たちの体験がそ れを現実のものと肯定するのですから、それがもたらす効果を無視することはできません。 しかし、すべての事物や出来事は幻のごときものであり、実体を欠いていることを理解すれば、困 難をより上手く処理できるはずなのです。 「何によって何を断じるのか。 断じるこどもまた理に合わない」 ( ※ ) どいうなら それ ( Ⅱ忍耐 ) によって苦の流れが断ち切られるのだから それを望むこどはなんら不合理てはない ※すべてが幻のように実体を欠いているなら、煩悩の迷いを断つべく試みることに何の意味があるの か、の意。