質疑応答 利他行と心の徳性 自分の内なる徳性を育むことと利他行をどのようにバランスをとっていけばよいのでしよう カ 順序という観点からすれば、最初に心の徳性を育むべきです。これはまたラムリム ( ※ ) でい う三士 ( ※※ ) の原則にも基づいています。ラムリムでは個々の心がまえによって、修行の段 階を三つに分けます。それぞれが個人の修行階梯の一階梯に対応しているのです。釈尊自身が初めて ししようたい 公に仏法を説いたとき、菩提心ではなく、四つの聖なる真理 ( 四聖諦 ) を説かれています。二回目 に仏法を説かれたとき、初めて菩提心について広く語られたのです。しかし二回目と三回目の法話は 歴史上の出来事として記録されてはいません。これらの法話はごくかぎられた聴衆を相手に行われた ようです。 ※ラムリムアティーシャ ( 九八二—一〇五四 ) が著作『菩提道灯論』で提唱した悟りへの修道階 梯。発菩提心、方便としての五波羅蜜と智慧の双方を行じることの必要性、智慧によって無分別の境 地に至ることなど、修行の階梯を順を追って説く。後にツオンカバがこの教えに基づきゲルク派の基 本教義〈ラムリム〉を完成させた。 ※※三士仏教を修行するときの心がまえによって修行者を上士・中士・下士の三つに分類する。下 102
頂は、密教としては珍しく受ける者の資格を問わないため、ダライ・ラマ十四世は昨今世界各地で年 に一度はこの灌頂を執り行っている。 方便と智慧の合一が深遠にして奥深くなればなるほど、悟りへの修行道に大きな力を、効果を発揮 するようになります。とはいえ、こうした密教の修行を成功させるには、修行の基盤として、まず菩 提心をおこし、正しくそれを理解することが肝心です。 菩提心を培うーー↓ 像 体 菩提心を上手に培うには、他者を苦から解き放ってあげようという責任感をもち、一種の誓願を立 のてる必要があります。これが菩提心をおこすための必須条件です。つまり、普遍的な慈悲心を培うさ 密 いに欠かせぬ条件でもあるのです。 教 普遍的な菩提心を培うための主要なテクニックは二つあります。一つは「因果の七つの秘訣」 ( ※ ) 顕 教もう一つは「自他を平等にみなし、交換する」行です。『入菩提行論』の第八章 ( 禅定の章 ) には 「自他を平等にみなし、交換する」行について述べられています。 べ ※「因果の七つの秘訣」マイトレーヤ ( 弥勒 ) からアサンガ ( 無着 ) へと伝えられた菩提心をおこ チ すための修行法。①一切の衆生を母と知る、②衆生の恩を想起する、③それに恩返しをしようと決意 講 第 する、④慈しみの心をおこす、⑤大いなるあわれみの心をおこす、⑥殊勝な心がまえ、と段階を踏ん 2 5 5
菩提行の一一一段階 , ー・ーー 菩薩の行為も三段階あります。修行者はまず菩薩の道に入る、つまり生きとし生けるもののために 悟りをひらこうという菩提心を生起します。これが最初の段階です。次に修行者は六波羅蜜行 ( ※ ) ( 六つの徳目の完成の行 ) を中心に実際の行を行います。 忍耐の行はこの六波羅蜜行の中の一つです。修行の成果として仏の境地に至った上でなす行為が、 菩薩の行為の最終段階となります。 ※六波羅蜜 ( ろつばらみつ ) 大乗仏教において悟りへと至るために実践すべき六つの徳目。布施・ 持戒 ( 戒律を守る ) ・忍耐・精進・禅定・智慧 ( 般若 ) の六つ。 『入菩提行論』の第一章で、シャーンテイデ 1 ヴァは生きとし生けるもののために悟りをひらこうと いう利他的な決意、つまり菩提心をおこすことの利徳を以下のように述べています。 妙なる宝の心が きみよ、つ 生まれる〔菩薩の〕身に〔私は〕帰命したてまつる 害を加えるどいう行為てさえも、幸せの縁どなる 幸せの源 ( 菩薩 ) に私は帰依いたします ( 『入菩提行論』第一章 ) ・ 4
訳者あとがき 『怒りを癒す』はシャ 1 ンテイデ 1 ヴァの「入菩提行論』をテキストに、ダライ・ラマ法王がその融 ずうむげ 通無碍の語り口で、怒りを断ち、心をよりよい形に変容させる方法を説いたものである。 チベットの仏教史が伝える伝説によると、シャ 1 ンテイデーヴァは八世紀頃のインドの一王国の王 子であったが、文殊菩薩のお告げによりあえて王座につかず、ナ 1 ランダ僧院に入り、文殊の法を聴 はため いて深甚なる智慧の境地に至った。ただ傍目には「食べて、寝て、排泄する」だけの怠慢な僧としか 見えなかったため、仲間の僧たちは彼を群集の前で晒し者にして追放しようと計画、高い法座にあげ て説法をさせた。だが一旦彼が口をひらき、仏法を説き始めるや、聴衆は彼の玄妙なる教えに陶然と なったという。これがすなわち、悟りへと至る修行階梯を説いた『入菩提行論』であり、テキストそ のものは、発菩提心の利益、罪の懺悔、菩提心への誓いと不放逸、正知の守護、忍耐、精進、禅定、 中観の空の教えを説く難解きわまる智慧の章を経て、廻向に至る十章から構成されている。 『入菩提行論』の教えはきわめて明晰、かっシステマチックであるところから、ことのほかチベット 人に愛好され、宗派を問わず、学ばれてきた。法王も、さまざまな法話の場でーー例えば密教最高峰 の教えであるカーラチャクラの灌頂に入る前の教えなどで、この『入菩提行論』をテキストとして用 訳者あとがき さら ゅう 267
では傲慢さをも帯びた勇気なのですが、決してネガテイプなものでなく、しかるべき理由に基づく勇 気なのです。 シャーンテイデーヴァの『入菩提行論』の十章「廻向」などには菩薩たちの願いをこめた祈願文が 記されています。こうした祈願文を読んでみると、菩薩たちが現実には実現できないような願望を抱 いていることがわかります。にもかかわらず彼らはこうした類のヴィジョンや願望を抱きつづけてい るのです。だからこそ私は彼らを英雄とみなすのです。彼らはとてつもなく勇敢な存在だと思いま す。弱いところなどこれつばっちもありません。菩薩とはそのような人生観を持った存在、必要とあ れば揺るぎない反撃に打って出ることのできる人なのです。 廻向の正しい行い方 過去につんだ功徳を廻向しておけば、現在の怒りによってその功徳が破壊されずにすむのでし よ一つカフ・ 廻向は、解脱への強い願いと菩提心を抱きつつ、あるいは空性を正しく悟りつつ行う必要があ 道 < の ります。そうすれば廻向した功徳は怒りによって破壊されることなく、守られるはずです。 へ げんかんしようごんろん 仏教の修行では、廻向を非常に重んじています。マイトレーヤの『現観荘厳論』にも、正しい廻 講向のやり方について述べた部分で、菩提心という強い動機をもっことの大切さが説かれています。廻 第向する時には、菩提心という強い動機を抱いて、生きとし生けるものに自分がつんだ功徳を献じま
るが、普通の仏教徒にとっては、信仰心に火を点す深甚な源である。 影響力という点で『入菩提行論』に勝る書物はおそらく存在しないだろう。この書物は十一世紀に チベット語に翻訳されてからというもの、チベット人の宗教生活にはかりしれない影響をもたらして きた。チベット仏教の四大流派ーーニンマ派、サキャ派、カギュー派、ゲルク派ーー・・にもくまなく浸 透した『入菩提行論』の影響を見てとることができる。 『入菩提行論』に広くとりあげられている大乗仏教の理想像と修行法は、多岐にわたる学問に発展 し、さらには「心の訓練」の名で括られる仏教文学の新たなジャンルの発展を促した。「心の訓練」 とは『入菩提行論』中の二大テーマ、菩提心を養うこと、存在の真のありようへの正しい理解を養う ことの二つに触れた仏典のカテゴリーをいう。『入菩提行論』が壮大な霊感の源であることは、ダラ イ・ラマが法話の場で、シャーンテイデーヴァのこのテキストを自由自在に引用してみせることから も明らかであろう。次の詩句は、ダライ・ラマ法王が最も自分を鼓舞してくれる詩句として重ねて紹 介しているため、すでに不朽のものとなっている。 虚空があるかぎり 衆生かあるかぎり 私も〔この世に〕住して 衆生の苦を滅するこどかてきますように ( 『入菩提行論』第十章 )
まえがき 8 序ム珊ーーー忍耐という試練ゲシェー・トウブテン・ジンパ 第一講菩薩への道 忍耐とは・ : 菩提行の三段階 : 着菩提心の礎、あわれみの心 : 怒りの破壊的なカ : あ真の幸福、心の安らぎとは : 着 瞑想と質疑応答 ・ 4 憎しみはどこから生じるか / 相手への反撃を許される状況とは / 反撃すると、相手はさらに怒るのでは ? 一瞬の怒りで数千劫の功徳が破壊されてしまうのは何故か / 子供に忍耐を教えるには / 怒りへの対処法 / 菩薩は敵に反撃できるか / 廻向の正しい行い方 ダライ・ラマ怒りを癒す 目次
こうした菩提心は一切の衆生を救済しうる無限のカへと育てていくことができます。シャーンティ デーヴァはこの詩句で、このような無限の利他心を培った者は崇拝されるにたる存在であると述べて いるのです。無限の菩提心は自分のみならず、他の衆生すべての幸せの源であるため、計り知れない たとえマイナスの関わりであろうと、その人の人 菩提心の持ち主となんらかの形で関わった者は 生に大きなインパクトを与えます。菩薩に対して危害を加えたり、悪しき関係しかもてず、それによ って直接的には悪い結果しか生じなくても、長い目でみれば、そのようなすばらしい人物と関わった ことにより、将来よき結果を生じるのです。これが無限の菩提心の効力なのです。 菩提心の礎、あわれみの心ーーよ いしずえ 無限の菩提心の真の礎となるのがあわれみの心です。通常、仏典の冒頭には仏や菩薩、自分が観想 する本尊への礼拝文が記されているものですが、チャンドラキールティは著書『入中論』の冒頭であ びわれみの心への礼拝文を記し、「入中論』全体を通してあわれみの心 ( 悲心 ) の重要性とその価値に 薩 ついて力説しました。最初のレベルの修行者 ( 菩提心をおこした段階の修行者 ) はあわれみの心を軽 講視してはならず、実際の修行の道に人った者はあわれみの心を軽視してはならず、修行がなって悟り 第の境地に至った後にも、あわれみの心の重要性と価値を記億にとどめおかなければならないのです。
ます。しかし、こうした違いは段階をふんで徐々に出てくるものなのです。私が仏教の勉強を始めた のは五、六歳のころ、最高位の転生ラマと目されていたにもかかわらず、当時は仏教になんの興味も ありませんでした。その後、おそらく十六歳ぐらいだったと思いますが、ようやく仏教に真摯な興味 をもてるようになり、真剣に修行に取り組み始めました。二十代のころは、中国滞在中にもかかわら ず、万難を排して機会をとらえては導師から教えを授けてもらっていました。幼いときと違い、自ら く、つしよ、フ 望んで仏教に精進するようになったのです。その後、三十四、五歳ごろでしたか、ようやく空性の めったい 瞑想を始めました。ひたすら精進し、集中的に瞑想した結果、滅諦 ( 苦を断じることにまつわる真 理 ) がリアルなものに、手ごたえのあるものに感じられるようになりました。「ここには何かある、 確かな可能性がある」とね。このことは私を大いに鼓舞してくれました。しかし、菩提心となると話 は別でした。菩提心がとてつもなく優れた心の状態であることはわかっていましたし、称賛はしてい ましたが、三十代は菩提心の修行に入るどころではなかったのです。主にシャーンテイデーヴァのテ キストやその他の書物を学び、修行した結果、四十代になってなんとか菩提心の体験ができるように なったのです。それでも今なお私の心はよい状態にあるとはとてもいえません。しかし今では、十分 な時間があり、しかるべきタイミングと場所さえ整えば、自分も菩提心をおこせると確信していま す。ここまでくるのに四十年かかったわけです。 こんなわけですから、短期間で高い悟りの境地に至ったと主張する人に会うと、思わず吹き出した くなってしまいます。なんとか押し隠してはいますけどね。心を培うには時間がかかるものなので 242
の最高位の段階に達した菩薩たちが行う忍耐の行に至るまでのさまざまなレベルのものがあります。 忍耐とはたとえ逆境に直面しても、それにうちひしがれることも、圧倒されることもなく、揺らぎ も、たじろぎもしないある種の能力をさします。つまり忍耐を弱さのあらわれとしてではなく、揺ら ぎも、たじろぎもしないことから生じたカとみるべきなのです。暑さ寒さといったごくささいな身体 的苦労を忍ぶことができただけでも、私たちの心には大きな変化が生じます。目の前の苦難を忍ぶこ とで、長い目でみればよき結果がもたらされることに気づけば、日々の苦難を耐え忍ぶこともたやす くなるはずです。また菩薩の修行道としてもっとも高度な忍耐の行を行うさいには、知性もまた大切 な補足要因となります。 忍耐は仏教の行にとどまらず、日常生活においても、心の平静さを、安らぎを保つのに絶大な威力 を発揮します。忍耐を培った人は、ひどいストレスと緊張を強いられる環境に身をおいても、心の平 静さや安らぎがかき乱されることはありません。今回の一連の講義は、サンスクリット語で『ポーデ イサットヴァチャルャーヴァターラ (Bodhisattvacaryävatära) 』 ( 『入菩提行論』 ) という大乗仏教 のテキストに基づいて行います。このテキストは、大乗仏教を行じる者のため、菩薩の規範にしたが 道 の って生きる方法や菩提心のおこし方を概説したものです。しかし、そこにとりあげられたテクニック へ 薩の多くは、菩薩の修行 ( 大乗仏教の修行 ) をしていない者にも、いや仏教徒でなくても利用できるも 講のです。 第