要です。忍耐を行じるにしろ、布施を行じるにしろ、生きとし生けるもののために悟りを得ようとい う心がまえを、菩提心をともなえば、それは真の六波羅蜜行となるのです。 六波羅蜜行はすべて福徳をつむための行、あるいは智慧をつむための行のいずれかに関わっていま す。修行の道が、このように主に方便と智慧の二つのカテゴリーに分けられているのも、修行の果と して得られる仏の境地が仏の二つの身体 ( 二身 ) 、すなわち法身と色身だからです。二身それぞれ違 う機能をもっています。法身とは仏存在の最終的な悟りそのものです。法身が自身の完全なる悟りで あるのに対し、色身は仏が衆生に近づき、奉仕するための有形の身体です。色身は法身が衆生と関わ り、恩恵をほどこすための媒体のようなものです。 像 これで大乗仏教の顕教の修行の道の全体の枠組みがわかったことと思います。そのさい大切なの 体 全 は、修行の心がまえとして菩提心を、一切の衆生のために完全な悟りを得ようという熱意を有してい の 密ることです。このような心がまえのもとに、方便と智慧が合一した六波羅蜜行に代表される修行を行 教 、菩薩の十地を経て、修行の果である仏の二つの身体を、法身と色身を得るに至るのです。これが 教大乗仏教の顕教の通常の修行の道です。 仏 べ 顕教・密教それぞれの智慧と方便の合一ーーよ チ 講 密教と顕教の違いをきわだたせているのは、密教においては、方便と智慧の合一がもっと奥深い 第 2 5 1
は、幸せになったり、満ち足りたり、くたびれたり、飽きたりしたことでしよう。今回の瞑想の対象 は、幸せや、飽きた気分を体験する主体である「自分」あるいは「わたし」「我」です。これに意識 を集中させ、「わたし」なるものを探求してみてください。 心身とは別に独立して存在する「わたし」あるいは「我」なるものは存在しません。これだけは確 ごうん かです。身体を「我」とみなすことはできません。また五蘊のなかの感受作用も「我」とみなすこと はできません。なぜなら、ごく通常の概念で「わたしは感じる」というとき、「感じる主体」と感じ るという行為が別々に存在しているかのように思えるからです。ですから感受作用も「わたし」では ありません。また五蘊のなかの認識作用も「わたし」ではありません。なぜなら、「わたしは認識す る」というとき、認識という行為と、認識する主体が別々に存在しているかのようだからです。そう いうわけで認識作用もまた「わたし」ではありません ( ※ ) 。 ※個人の存在は身体 ( 色蘊 ) と、心の作用四つーー感受作用 ( 受蘊 ) ・表象 ( 想蘊 ) ・意志的形成カ ( 行蘊 ) ・認識 ( 識蘊 ) の計五つの集まり、すなわち五蘊からなっている。五蘊のそれぞれの蘊は、主 体的な自我である「わたし」「我」ではないことを確認するのが人無我の瞑想の第一歩である。 自分の心を、もっと完璧で、澄明で、さえわたった心と交換できるチャンスがあるなら、大半の べ人々は喜んでそうすることでしよう。身体でも話は同じです。例えば身体をもっと魅力的で、望まし 、現在の医学技術では、脳の移植はできませんが、そうし いものに取り替えることができるなら : た希望がないわけではないのです。もし可能なら、より魅力的な身体に脳を移植することだって望む 26 ろ
す。しかし仏教における無我説は、永久不変の「我」、固定的な実体など存在しないと説くものです。 永久不変の「我」こそ、仏教が否定の対象としてきたものです。 仏教は意識 ( 心 ) の流れを否定しません。それゆえ、サキャ派の高僧レンダワをはじめとするチベ にん・か ットの何人かの学者などは人我 (gang zag gi bdag ) ーー人の中に存在すると妄想されている我を 肯定しています。しかし多くの学者たちがこの人我の存在を否定していることも事実です。 このように今生から来生へと輪廻していくものの主体は何か、「わたし」とは何かについてはさま ごうん ざまな論議がなされています。ある説ではそれを身体の五つの構成要素の集まり ( 五蘊 ) の中にある とします。別の説では、「わたし」なるものは五蘊に依拠して仮に名づけられたものにすぎないと説 きます。 唯識派の流れをくむある一派では、意識の根底にはアーラヤ識があると主張しています。こんな仮 説が出たのも、今生から来生へと続く意識の流れが、「我」「わたし」なるものがあるなら、必ず見出 むけん すことができるはずだ、見出すことができないならば無見 ( 虚無論 ) に陥ってしまうだろうという思 る うけん いがあったからにちがいありません。逆に心身とは無関係な独立した主体とするなら、有見に、すべ さ 源ての存在に固定的実体があると思いこんでしまうでしよう。さらに意識の流れそのものの中に「我」 の 「わたし」があると仮定するのも問題があります。仏教では意識の欠けた状態をーーなんの概念も生 怒 まれない瞬間があるとしているからです。そのために唯識派などでは通常の意識の流れとは別の、基 講 第盤の心であるアーラヤ識の存在を仮定しているのです。
深遠なレベルでなされていることです。顕教のシステムでは方便と智慧は合体しているとはいえ、両 者はまったく別のものとして、二つの完全に異なる実体として認識されています。顕教における方便 と智慧の合一とは互いを補うという意味なのです。補完しあい、支え、増強するのです。しかし、密 教では方便と智慧はもっと深いレベルでの合一がなされ、意識のある出来事、ひとつの心の状態で、 方便と智慧は完結しているのです。方便と智慧は心の異なる局面ではなく、互いに補完し合うわけで もなく、対象を一瞬一瞬に認識しつつ、方便と智慧が完全に融合しているのです。 密教の分類法はいくつかあり、六種の分類法もありますが、通常は四種類にわけます ( 一三九ペー ジの表の新訳派の密教分類法参照 ) 。最初の三つのタントラと無上ヨーガタントラの大きな違いは、 前者にはまったくない光明の修行が、後者では強調され、広範囲に説かれている点です。 光明という概念を正確に理解するためには、意識について、意識とともに流れるエネルギーについ て、多くの微細なレベルで理解しなくてはなりません ( 「微細な」とは奥深く捉えがたいという意 味 ) 。それゆえ無上ヨーガタントラの典籍には、チャクラ、脈管、脈管の中を流れる風、身体の主要 な各部位に存在する滴と、それらに関わるさまざまなレベルの意識についての記述が多くなされてい るのです ( ※ ) 。 ※風 ( ルン ) ・脈管 ( ツア ) ・滴 ( ティクレ ) の三つは密教生理学とチベット医学の重要な概念である。 風 ( ルン ) は筋肉の動きから血液循環、呼吸から排泄に至る身体の内部の動きや生命を司る生体工ル ネギー ( 気 ) のようなもの。意識という騎手を運ぶ馬のような役割を果たし、五官にまつわる意識が ティクレ 2 う 2
しい生活をおくらなくてはなりません。道徳的に正しい生活とは、十の不善の行為を放棄することで€ す。十の不善の行為とは、身体によるものが殺生・盗み・邪淫の三つ、言葉によるものが嘘・ざれご と・悪口・二枚舌の四つ、心によるものが、貪り・悪心・邪見の三つです。十の不善の行為を放棄し て、道徳的な生活をおくろうという純粋な熱意を育むためには、カルマのメカニズムを、因果の法則 を理解する必要があります。 カルマの概念の背後にあるメカニズムを、行為と果がどのように関わりあっているのか、極めて微 細なレベルで、あるものがいかにして別のものを生み出すに至るのかを理解しようにも、通常の理解 の範疇をこえています。修行の初期の段階においては、カルマ論のもっとも微細な面 ( 奥深く捉えが たい面 ) は私たちには理解しがたいものがあるのです。そのため、カルマの教義については、釈尊の 一一 = ロ葉をある程度信頼し、信をおくしかありません。つまり、カルマの法則を観じることと帰依するこ とは密接な関連があるのです。実際、帰依の教戒のなかには、カルマの法則に則り、自らを律して生 きなくてはならないというものもあるのです。 帰依する、カルマの法則に則り十の不善の行為をしないなど、自らを律して生きる行を行うには、 自分には必ずそれができるという自信が必要です。自信を、そしてある種の熱意をもっためには、人 間の身体が、人間存在がいかに貴いものかを説いた経典に目を通してみるのがいいでしよう。この段 階では、身体や身体的な実体がいかに不浄であるとか、不完全であるといったことには触れません。 逆に、いかに人の身体がすばらしく、意味があり、可能性を秘めたものなのか、身体を利用すること のっと
五つの感覚器官 ( 五根 ) ( ※ ) と六つの意識 ( 六識 ) に「我」「わたし」があるとするなら、先ほど 指摘したように、意識がなくなった瞬間に「我」「わたし」もなくなってしまいます。だからこそ唯 識派は根源の意識であるアーラヤ識を個人存在の主体と、輪廻の主体としているのです。同様に仏教 では空性を直感的に悟った状態があるとしています。その際、意識は穢れを知らず、清浄にして澄み わたっています。その瞬間、完全なる悟りに至っていなくても、清浄で穢れのない意識の状態にある のです。しかしそれと同時に、人を完全な悟り至らせない障害が、潜在的な力があることも認めなく てはなりません。だからこそ唯識派は過去の影響の潜在的な力の集積所としてのアーラヤ識を想定し たのです。 ※眼・耳・鼻・舌・身体 ( 触覚 ) の五つの感覚器官。これらに思考器官である「意」をあわせた六つ の感覚器官によって、それぞれの感覚器官の対象を認識するのが眼・耳・鼻・舌・身体・心の六つの 意識。 若者の犯罪 社会への怒りや憎しみに駆り立てられた若者が冷酷無残な殺人を犯しています。憎しみから生 じた行為に社会はどう対応すればよいのでしようか。 ここ何十年か人間の本源的価値が軽んじられ、ないがしろにされてきたような気がしてなりま せん。これとさらに他の要素も組み合わさって、今のような社会ができあがったのですから、
は、粗い身体と微細な身体を分離させることで、悟りの境地へと至る。 怒りと他者を害する行為 不当に扱われた、傷つけられたという思いから生じる怒りは、他者を冷酷に傷つける行為よ り、ましなのではないでしようか。それとも他者を害する行為ーー例えばチベット人が受けて きた迫害のようなーーの裏には常に怒りがあるのでしようか。 難しい質問ですね。特に最初の質問は状況を見て判断しなくてはなりません。怒りがなくて も、無知ゆえに他者に危害を加えることはあります。例えば魚釣りがそうです。私たちは魚を 捕るとき、魚が生きものである ( 心あるものである ) という感覚を欠いています。つまりこれは無知 ゆえの殺生なのです。 貪り ( 欲望 ) が引き起こす殺生もあります。狩猟がそうです。ここにも怒りは介在していません。 狩猟は無知を主体に、貪りが加味されて引き起こされた行為といえましよう。同じ狩猟でも楽しみで はなく、食糧を得るために仕方がなく行う狩猟もあります。このようにさまざまなケースが考えられ 質るのです。 本 の ナチスは強制収容所でユダヤ人やその他の人々を大量虐殺しましたが、これまた別のケ 1 スでしょ 苦 う。このような極端なケースでも個人的な憎悪や怒りの感情抜きで、虐殺に関わった人たちもいるは 講 第ずです。このように人間の行為の本質は複雑きわまるものがありますから、仏教のカルマ論では行為 107
第三講苦の本質 はっきりしています。大乗仏教の唯識派と中観派では、無我や空性を悟った智慧を起こさずに煩悩の 障害 ( 煩悩障 ) と智慧の障害 ( 所知障 ) という二つの障害三障 ) ( ※※ ) を取り除くことはできない と述べています。 人無我を観じることは、煩悩 ( けがれた感情や認識 ) を直接克服する力となり、すべての事象の究 ほうむが 極のありようである無我 ( 法無我 ) ( ※※※ ) を観じれば、煩悩が私たちの心の中に植え付けた潜在勢 力を根本から断ち切ることができるといわれています。しかし中観帰謬論証派では、人無我と法無我 を主体と主体によって規定された客体 ( 対象 ) としてとらえ、この二つによって克服されるものに違 いはないと説いています。いずれにせよ、空性を、無我を観じることによってしか、煩悩を、けがれ た感情や認識を根本から断ち切ることはできないのです。 ※人無我不変恒常の実体としての我はなく、五蘊という基盤に仮に「我 ( わたし ) 」と名づけたに すぎないとい一つこと。 ※※二障煩悩の障害 ( 煩悩障 ) とは悟りへの障害となる煩悩の障り、智慧の障害 ( 所知障 ) とは悟 りの智慧の働きを妨げる微細な障害。この二つの障害を完全に取り除くことができれば、人は色身と 法身を得ることができるといわれる。 ※※※法無我人無我の対をなし、すべての事象は、他によって生じるもので実体を欠いている、す なわち空であること。 10 5
夢のもつ意味 夢の中のイメージは、覚醒時の意識にどのような意義を、天啓をもたらすものなのでしよう カ 通常の夢ならば、荒唐無稽もよいところ、特に真剣にとる必要はないと思います。もちろん、 フロイドやユングのように、夢を真剣にとる者もいます。 とはいえ、夢を完全に無視することもできません。多くの要素が集まった結果、夢の中に重大なお 告げが現れることもあるからです。なかには重大な意味をもっている夢もあります。そのようなわけ で、すべての夢を無視することはできないのです。 密教の行、特に無上ヨーガタントラには、特別な夢を見ることを可能にする特殊なテクニックがあ ります。無上ヨーガタントラで夢ヨーガが重要視されるのは、これを行じることで、覚醒時の修行に 特別なインパクトを与えることができるからです。また夢を見ている最中に、機会が許せば、また正 しいテクニックを用いることができれば、あなたの微細な身体 ( ※ ) を、より粗い身体から分離させ ることができます。 ※微細な身体すべての生きものは、粗い・微細・最も微細という三種類の身体を有している。粗い 身体とは地水火風空からできた私たちの通常の身体、微細な身体とは、脈管 ( ツア ) ・風 ( ルン ) 滴 ( ティクレ ) のこと ( 詳しくは第八講二五二ページ参照 ) 、もっとも微細な身体とは光明の心が出 現するさいの乗り物となる最も微細な風のことである。密教、特に無上ヨーガタントラの行者たち 106
第四講怒りとカルマ ( 53 ) 精神的に傷つけられたときーーー・ ここまでは、他人から物理的に危害を加えられた場合、どのように対応すべきかについてお話しし ました。次の詩句でシャ 1 ンテイデーヴァは物理的にではなく、侮辱されたり、貶されたりして精神 的に傷つけられたとき、どう対応すべきかを語っています。 身体のない心を 、一 = 。カど、つして破壊するこどかて医、よ、つ 身体への特別な執着ゆえに 苦が身体を苛むのだ さげ・す 蔑み、罵倒、 不决な宀一口葉などによって 身体が害されるこどはないのに 心よ、と、つしてそのよ、つに怒るのか この二つの詩句でシャーンテイデーヴァは心が物理的存在でないことを改めて指摘し、心と身体の さいな 12 7