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検索対象: 故事と名言でつづる中国史
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1. 故事と名言でつづる中国史

270 かんゅ ていげん 韓愈 ( 七六八ー八二四 ) は徳宗の貞元八年 ( 七九一 l) 、進士に及第したが、名門の出身でないため、な せんぶ かなんかいにう かなか任官できず、宣武軍 ( 河南省開封市 ) の節度使に招かれて属官となり、はじめて官途についた。 じろう りくぶ ちょうあん けん 韓愈は後に六部の侍郎を歴任し、都長安の長官にもなるが、それは憲宗の次の穆宗 ( 在位八二〇ー八 ちょうけい 二四 ) の長慶三年 ( 八二一一 l) のことであった。 とうしきじ かとう 『唐詩紀事』巻四十「賈島」に次のようなエピソ 1 ドが見える。 ろば 賈島は驢馬に乗って都大路を通行中、詩作に夢中になって、五言律詩の第四句の「僧は推す月下の たた 門」を、「僧は敲く月下の門」の方がよいか、〃僧は推す〃とした方がよいか考え込んで、通りかかっ た都知事の韓愈の行列につっ込んでしまった。 ″無礼者め〃と一時は騷ぎになったが、事情がわかると、韓愈は、 「それは、敲くの方だよ」 といい、轡をならべて詩を論じたという。 はくしちょうけいしゅう 林間煖酒焼紅葉。 ( 『白氏長慶集』巻十四、「送王十八帰山寄題仙遊寺」 ) すいこう 推敲 ( 小岩井弘光 )

2. 故事と名言でつづる中国史

南大将軍に杜預を推薦し、二七八年に病死した。 せいりよう 杜預は着任後ただちに兵を出し、やがて総攻撃の際に障害となる呉の要地・西陵を大破したうえで、 ちゅうしよれい 翌二七九年秋、二度にわたって南征の出兵をうながす上奏文を呈上した。このとき、中書令 ( 秘書官 ) の地位にあった張華が熱心に賛成の意見をのべたこともあり、この年十一月、ついに武帝は征呉の令 を発したが、この戦にあたっては挙国一致体制をとらねばならず、武帝はあえて賈充を総大将に任命 した。 出兵の命をうけた三十万の晋の大軍は、翌年二月には荊州を占領し、ここで作戦会議が開かれた。 この席上で、 「いま一挙に呉を滅ぼすのはむつかしいし、ちょうど春の雨期にあたり疫病も発生しやすいから、い ったん作戦を中止して冬まで待つべきだ」 と発言するものがいた。すると杜預は、 たと 「今、わが軍は志気がおおいに高まっている。これを譬えていえば竹を割るようなもので、いくつか の節を割ってしまえば、あとはまったく力をいれなくても、むこうでひとりでに裂けてしまうもので、 今をおいてチャンスはない」 代 時 と主張し、かくて翌三月には、文字どおり「破竹の勢い」で進軍した晋軍は、呉の都の建業を陥れ の て晋の天下統一を実現したのである。 しゅんじゅうさし その後、杜預は経籍の研究に従事し、『左伝』の最古の注釈書『春秋左氏経伝集解』三十巻、『春秋 釈例』五巻、『春秋長歴』一巻など、大きな業績をのこした。 ちょうか さでん

3. 故事と名言でつづる中国史

211 南北対立の時代 しよろう 書郎 ( 国史編纂官 ) の職にもついた。職掌柄多くの資料 、をを見ることができるからである。 これほど一心をこめた作品だが、でき上がってみる だれ と誰も読んでくれない。そこで考えついたのが、有名 義 ~ 人に序文を書いてもらうことであ 0 た。当時、博学を こうなひっ 、量もって称されていた皇甫謐は、一読してそのできばえ ちょうさい を称賛し、即座に序文を書いてくれた。さらに張載が ちゅうしよろう り・ゅ、つを、 まをを「魏都の賦」に、中書郎の劉逵が「呉都の賦」「蜀都 えいかん ~ の賦」にそれぞれ注をつけてくれ、また衛埖が「略解」 《第 ~ を書いてくれた。加えて司空 ( 建設大臣で宰相職を兼ね 、〈る ) の張華がこれを見て、 ちょうこう はんこ 第〕〕「これこそ班固 ( 「両都賦」 ) ・張衡 ( 「二京賦」 ) のたぐ : - いだ」 と絶賛したという。 ーをこのことを伝えきいた洛陽の高官や貴族たちが、竸 ってこれを書き写したため、紙の需要が急に高まり、 紙価が高騰したという。 今日では「洛陽の紙価を高める」などといって、著 4 り へんさん

4. 故事と名言でつづる中国史

256 ひんけいしん 牝鶏の晨 牝鶏が雄鶏をさしおいて時を作る、すなわちかかあ天下は、家父長制社会では古くから忌むべきこ しよきよう ととされてきた。たとえば、この語は古くは『書経』に、 牝鶏晨するなかれ。牝鶏の晨するは、惟れ家の索るなり。 りくちょう びんけいしんめい とあり、六朝末の大知識人顔之推 ( 五三一ー五九一 ) もその『顔氏家訓』治家篇で、「牝鶏晨鳴」を 固く戒めている。 ちょうそん 唐の太宗の皇后長孫氏は、この点を深く心得たうえ、内助の功に徹した人としてよく知られている。 げんぶ 皇后は十三歳で太宗に嫁ぎ、 " 玄武門の変〃のときには十九歳だったが、太宗が部下をひきいて兄 りとくせい の李徳成らと戦うため玄武門へ向かおうとするのを見送り、将兵のひとりひとりに懇ろに声をかけた。 将兵はみな感涙にむせんだという。 あご これほどの内助の功をつくしたにもかかわらず、彼女はそれを鼻にかけて夫である太宗を顎で使っ たりはしなかった。一方、太宗は即位してがらも、いよいよ皇后を大切にし、臣下の賞罰の問題がお こるたびに彼女の意見をたずねたが、彼女は、 めんどりおんどり あかっき がんしすい こ がんしかくんちか

5. 故事と名言でつづる中国史

する竇氏一族が朝廷の要職を独占するにいたった。 ごかんがいせきわざわい はたん 後漢の外戚の禍はここに始まるが、竇氏一族の専横も意外なところで破綻し、瓦解することにな えいげん もくろ 永元四年 ( 九一 I) 、竇憲は和帝を殺害して、みずから帝位に即こうと目論んだ。これを事前に察知し かんがん ていしゅう た帝は、宦官でただ一人その党に組みしなかった中常侍 ( 宦官の官名 ) の鄭衆を片腕としてひそかに すき このえ 準備をととのえたうえ、竇憲らの隙に乗じて、近衛兵を動かして竇一族を一網打尽とし、竇憲に迫っ て自殺させた。 だいちょうしゅう この結果、竇氏に代って台頭したのが宦官鄭衆であって、大長秋 ( 宦官の最高位 ) となり、政治に あずかるようになった。以来、後漢の朝廷は宦官に握られ、ついには自滅に追いこまれるにいたる。 みん ちょうせつこう びようし のちに明の人趙雪航 ( 名は弼 ) は、その『評史』において、このことに触れて、「竇氏は除かれたが、 宦官の権力がこれ以来盛んとなった。諺に、 『前門に虎を拒ぎて、後門に狼を進む』 というのは、このことかーと述べた。今日では、一つの災をのがれて、さらに他の災にあうたとえ として、「前門の虎、後門の狼」というように用いている。 代 時 の 王前門拒虎、後門進狼。 ( 『趙雪航評史』 ) ふせ ひっ ことわざ ちゅうじようじ がかい 示岩井弘光 )

6. 故事と名言でつづる中国史

みんながその意味をさとれないでいたとき、ただ一人だけ、撤退準備をそそくさとしている男がい ( 0 ようしゅう しゅ・は 主簿 ( 文書係 ) の楊修という男だった。 「鶏肋ーの意味がわからず、うろうろしている仲間たちは、楊修の行動にも合点がいかない。 「お前はなにをしているのだー にわとりあばら の「なあに、鶏の肋は食べるほどの肉はないけれど、さりとて多少は肉がついているので捨ててしま ちょうあん 対うのは惜しい。つまり、いささか惜しいが、長安へ帰ろうということだ」 南こうして曹操の軍は、陣払いして帰還の途についたのである。 これ以来、〃鶏肋〃は「たいして役に立つものではないが、かといって捨てるには忍びない」たと

7. 故事と名言でつづる中国史

一衣帯水 ずいぶんようけんほくしゅう ちんせん 隋の文帝楊堅が北周を滅ぼして北朝の王者となった翌年 ( 五八一 l) 、南朝では陳の宣帝が在位十四年 ちんしゆくう えんさ で死に、子の陳叔宝が立った。いわゆる陳の後主である。陳叔宝は人民の怨嗟の声もよそに酒色に明 け暮れ、政治をまったくかえりみなかった典型的末代皇帝の一人である。 隋の文帝楊堅は即位したときから南朝を滅ぼして天下を統一することを考えていたが、五八七年、 こうりよう こうわ・よら・ しようそう ちょうあん 今日の湖北省江陵に都していた後梁の後主蕭琮を隋の都長安に呼んだ。その際、文帝は陳に虚を衝か ぶきよら′ さいこら・ど れて要地江陵を奪われるのを恐れ、武郷公の崔公度を派遣して守備を固めさせることにした。ところ りゅうしゅ しようぎこう しようがん が、江陵の留守をしていた蕭琮の叔父蕭巌や弟の蕭義興らは、崔公度が同地を奪いに来たものと誤解 ちょうこら・ へいどん し、人民十万をひき連れて長江を渡り、陳に降服してしまった。怒った文帝は後梁を併呑すると同時 に、南征の決意を固めた。かくて翌開皇八年十月、文帝は陳攻略作戦の開始を宣言した。 代 あに 時 我は百姓の父母為り、豈一の衣帯の水を限りて、之を拯わざる可けんや。 の 支 令 - っと - っ 律わしは即位以来、ひたすら陳と事を構えぬよう心掛けてきたが、今や陳の主は放蕩無頼、民は塗炭 の苦しみにある。「わしは民の父母としてこれを無視することはできない。あの着物の帯ほどの長江 かいこう これすく

8. 故事と名言でつづる中国史

後漢王朝は豪族の協力を得て建国されたから、その後も彼らは官僚として政治をささえる一方、そ ぜんかん の地位を利用して地主・貴族としての力を蓄えた。一方、その下にある農民は前漢以上に苦しい立場 におかれることとなった。もちろん地主・官僚のなかには清節の士も多かったが、後漢後半に盛んと とら・こ がいせきかんがん なる外戚・宦官の動きにまき込まれて理想を果たせず、〃党錮の禁〃にかかって郷里に蟄居せざるを 得なかった。郷里にもどった地主は土地経営に専念し、宦官も利殖を土地に求めたから、そのしわよ せはすべてに弱い農民に集中した。農民はさらに後末の連年の自然災害に苦しめられ、宗教に一縷 の望みを託するほかなくなった。 ちょうりよら・ を、と要ノ しよくしせん 二世紀後半、蜀 ( 四川省 ) では張陵という者が祈によって病気を治していた。彼の教団は天師 どう どとぺいどう 道とも五斗米道とも呼ばれた。五斗米道というのは、病気が治癒すると米五斗 ( 十リットル前後 ) を教 かほくさんとう ちょうかく じゅじゅっ 団に献納することになっていたからである。同じころ、河北・山東では張角という者が呪術的方法で 病を治し、その教団は太平道と呼ばれていた。この両派はのちの道教の源流ともされている。両派は つながりを持ち、特に太平道の方は急速に信徒をあつめて十数年のうちに数十万人に達した。張角は うき 人民大衆を終局的に貧苦から救いだす道は世直ししかなしと考え、朝廷内にまで同志をつくって蜂起 の機会を待つにいたった。 代 ほう 時 張角は信徒を一万人ほどから成る方 ( 軍団 ) に編成し、全部で三十六方として方 ( 将軍 ) に統率させる の 王一方、 どかん 蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし、歳は甲子にあり、天下大吉。 としこうし ちつきょ てんし いちる

9. 故事と名言でつづる中国史

202 「なぜ人の皮を剥ぐようなことをしたのか」 とたずねると、 「臣下にしてその君を弑した者、姦邪にして不忠な者を罰したまでだ」 -. : つき - きょ・つ 賈充が魏の臣下として高貴鄕公を弑し、晋に仕えたことを諷したもので、賈充は一言もなかったと いう。「面皮を剥ぐ」とは、一般には厚顔のものを辱しめる場合に使われる。 さて、晋の国内には南進して呉を討つべしとする一派と、北方の異民族の動向に注意すべしとする ようこ とよ おうこん 一派があった。前者、南進派を代表するのが羊や杜預、後者、北方派にはさきの賈充や王渾らがいた。 ちょうこう 羊砧は呉を攻めるには長江上流から攻めくだるのが最良と考え、軍船をつくらせ水軍を訓練し、呉 討伐の南征策を武帝に上奏したが、北方派の反対にあってなかなか実現しないまま、自分の後任の征 しい かんじゃ

10. 故事と名言でつづる中国史

代 時 書を読めば万倍の利あり の 帝 皇 えい 独仁宗が没すると、英宗 ( 在位一〇六三ー六七 ) が傍系から入って即位した。仁宗には男子がなく、甥の 英宗が養子になっていたのである。英宗は英明な天子であったが、在位わずか四年でなくなり、これ せっしんどうひ 度という人が、「節神道碑」という碑文の銘を撰したが、あまりできがよくなかった。ある人が、 「これはどなたの撰ですかー とたずねたので、盛度が、 「度が撰しました」 と答えたところ、側にいた人々が大笑いをしたという。この″度〃と″社。は発音が同じであり、 これによれば杜黙より以前に " 杜撰〃ということばがあり、「度撰」と聞いてとっさに「杜撰」を思 い出したことになるのである。 がい しん 以上のように「杜撰」の出典についてはいろいろの説があるが、清の歴史家の趙翼は、その著『核 よそうこ・つ 余叢考』 ( 巻四十一一 I) で、このことばの詳細な考証をこころみている。 杜黙為詩、多不合律、故言事不合格者、為杜撰。 ( 『野客叢書』巻八 ) 亡ん ちょうよく ( 巨勢進 ) おい