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検索対象: 故事と名言でつづる中国史
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1. 故事と名言でつづる中国史

じゅん かんがんえん 順帝 ( 在位一二五ー一四四 ) が十一歳で即位できたのは宦官が閻氏一門を除いたためで、その功に より、宦官十九人が侯に封ぜられ、一三五年には宦官の養子による襲爵さえもが認められるにいたっ がいせきりよう た。こうして宦官の発言力が強化される一方、順帝が外戚梁氏を重用したため、朝政は混乱の極に 達した。 当時、地方巡察の命をうけた張綱が、 さいろう いずく 豺狼路に当る、安んぞ狐狸を問わん。 やまいぬやおおかみのような姦物が中央の要路にあるのをそのままにして、どうしてきつねやたぬ きのような地方の小物を追及することができようか、と宦官・外戚の専横ぶりを批判し、車を留めて 出発しなかったという話はその一端をしめすものである。 ちゅう 宦官・外戚の専横は、以後幼帝がつづくことでいっそうはげしくなった。冲帝 ( 在位一四四ー一四五 ) かん れい は二歳、質帝 ( 在位一四五ー一四六 ) は八歳、桓帝 ( 在位一四六ー一六七 ) は十五歳、霊帝 ( 在位一六七ー 一八九 ) は十三歳でそれぞれ即位しているからである。 ぜんちょうはか このうち、桓帝は一五九年に外戚梁氏を宦官単超と謀って誅滅し、その功によって宦官五人を侯に 王封じた。以来、宦官はいっそう威を振うこととなった。 たいがく 統こうした情況を不満とした、知識人・官僚は、官僚予備軍である太学の学生とともに朝廷批判を行 い、大騷動となった。一六六年のことで、宦官が支配する朝廷はこれに力で対抗し、多数の人士を罷 こり ちょうこう かんぶつ ちゅうめつ

2. 故事と名言でつづる中国史

156 武帝が死に次の昭帝 ( 在位、蔔八七ー前七四 ) が即位してから数年ののち、漢と匈奴は和親した。 昭帝 0 始元〈年 ( 前〈一 ) 0 春一単于 0 訪 0 〈漢 0 使者蘇武 0 引 = 渡」 0 求 0 〈《 = ろ単于 0 、 「蘇武はもう死んでしまった」 と答えた。しかし、その夜ひとりの人物が漢使をたずねた。彼は蘇武の属官として、やはり匈奴に じようけい 留められていた常恵である。常恵は漢使に今までの事情をつぶさに述べ、ある策をさずけたのである。 次回の会見のとき、漢使は、 じようりんえん 「漢の天子が上林苑 ( 御苑の名 ) で狩りをしておられたとき、一羽の雁を射とめられたが、その雁の はくしよきぬ 足に帛書 ( 帛の書きつけ ) が結んであり、それには、『蘇武は大沢の中に在る』と書いてあった。蘇武 が生きているのは明白である」 しよう だいたく かり

3. 故事と名言でつづる中国史

枕を高くして臥す がっしよう そしん 秦の六国への東進は蘇秦 ( ? ー前三一七 ) の合従策によっていったん防止されたが、それをくつがえ ちょうぎ してふたたび秦を優位に戻したのは張儀 ( ? ー前三〇九 ) であった。 きこく 彼は魏の人で、蘇秦と共に鬼谷先生に学び、諸侯に遊説したが認められず、かえって楚では宰相の むち へき 璧を盗んだ疑いをかけられて鞭うたれた。妻がこうした不遇を詰ると、張儀は彼女に、 代わ 時「吾が舌を視よ、なお在りや否や」 ( おれの舌をみてみよ、まだあるかどうだ ) と訊ね、あるときくと、 分「それで十分だ」 といって、その通り弁舌で世にあらわれることができた。 う けいぶん 虫 ( どぶがい ) 譬えを引き ( 『史記』周本紀 ) 、蘇代は趙の恵文王 ( 在位、前二九九ー前一一六六 ) に向かい、 いっ と鷸 ( かわせみ ) がたがいに争いあってゆずらずにいるところを漁夫に捕えられる「漁夫の利」の譬え せんごくさく を引いている ( 『戦国策』燕下 ) 話は有名である。 寧為鶏ロ、無為牛後。 ( 『史記』蘇秦列伝 ) しん まくら ( 小岩井弘光 )

4. 故事と名言でつづる中国史

鳴かず飛ばず しんぶん 斉の桓公 ( 在位、前六八五ー前六四一一 I) ・晋の文公 ( 在位、前六三六ー前六二八 ) とはりあって、南方の覇 しようしん せい 者たる地歩を固めた楚の成王 ( 在位、・前六七二ー前六二六 ) は、前六二六年、太子商臣を廃して、晩年 ちょうあい 寵愛するにいたった王子職をこれに代えようとしたため、激怒した商臣に弑され、その商臣が即位し ー前六一四 ) である。 た。穆王 ( 在位、前六二六 うらみ 穆王は、「怨骨髄に入る」の項で述べた徽の戦以来、晋・楚が伐ちっ伐たれつの関係に陥り、斉も かんげき ちゅうげん また桓公没後の内乱で疲弊して、中原に中心のなくなった間隙に乗じ、念願の中原進出を試みて、 こうが ていちんそう 鄭・陳・宋を与国とし、その勢力圏はついに黄河の南岸に達した。 前六一四年、穆王が死んで、その子荘王 ( 在位、前六一四ー前五八九 ) が立った。ところが、荘王 「諫めるものは死罪に処す」 時と訓令を発し、日夜宴楽にふけって朝廷に出なかった。こうして三年たった一日、大夫伍挙が宴席 乱にまかり出ていった。 分「岡の上に一羽の鳥がおります。三年、蜚ばず鳴かず。これはどういう鳥でございましよう ? 「三年、蜚ばず、とあれば、蜚べばまさに天に至ろう。三年、鳴かず、とあれば、鳴けばまさにひと せいかん おか いさ そう しい たいふごきょ

5. 故事と名言でつづる中国史

烽火三月に連らなり、家書万金に抵る と記している。戦乱は唐の国家・民衆すべてに大きな影をおとしたのである。 れん しらようぎ じようげん たが、上元二年 ( 七六一 ) 、息子の史朝義に殺された。 ほうおう 上元三年四月、玄宗と粛宗が相次いで死に、代宗 ( 在位七六二ー七七九 ) が即位した。翌宝応二年正 かほく 月、唐軍は回紘軍の協力を得て史朝義を討ち、史朝義が平州 ( 河北省 ) で部下に殺されて、天宝十四年 ( 七五五 ) 十一月以来七年あまり続いた反乱はここに終りを告げた。 かほく この反乱は安禄山と史思明を中心人物としたから「安史の乱」といわれるが、乱後は華北を中心と する広大な地域がすっかり荒れはててしまった。 さんせん 杜甫 ( 七一二ー七七〇 ) も乱にまき込まれ、三川県 ( 長安東北 ) に逃れた後、粛宗の即位をきいて霊武 に赴こうとして、一時賊に捕われ、家族は州 ( 三川県北 ) に別れ住み、幼児は餓死した。 しゅんう きれん その後、四川等にも旅しているが、五言律詩「春望」の起聯に、 国破れて山河在り、城春にして草木深し とうたうのは、賊に捕われた至徳二年 ( 七五七 ) の時のもので、戦火と家族との離別にある模様を頸 聯に、 とに うかさんげつ あた だい

6. 故事と名言でつづる中国史

白駒の隙を過ぐるがごとし ちょうきよういんよく しゅうこうしゅう 五代 ( 九〇七ー九六〇 ) 最後の王朝周 ( 後周。九五一ー九六〇 ) は、名将趙匡胤の補翼もあって、世 宗 ( 在位九五四ー九五九 ) の時、国威大いにあがり、周辺の十国もほぼ配下におさめることができた。 きよう が、在位六年にして世宗が死に、子の恭帝 ( 在位九五九ー九六〇 ) が即位した。わずか七歳だった。 きったん その翌年の西暦九六〇年、またもや契丹が来襲したので、これを迎え撃つべく、趙匡胤は周の軍隊を ひきいて進発した。 この日の夜、部下の将兵たちは、趙匡胤を天子とするべく衆議一決し、黄袍 ( 天子がふだん着る黄色 すいたい の上衣 ) を彼に着せかけて、天子に推戴してしまった。 そう かなんしようきゅう 幼い恭帝はやむなく位を禅り、趙匡胤が帝位についた。任地が宋州 ( 河南省商丘県を治所とした州 ) ペん かいう であったことから、国号を宋と名づけ、都を汁 ( 河南省開封 ) に置いた。これが宋 ( 九六〇ー一二七九 ) の太祖 ( 在位九六〇ー九七六 ) である。 彼の仕えた周の世宗が、ある程度周辺の小国家に圧力をかけてはあ 0 たものの、まだまだ宋の勢力 かなくちゅうげん 皇範囲は、華北・中原に止まり、他は契丹等の異民族や地方の小国家がそれぞれ独立して統治を続けて 独いた。 宋王朝安泰の独裁体制を築く上にも、これらを完全に勢力下におさめなくてはならない。それに何 たいそ はつく げき こうう せい

7. 故事と名言でつづる中国史

権も持ち、宦官全体が発言権を強化した。その後、文宗 ( 在位八二六ー八四〇 ) 朝の " 牛李の争い。の り・とくゆう 際に、李徳裕派が宦官に助力を求めたことから、宦官はいっそうのさばることとなった。 けん 文宗は、こうした宦官に不満をもった。実は、祖父憲宗、兄敬宗はともに宦官に殺されたばかりか、 父穆宗も自分自身も宦官に擁立されたという過去があった。 りくん そこで、宰相李訓と謀って宦官を除こうとした。李訓は禁裏の役所の庭のざくろに、 「甘露が天から降った」 と称し、真偽を検分に来る宦官を一挙に屠ろうとした。 しかし、宦官が来たとき風が幔幕のすそをひるがえして物陰の伏兵を暴露してしまい、かえって宦 官の軍に先手をとられてしまった。 おうおう たいわ かんろ これを″甘露の変。というが、太和九年 ( 八三五 ) のことで、以後、文宗は々として楽しむことな く終ったという。 しよう せん 穆宗 ( 在位八二〇ー八二四 ) から敬宗・文宗・武宗・宣宗・懿宗・僖宗・昭宗 ( 在位八八八ー九〇四 ) にいたる唐末の八帝は、敬宗一人を除いて、すべて宦官に擁立され、敬宗も在位二年で宦官に殺され る ( 八二六年 ) という宦官優位の有様がつづいた。 そうしばこう そのため、唐末には、皇帝はまったく宦官に見下されるようになり、宋の司馬光も、唐代の宦官の 配わざわい 支禍について、 やまいこうこう ていさくこくろう 自ら定策国老と称し、天子を目して門生となすに至る。根深く蔕固く、疾膏肓と、救なり薬すべ まんまく ぶん たい ぎゅうり

8. 故事と名言でつづる中国史

216 屋上に屋を架す りゅうよう ろう しん びん しばい 晋の最後の皇帝である愍帝が、北漢の劉曜に殺された翌年の三一七年に、司馬懿の曾孫にあたる琅 ナンキン しばえいけんこう とうしんげん 邪王の司馬睿が建康、いまの南京で司馬氏の王朝を復活した。これが東晋の元帝 ( 在位三一七ー一二二一一 I) おうどうおうとん である。これには王導や王敦など、琅邪の名族である王氏のはたした役割が大きかった。 めい 元帝のあとを継いだ明帝 ( 在位一二二三ー 三二六 ) は幼少のときから聡明のきこえが高かったが、在位 ー三四一 l) であり、ま わずか三年にして死に、三二六年に皇太子が即位した。これが成帝 ( 在位一二二六 ゆりよう だ五歳の子供であった。そこで王導と庚亮がこれを補佐したが、明帝の皇后の実兄である庚亮が実権 を握っていた。 にぎ この庚亮の一族に庚闡という詩人がいた。彼は風光明媚な建康の都城の美しさと賑わいをたたえて、 ようと 「揚都の賦」を作り、できあがるとまっ先に庚亮におくった。揚都は建康のことである。 しんせき ちょうちん 庚亮は親戚としてのよしみから、大いにその提灯をもって、 「これは二京を三京にし、三都を四都にすべきほどのものだ」 ごかんちょうこう と、会う人ごとに宣伝した。後漢の張衡の作った「両京の賦」や、晋の左思の作った「三都の賦」 と肩を並べうる傑作だというのである。 人びとは先をあらそってこの「揚都の賦ーを筆写したため、都の紙価がはねあがったという、まさ ゅせん 准くかん めいび せい ひまご

9. 故事と名言でつづる中国史

しばえき 哀帝がわずか在位三年で死んだのち、哀帝の弟の司馬奕 ( 廃帝、在位一二六五ー三七一 ) が即位するが、 げん かんぶん 桓温はこれを廃して、司馬昱が立てられた。これが簡文帝 ( 在位三七一ー三七一 D である。彼は元帝の めい おうど - っ 末子で、兄の明帝をさしおいて皇太子に指名されかけたことがあったが、これは王導の反対で実現し しん さんだっ なかった。桓温のおもわくとしては、この新帝の手で褝譲をおこなわせ、晋朝を簒奪して自分が帝位 に即こうとするものであったが、これには反対も多くなかなか実現しないうちに、その簡文帝が在位 おうたんし しゃあん 二年、三七二年に五十三歳で死ぬと、貴族の王坦之や謝安らが桓温の野望を抑えるために太子の司馬 よら・ こうぶ 曜を擁立した。これが孝武帝 ( 在位三七一一ー三九六 ) である。桓温は大いに腹を立てたがどうにもなら ぬまま、病をえて、この年のうちに世を去った。 えんこう あざなげんはく この桓温の部下に袁宏 ( 三二八ー三七六、字は彦伯 ) がいた。若い頃に父を失い貧乏ぐらしをしていた しやしよう さんぐん が、ある夜、自作の詩を朗詠していて将軍の謝尚の目にとまり、やがてその参軍 ( 属官 ) となり、さら とら・よ、つ きしつ たいしゅ ごかんき りぶろう に大司馬の桓温の記室 ( 書記 ) 、吏部郎、東陽郡の太守 ( 長官 ) を歴任して、任地で死んだ。『後漢紀』 もんぜん らくりんめいしでん 三十巻、『竹林名士伝』三巻を著し、その他に多くの詩文を残しているが、とりわけ『文選』に収め ぎ ごしよく さんごくし られた「三国名臣序賛」が有名である。これは『三国志』から魏・呉・蜀三国の名臣二十人を取り上 げて、その生き方をたたえたものであるが、その一節に、 代 時 の あた かかい 対夫れ万歳の一期は有生の通塗なり。千載の一遇は、賢智の嘉会なり。これに遇えば欣ぶなき能わ よ うしな なげ 南 ず、これを喪えば何ぞ能く慨くことなからんや。 っ そ しばいく よろこ

10. 故事と名言でつづる中国史

を没収したという。 あわ けん この弾圧は一種の財源確保を目的としたともいわれるが、仏教と併せて教 ( ゾロアスター教 ) ・景 教 ( ネストリウス派キリスト教 ) ・摩尼教 ( 教をもとにキリスト教・仏教を加味したもの ) などの西方から の宗教も弾圧された。 せん 翌八四六年、武宗が死に、宣宗 ( 在位八四六ー八五九 ) が嗣ぐと、仏教弾圧は中止され、仏教は存続 ちょうあん することを得たが、他の三教は消えたままとなった。長安に花ひらいた国際文化の衰退を示す一例と いえよう。 い この間に、社会不安もますます強まり、次の懿宗 ( 在位八五九ー八七一一 l) 時代には、八五九年の浙東 きゅう けいりん ( 浙江省 ) の「裘甫の乱ーに始まり、八六九年には桂林 ( 広西省 ) から郷里の淮南方面に帰る兵士を中心 度うくん とした「廳勛の乱」がおこっている。 こら・そ・つ 続いて僖宗 ( 在位八七三ー八八八 ) が即位すると、「黄巣の乱ーがおこる。 けんぶ やみ まず、乾符元年 ( 八七四 ) 、塩の闇商人の王仙芝が官憲の取締り強化に苦しんで、山東・河北の地に 挙兵し、黄巣がこれに応じた。王仙芝は八七八年に死んだが、その残党をも併せた黄巣は、南に向か こう カントン って、乾符六年には広州 ( 広東省 ) を陥し、在留のアラビア商人ら十万人を殺害略奪した。しかし兵士 代 こうわい こうめい のが風土に馴染めずにつぎつぎに死んだため、ふたたび北上し、江淮 ( 揚子江下流域 ) の地を経て、広明 らくよら・ 支元年 ( 八八〇 ) 十一月洛陽を陥し、十二月には長安に入った。 あんし 令 しせん 律「安史の乱」の時と同様、皇帝は四川に逃れ、黄巣が即位して国を斉と号した。その後、黄巣の部将、 しゅおんとう り・こくよう・ さだ ちゅうわ 朱温が唐に降り、唐はトルコ系の沙陀部の李克用らを用いて黄巣を破り、中和三年 ( 八八一一 l) に長安を せつこう おうせんし こうせい っ せい ようすこう わいなん さんとうかく せっとう