将軍 - みる会図書館


検索対象: 故事と名言でつづる中国史
60件見つかりました。

1. 故事と名言でつづる中国史

じようこく たいしゅじようぐん うらもうこ むていが Ⅷして勇名を馳せ、さらに上谷郡の太守、上郡 ( 内蒙古から陝西省北部を流れる黄河の支流無定河の流域 ) の 太守を歴任したが、この上郡に匈奴が大挙して侵入してきた。李広が百騎の部下を従えて軍を進め、 数千騎の匍奴の大部に遭遇したことがあった。このとき、恐れて逃げ帰ろうとする部下に李広は、 「本隊から遠く離れた、このような状態で逃げだせば、たちまち全滅する。いまここに留まっていれ ば、匍奴はきっと大軍のおとりだと思い、我々に攻めかかってはこないだろう」 といってわざと敵に近づき、部下たちに馬から下りて鞍を解かせたのち、数騎の精鋭とともに匈奴 の陣をおそって先頭に立っ敵将を射殺、無事に本隊に帰還したのであった。 武帝 ( 在位、前一四一ー前八七 ) の時代になってからも数々の軍功を立て、その間に七つの郡の太守 を歴任した。 とっぺん 李広は、賞賜を得ればすぐに部下に分け与え、士卒とともに飲食し、家には余財がなく、また訥弁 無ロで、ひとといっしょにいるときは、いつも地面に線を引いて陣形をえがき、戦いの工夫をしてい げんしゅう えいせいひょうき かくきょへい 武帝の元狩四年 ( 前一一九 ) 、武帝は大将軍衛青と驃騎将軍霍去病に匈奴の討伐を命じた。李広は自 分も出陣したいと願い出た。はじめ武帝は彼が老齢なので許可しなかったが、しばらくしてようやく これを許し、前将軍とした。 らよういき 東軍に配置された李広は右将軍趙食其と軍を合わせて東の道を進んだが、途中で道によったりし ちょうり て、大将軍衛青の主力軍と合流すべき期日に遅れてしまった。衛青は長吏 ( 秘書官 ) を彼のもとにやり、 道にまよったありさまを質問させた。それを屈辱と感じた李広は自分の陣営にもどると、刀をひきぬ せんせい こうが

2. 故事と名言でつづる中国史

代 時 曲学阿世 の 朝 王 けい えんこせい 統景帝の時代に、大へん剛直なことで知られた轅固生 ( 生は先生の意 ) という老学者がいた。斉の国の 人である。彼は『詩経』にくわしく、その学識によって博士になった。 は いてみずから首を刎ねた。李広の軍の将兵はみな声をあげて泣いた。人民たちもそれを伝え聞くと、 彼を直接知っているものも知らないものも、老いも若きも、みなかれのために涙を流した。 しばせん 司馬遷は李広の伝を書き、末尾に次のような感想をつけ加えた。 古い言葉に「その身正しければ、令せずして行なわる。その身正しからざれば、令すといえども従わ れず」とある。それは李将軍のような人をいうのであろう。わたしは李将軍を見たことがあるが、き まじめで田舎者みたいで、口先たくみに話すこともできなかった。彼の死んだ日、天下の人々は彼を 直接知っているものも知らないものも、みな残らず彼のために哀悼をつくした。彼のあの誠実な心は、 ことわざ すもも 世の人々にほんとうに信頼されていたのである。諺に「桃や李はものをいわないが、木の下には自 然と蹊ができあがる」とある。この言葉は小さいことだが、大きなことにたとえることができよう。 桃李不言、下自成蹊。 ( 『史記』李将軍列伝 ) きよくがくあせい しきょ・つ ( 巨勢進 ) せい

3. 故事と名言でつづる中国史

後、ついにこれを陥落させた。 かじどう こうしゅう りんあんせつこう 当時、南宋の最高司令官として首都臨安 ( 浙江省杭州市 ) で全軍の指揮にあたっていたのが賈似道で ちょうあい ある。彼は、後宮に入った姉が理宗 ( 在位一一三五ー六四 ) の寵愛を受け、そのおかげで出世の糸口をつ かみ、またたく間に位をのぼりつめてこの頃には皇帝をしのぐ権力をもつにいたっていた。朝廷では しゅう しゅうせい もはや彼にたてつく者はひとりとしておらず、彼にへつらって、周の成王を補佐した周公になぞらえ る者すら出てくる始末であった。 めいび かつれい 彼は、西湖畔の風光明媚な葛嶺に住み、五日に一度、西湖を渡って朝廷に参内するだけだった。ま た、中央・地方にかかわらず官吏の人事は、いっさい彼を通じて上奏しなければならなかった。その わいろ ため、彼の邸宅には、よい役職を得ようとする者から贈られた賄賂がかぞえきれないほど積みあげら れていた。 も、つこ しかも、彼は、賞をおしむ一方で、将軍たちの軍費精算をきびしくしたため、前線では、蒙古側に 寝返る将軍が続出する始末だった。 けんこうナンキン 蒙古軍が襄陽から建康 ( 南京 ) 〈攻め下った報告を受けた賈似道は、ようやく重い腰をあげて諸軍を ひきいて蕪湖に進むが、将兵たちには「賈似道のために」などという考えはさらさらなく、すっかり 代 時 戦闘意欲を失っていた。 の 皇賈似道は、ここで一計を案じ、彼らの士気をふるいたたせるため、将兵の昇進を布告した。ところ 独が将兵たちは口々に叫んだ。 「今さらなにが昇進だ。お前はかって二度も昇進の約束をしながら、一度だって実行したことはなか せいこ

4. 故事と名言でつづる中国史

118 ー宀 「王侯貴族や将軍大臣だって同じ人間じゃないか。お れたちがなっていけない道理はなかろう」 と呼びかけて護送役人を殺すと、農民たちは、「木 さお を斬りて兵となし、竿を掲げて旗となし ( 手近の木ぎれ けつき を武器とし、むしろ旗をかかげて ) ー蹶起したのであった。 いっき これから、農民一揆のことを「竿を掲げて事を起こす」 といい、物事のきっかけをつくることを「陳勝、呉広 をなす」というようになった。 この陳勝は若いころ地主のところで日傭取りをして いたが、仲間に、 「将来、偉くなっても昔の仲間たちのことを忘れない ようにしような」 といって、 みずの 「おれたち水呑み百姓になにができるか」 と冷笑され、 嗟乎、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。 ああ びよう

5. 故事と名言でつづる中国史

さ ちゅうざしせいり ) うしよう んかんけい から左将軍に任じられた。彼は前漢景帝の庶子中山靖王劉勝の末孫と名乗っていたので、献帝の とうしよう しやき 信任を得たのである。彼は献帝の恩顧に応えるべく、翌建安四年、車騎将軍董承と曹操謀殺をはかっ えんしよう たが発覚、下郵へ逃れた。その下郵からも追われて河北の豪族袁紹を頼ったが、袁紹の器量が小さく、 す 曹操の敵ではないのを見て河北を棄て、許昌南方でしばらく反曹操活動をつづけたすえ、曹操が大軍 りゅうびよう をひきいて南下するという噂を聞いて、刑州の劉表のもとへ身を寄せた。 えんじゅっ 劉表は当時、曹操・袁紹・袁術ら豪族の勢力争いの圏外にあって荊州に独立王国を築いており、頼 なんよう ってきた劉備を新野県城 ( 河南省南陽県南 ) に駐屯させた。 挙兵以来十七年、兵馬倥偬の間を馳駆してきた劉備にとって、ここははじめて得た安住の地であっ た。彼はここで数年暮し、この間に兵士を徴募するなどして有時の際に備えたが、建安十一年のある ももぜい ( く 日、劉表に招かれて酒を飲んだ。途中、厠に立った彼は、ふと自分の脾に贅肉のついているのに気が つき、 「乱世に生まれ、弓馬の道で天下に立とうという自分が何たる不甲斐ないことか」 と思わず涙を落した。 あと 席にもどった彼は、劉表に涙の痕を見とがめられて、 代 時 「わたしは常に馬を乗りまわしていたので、脾肉のつくことなぞっいぞなかったのに、ここしばらく の 対馬に乗らなかったところ脾肉がついてしまいました。老いも迫っているというに、いまもって天下に 南名を挙げることもできずにいる不甲斐なさ、思わず悲しくなったのです」 といったという。 しんや うわさ トわや ふがい

6. 故事と名言でつづる中国史

百聞は一見に如かず 代 しよう 時 武帝の死後、位をついだ昭帝 ( 在位、前八七ー前七四 ) はまだ八歳であった。そこで大将軍に任ぜら の じようしよう 歩くこうかくきょへい 王れた霍光 ( 霍去病の弟、 ? ー前六八 ) がその補佐にあたり、以後十三年にわたり丞相に匹敵する権勢を 統にぎる。 昭帝はわずか二十歳で死に、子がなかったのでいったん兄の子が帝位につくがすぐに廃され、十八 と単于を責めた。これを聞いた単于は、 「じつは蘇武は生きておる」 と詫び、かくて、蘇武は十九年ぶりに帰国することができた。いまは出使したときの面影はまった あごびげ く無く、すでに髟須も髪もことごとく白くなっていた。また随行した百余人のうち、彼とともに帰還 したのは、わずかに九人であった。 がんばく がんしん この故事にもとづいて、「雁書」とは「てがみ」の意味に用いられるようになった。「雁信」「雁帛」 などとも言う。 天子射上林中、得雁。足有係帛書、言武等在某沢中。 ( 『漢書』蘇武伝 ) し かんじよ ( 巨勢進 )

7. 故事と名言でつづる中国史

130 何人もの部将たちが逃亡しているのを、追いかけようともしなかった丞相蕭何なのに、名もない韓 信を追うなんて考えられない。劉邦はなかなか信用しない。すると蕭何がいった。 「諸将のあとがまなら簡単に埋められます。しかし韓信ぐらいの人物となると″国士無双〃です。鐘 や太鼓で捜しても見つけ出せる人物ではございません。だいたい、王が漢王だけで満足してるのでし たら韓信は不要です。しかし、天下を抑えようと望むなら、ぜひとも韓信が必要でございます。王が 漢王で満足するか、東方〈進出して天下を握ることを望むか、王のお心しだいで韓信の要不要も決ま ります」 かんちゅう 「漢中あたりでうろついている気はさらさらない。東して天下に覇をとなえるのが望みなのだ」 かくて、韓信の大将軍任用が本決りとなり、蕭何の進言にしたがって、盛大な就任式を行った。時 に前二〇六年、それからの彼の戦功は言うまでもない。 後に楚の王となった韓信は、例の老婆に厚く礼をし、股をくぐらせた若者は、楚の中尉に任じたと いう。 国中に二人といないすぐれた士。天下第一の人物を″国士無双〃という。 わいいんれつでん 国士無双。 ( 『史記』淮陰侯列伝 ) ちゅうい ( 広野行甫 )

8. 故事と名言でつづる中国史

ったではないか」 賈似道は返答に窮した。そこで、「鑼を鳴らすこと一声」、つまり、退却合図用のドラを鳴らし、兵 しゆきんさ かいめつ を珠金砂に退けたが、十三万の大軍はあっという間に潰滅してしまった。 よう しよう 賈似道は揚州に逃げこんだが、ついに失脚して流刑に処せられた。そして、潼州まできたとき、護 ていこしん ろっこっ 送役の鄭虎臣という男によって、便所のなかで肋骨をへし折られて殺された。鄭虎臣は父親がかって あだ 賈似道のために処刑され、その仇を討っため、わざわざ護送役を志願していたのである。 南宋は、運命のドラが鳴った翌年に首都の臨安が陥落し、その三年後に滅んだ。 しりやく 鳴鑼一声。 ( 『十八史略』巻七 ) わ 吾が事、畢れり なんそう げん 南宋の滅亡のさい、将軍がつぎつぎと元 ( 一二七一年、フビライは元と呼号 ) に降伏したが、国に殉じ た者もまた数多くいた。なかでも有名なのが、徹底抗戦をつらぬいたあと捕われ、「正気の歌」を遺 ぶんてんしよう して刑死した文天祥である。 文天祥は文官であって、武人ではなかった。ところが、一二七五年、元軍が鄂州 ( 陝西省邯県東北 ) おわ せんせいび ( 竹内良雄 )

9. 故事と名言でつづる中国史

158 せん 歳の宣帝 ( 在位、前七四ー前四九 ) が立った。彼は武帝のとき反乱罪によって自殺させられた衛太子の孫 ろうごく で、武帝からはひまごに当る。衛太子の事件では両親ともに殺され、生後数か月で牢獄に入れられ、 幼時からさんざん苦労したが、それだけに尋常の貴族とは趣きを異にする人物であった。 宣帝は、即位して数年後に霍光が死ぬと、霍氏一族を徹底的に誅滅し、みずからの理想とする政治 をおこなった。それは民政に重点をおき、外面を礼楽で飾った儒教政治に、法家思想をとり入れた実 ま、よら・ど 際的な政治であった。匈奴に対しては、はじめはかなり大規模な遠征を起こしたが、のちには長期戦 によって彼らを自滅させる方策に転じている。 きよう 神爵元年 ( 前六一 ) 、チベット系の遊牧民の羌族が反乱をおこした。 せんれい きれん こうすい 羌族に先零という部族があり、祁連山に源を発する湟水の北の地で遊牧を行っていた。その彼らが 草を追って南岸まであらわれたため、漢の将軍が鎮圧に出ていきなり先零の主だったもの千人あまり ぎよしたいふ を殺した。これに怒った先零はほかの羌族をさそって漢に攻めこんだのである。宣帝は、御史大夫の へいきっこう ちょうじゅうこく だれ 丙吉を後将軍の趙充国 ( 前一三七ー前五一 l) のもとにつかわし、誰を羌族討伐軍の将軍にしたらよい かをたずねさせた。 趙充国は人となり沈着で大略があり、若いころ兵法を学び、異民族の事情に通暁していた。かって り・こう・り・ 武帝の時代に弐師将軍李広利に従って匈奴を討ち、逆に包囲されて数日にわたり食物が欠乏し、多く の死傷者を出したにもかかわらず、壮士百人あまりとともに囲みを破り、身に二十余か所の傷を受け ながらついに全軍を救ったという武勇の士である。 さて、宣帝の諮問を受けたとき、趙充国はすでに七十歳をすぎていたが、彼は、 しんしやく かん ちゅうめつ えい

10. 故事と名言でつづる中国史

83 分裂動乱の時代 これがものごとを損なうことなく遂げるときに使われる「完璧」の由来である。 かなん その後、前二七九年に恵文王が秦の昭王と池 ( 河南省池県 ) で会見した際、趙では将軍廉頗が国 を守り、藺相如が会見に従った。会見後、宴会となったが、そのときにも、藺相如は秦の昭王の無礼 しか を叱り、趙の立場を守った。 この功により、帰国後、藺相如は王から廉頗より上位の上卿の位を与えられた。廉頗は藺相如の下 位に立つのを不満として、彼に恥をかかせてやると公言してはばからなかった。これを聞いた藺相如 しった は、つとめて廉頗をさけた。家来がこれを恥としたところ、相如は、秦王を叱咤したほどのわたしが 廉頗将軍を恐れるものか、今、秦が趙に介入しないのはわれわれ二人がいるからだ。 と、も り・ようこ 「今、両虎共に闘わば、其の勢い倶には生きじ , ( 今、両虎が相い争ったら共倒れだ ) 私が廉頗将軍をさ しえん けているのは私怨を後まわしにしているのだ。 と答えた。廉頗はこれを聞いて、わたしは彼に及ばぬといい、肌ぬぎになり、笞刑に用いる荊を背 負って藺相如の家に行き、罪を謝した。これより二人は、 ともよろこ ふんけいまじわ 卒に相い与に驩びて、刎頸の交りをなす。 生死をともにして、首を刎ねられても心を変えぬほどの深く親しい交りをなすに至ったという。 遂胡服招騎射。 ( 『史記』趙世家 ) めんち じようけい ちけい いばら