334 どうこう こうろけい せん 一八三八年、鴻臚卿 ( 外国使節接待所長官 ) 黄爵滋がアヘン厳禁を道光帝 ( 宣宗 ) に上奏し、当時の湖 りんそくじよ 広総督林則徐 ( 一七八五ー一八五〇 ) がこれに賛成した。 林則徐は革新的な官僚で、かねてから海外事情を研究し、ただ中国が中華思想ばかりを振りかざし て盲目的に夷 ( 外国 ) を排するだけではだめで、むしろ積極的に世界の大勢を知るべきであると考えて かいこくずし ぎげん いた。この考えは同時代の革新的知識人魏源 ( 一七九四ー一八五七 ) が著した『海国図志』 ( 六十巻、一 八四一 l) に、 夷の長技を師とし以て夷を制す。 と記されていることばに、端的にあらわれている。しかし、頑迷な清朝が近代世界へ眼を開くには、 ナンキン アヘン戦争の結果としての南京条約 ( 一八四一 l) にはじまる帝国主義列強の介入という、外圧による強 制を経なければならなかった。 「夷の長技を師とし以て夷を制すーは、一般には「夷の長技を取りて以て夷を制す」と慣用されてお り、より簡略化して「夷をもって夷を制す」ということもある。 師夷之長技以制夷。 ( 『海国図志』原叙 ) こら・ こうしやくじ がんめい ( 巨勢進 ) こ
Ⅷとえたのである。 他山之石、可以攻玉。 ( 小雅・鶴鳴 ) 有匪君子、如切如磋、如琢如磨。 ( 衛風・淇奥 ) ( 巨勢進 )
せんせんきようきよう 戦々兢々 しようがしようびん 「戦々」とは恐れてびくびくするさま、「兢々」とは身をいましめ慎むさまをいい、小雅「小旻」篇の 最後の章に、 あえぼうこ 敢て暴虎せず びようか 敢て馮河せず 人其の一を知って 其の他を知る莫し 戦々兢々として どと しんえん 深淵に臨むが如く 薄氷を履むが如し はくひょうふ 令儀令色、小心翼々。 ( 大雅・烝民 ) 維此文王、小心翼々。 ( 大雅・大明 ) そ な ( 巨勢進 )
162 ちょっかん 「取りかえてはならぬ。そのまま集めてつぎ合わせておくように。直諫の臣をあらわすよすがにした といった。 「折檻」ということばは、この故事から始まり、本来は強く諫めることの意味であるが、今日では原 義からはなれ、きびしく叱ること、あるいは肉体的懲罰を加えることの意味に用いられている。 雲攀殿檻、檻折。 ( 『漢書』朱雲伝 ) 五鹿嶽々、朱雲折角。 ( 同 ) 秋の扇 新たに斉の絏素を裂けば ごと きようけっ 皎潔なること霜雪の如し 裁ちて合歓の扇と成せば 団々として明月に似たり かいしゅう 君が懐袖に出入し 動揺して徴風発す トんじよ しか いさ ( 巨勢進 )
147 統一王朝の時代 武帝の時代になり、轅固はもう一度召し出された。 武帝におもねっている多くの儒者たちは、轅固を煙たがり、 「轅固は老いぼれました」 と中傷したので、武帝は彼を郷里へ帰らせたものだったが、彼はその時すでに九十余歳であった。 じようしよう こうそんこう せつ 轅固が召し出された折、薛の人で、のちには丞相になる公孫弘も召し出されていたが、轅固は彼 に一一一一口った。 もっ 公孫子、正学を務めて以て言え。学を曲げ以て世に阿るなかれ。 公孫弘どの、正しい学問にもとづいて発言することにつとめなさい。学問を曲げて世に阿らぬよう にしていただきたい。 これが、「曲学阿世」の語源であり、真理を曲げて世間に迎合することをいう。 無曲学以阿世。 ( 『史』儒林列伝 ) おもね ( 巨勢進 )
108 他山の石 かぐめい 小雅の「鶴鳴」の詩に見える、 他山の石 以て玉を攻くべし ということばは、他国の山から出る粗悪な石でも、それを砥石として自分の宝玉をみがくことがで きる、という意味であり、詩句としては、賢者を用いるのは領内のものばかりとは限らない。他邦の 者でも賢才をそなえた人物であれば、その人を用いて自国を治めるのに役立たせるという意味である が、同時にこの句は、石を小人にたとえ、玉を君子にたとえ、君子も小人によって修養をつみ、学徳 をつんでゆけることをいい、また他人の不善な言行は、それ自体は何の価値のないものであっても、 わすことばとして、「深淵に臨む」「薄水を履む」という成語もでている。 不敢暴虎、不敢馮河、人知其一、莫知其他、戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷。 ( 小雅・小旻 ) みが ( 巨勢進 )
103 分裂動乱の時代 としておく。その第三章には、 穀きては則ち室を異にするも 死しては則ち穴を同じうせん われ 予を信ならずと謂わば きようじっ 皦日の如きこと有らん と、皦日 ( 太陽 ) にかけて偽りのない恋心を誓っている。 さきの「偕老ーといい、この「同穴ーといい、いずれもその楽しさを歌ったものではない。わが国 げんものがたり では、古くは『保元物語』 ( 上「法皇崩御の事」 ) などで、早くもこれを「偕老同穴の御契り」と熟語化 し、夫婦仲睦まじいことを表わすようになった。また、「偕老同穴」といわれるカイロウドウケッ科 の海綿動物も、その生態からこのように命名されたのであろう。 与子偕老。 ( 郡風・撃鼓、鄭風・女曰鶏鳴 ) 君子階老。 ( 郁風・君子偕老 ) 及爾偕老。 ( 衛風・氓 ) 死則同穴。 ( 王風・大車 ) ( 巨勢進 )
といい、 すずり もっ 研は墨を磨って以て文を騰え、筆は毫を飛ばして以て信を書するも、飛蛾の火に赴くが如くして、 あに 豈身を焚くを宏むべけんや。必ず耄年に其れ已に及ぶ。これを少に仮すべし。 と書いてあたえた。 いくら苦心して名文をつくっても自分の損になるばかり。もうおまえも老人になったのだから、若 い孫のに名をゆずってやりなさい、と言ったのであるが、この「飛蛾の火に赴くが如くして、豈身 を焚くを宏むべけんや」とは、自ら危険に身を投ずることのたとえであり、「飛んで火に入る夏の虫、 の語のもとになったものである。 りようしょ 如飛蛾之赴火、豈焚身之可宏。 ( 『梁書』到漑伝 ) 武帝は漑に見せて、 そら 「蒹はなかなかの才子だ。ひょっとしたら卿のいままでの文章は、の手をかりているのではない か」 や す とど った ・こう もうねんそすで ( 巨勢進 ) ごと
分裂動乱の時代 こめ こののち二人は、不義をおかして天下をとった周の粟を食うことを恥として、首陽山 ( 山西省の西山 ) にこもり、薇をとって命をつないだが、やがて餓死したという。 彼の西山に登りその薇を采る 暴を以て暴に易えその非を知らず き しんのうぐか こっえん いずく 神農虞夏忽焉と没す我安にか適き帰せん ゅ めい ああ徂かん命の衰えたるかな この、いわゆる「薇の歌」は、二人の辞世の詩であると伝えられる。 「暴を以て暴に易う」とは、暴虐な殷の紂王を周の武王が武力という暴力をもって、たおそうとして いることをさしている。これを非難することは革命・放伐思想に反対することであり、この説話は、 しゅん 神農・虞 ( 舜 ) ・夏 ( しなどの古きよき帝王の時代を理想とする、儒家の褝譲思想をふまえたものであ ろう。 以暴易暴。 ( 『史』伯夷列伝 ) わらび さいび ゅ しゅよう さんせい ( 巨勢進 ) せい
344 と掲出列記し、索引では、 累卵よりも危うしーー遠交近攻 と示しておいた。 さらに、項目の選定に当っては、『人物中国の歴史』ですでに取り上げられた故事や成語を重複し て取り上げることはなるべく避けるよう心掛けたが、構成上あるいは故事成語事典という性質上どう しても欠くことのできないものは、重複をいとわず収録した。本書ではこれら成語の出典を明らかに しているので、たとえ重複したものがあっても、それなりの意味があると思う。 最後に、本書はもともと常石茂氏が企画編集に当られ、小岩井弘光・巨勢進・広野行甫の三氏の協 力のもとに執筆編集が進められていたものだが、その作業がほぼ終りに近づいたところで常石氏がご 病気となられたために、ピンチヒッタ 1 として途中からわたしがお手伝いすることになった。急なこ とでもあり、一部、竹内良雄氏にも助けてもらって、どうにかまとめることができた。全体の統一は、 常石氏のご指示を仰ぎつつわたしが当ったが、なお多ぐ不備な点を残しており、この責任はすべてわ しっせい たしにある。読者諸賢のご叱正を仰ぎ、改訂増補を加えてゆきたいと思う。 一九八一年三月 立間祥介