272 定策国老、門生天子 かんみん かんがん 宦官のわざわいは、漢と明にいちじるしいが、唐もそれに劣らなかった。 こう・りきし げん 国初は宦官も働きの場はなかったが、高力士が玄宗の信任を得たころから、政治的権力をにぎり、 ていげんしんぎよちょうおん 「安史の乱」のころには程元振や魚朝恩があらわれた。 とばん しんさく せん かなんせん 魚朝恩は陝州の神策軍 ( 河南省陝県を中心とする地方 ) を監督する地位にあり、七六三年、吐蕃 ( チベッ だい ちょうあん ト ) 軍が長安に侵人して、代宗が陝州に逃れた際には、これを擁して帰京する功を立て、以後、神策 このえ 軍が近衛兵として都に滞在したことから、軍事上さらには政治上にも発言権を得るにいたった。 初め、宦官は軍隊を監督するだけであったが、代宗の次の徳宗 ( 在位七七九ー八〇五 ) 時代には指揮 李の争〃というが、文宗をして、 「河北の賊 ( 河朔三鎮 ) を去るのはやすいが、朝廷の朋党を去るのはむずかしい」 と、なげかせたという。 かんがん 官僚がこのように相対立する間に、宦官は勢力を得る機会を得て、唐は袞退に向かうのである。 ろうせんらようこうしゅう 僧敲月下門。 ( 『賈浪仙長江集』巻四、「題李凝幽居」 ) あんし かはく かさく ( 小岩井弘光 )
116 一つは、太子扶蘇と蒙恬将軍の罪状を責め、死を命じたものだった。 扶蘇と蒙恬が自殺し、胡亥が即位すると、趙高は胡亥を言葉たくみに政治むきのことから遠ざけ、 競争相手を抹殺し、丞相李斯をも殺して自ら丞相におさまり、ついには阜帝の位までねらうようにな っこ。 それには宮廷における自分の権威を確固たるものにしておかなければならない。 ある日趙高は、二世皇帝胡亥 ( 在位、前二一〇ー前二〇七 ) に鹿を献上して、 「馬でございます」 といった。胡亥が笑って、 「丞相は間違っておる。鹿を馬だなどといっておる。そうであろうが」 と臣下たちを見回すと、左右のものたちは、趙高を恐れて沈黙し、彼におもねる者は「まさしく馬 でございます」という。中には毅然として「鹿です」と答えた者もいたが、あとで趙高に無実の罪を きせられて殺された。 これ以後、朝廷では、趙高に反対する者がいなくなった。 この話から、強引に間違ったことを人におしつけたり、白を黒といわせたり、人を威圧して非をお し通そうとすることを″鹿をさして馬という〃と言う。 とうしょ げんしん ちなみにこれが″馬鹿〃ということばの出典だとする説もある。『唐書』の元槇伝では、胡亥が、 ばろく 馬と鹿の区別もっかないようなけじめのない非道な言行が多かったので、その愚かさを″馬鹿〃とい ったという。 まっさっ
186 ちゅうへい れい と称して兵を挙げた。時に霊帝 ( 在位一六七ー一八九 ) の中平元年 ( 一八四 ) である。 えと たいへいどう 蒼天とは漢王朝をさし、黄天は太平道の理想とする天下をさし、甲子とは干支の初めで万物一新を 象徴し、中平元年がまさにこの甲子の年に当っていたのである。蜂起した信徒たちは、新しい天下の こら・きん ずきん 色である黄巾 ( 黄色い頭巾 ) をつけて標識としたから、これを「黄巾の乱」という。 乱は河北・山東の地からたちまち各地にひろがった。朝廷は″党錮の禁〃を解いて有能な官僚を起 用し、一方、黄巾側でも張角が病死するなどのことがあり、反乱軍の主力部隊はその年十二月にいち おう平定された。 この「黄巾の乱」によって後漢王朝は根底からゆさぶられ、反乱の過程で、自衛のために私兵を補 ばんきょ 強した地方の豪族たちが各地に蟠踞して、朝廷の権威を無視、武力抗争を繰り返し、最後に残った さん・こく 魏・呉・蜀による三国時代へ移行するのである。 ごかんじよこうほすう 蒼天己死、黄天当立。歳在甲子、天下大吉。 ( 『後漢書』皇甫嵩伝 ) しよく かん ( 小岩井弘光 )
とよろこんだ。朱雲はこの結果、博士に任ぜられた。 以上の故事から、「折角」とは本来、高慢な鼻を挫くことを意味するが、今日では骨を折りカを尽 すことをいい、さらに転じて努力しても効のないことをいう場合にも使われる。 じようしようちょうう あんしよう その後、成帝のときに至り、丞相の張禹 ( もとの安昌侯 ) は、帝がまだ阜太子であったころに 『論語』を教えたことから、帝の師としてはなはだ尊重されていた。 朱雲は上書して謁見を求め、公卿たちの面前で、 ろくぬすっと 「いま朝廷の大臣がたは、上は主上を匡すことができず、下は人民を利することがなく、禄盗人ばか しよう度うざんばけん ねいしん こうべ りです。どうか臣に尚方の斬馬剣 ( 馬を斬れるほどの鋭利な剣 ) を賜わり、君側の佞臣一人の頭を斬って、 その余の人々のはげましにしたいと存じます」 と言った。成帝が、 「その佞臣とはだれか」 とうと、皮は、 「安昌侯張禹です」 と答えたので、成帝は大いに怒り、 代 時「小役人が下にいて上をそしり、朝廷で帝師を侮辱した。その罪は死刑にしても許せない」 てすり 王御史 ( 官吏を監察する官 ) が朱雲をひつばり下そうとしたが、彼は御殿の檻にすがりつき、ひき合う 統うちに「檻が折れ」てしまったが、なお朱雲は大声で叫びつづけた。 後日、その折れた檻を修繕しなければならなくなったが、成帝は、 ぎよし ただ
する竇氏一族が朝廷の要職を独占するにいたった。 ごかんがいせきわざわい はたん 後漢の外戚の禍はここに始まるが、竇氏一族の専横も意外なところで破綻し、瓦解することにな えいげん もくろ 永元四年 ( 九一 I) 、竇憲は和帝を殺害して、みずから帝位に即こうと目論んだ。これを事前に察知し かんがん ていしゅう た帝は、宦官でただ一人その党に組みしなかった中常侍 ( 宦官の官名 ) の鄭衆を片腕としてひそかに すき このえ 準備をととのえたうえ、竇憲らの隙に乗じて、近衛兵を動かして竇一族を一網打尽とし、竇憲に迫っ て自殺させた。 だいちょうしゅう この結果、竇氏に代って台頭したのが宦官鄭衆であって、大長秋 ( 宦官の最高位 ) となり、政治に あずかるようになった。以来、後漢の朝廷は宦官に握られ、ついには自滅に追いこまれるにいたる。 みん ちょうせつこう びようし のちに明の人趙雪航 ( 名は弼 ) は、その『評史』において、このことに触れて、「竇氏は除かれたが、 宦官の権力がこれ以来盛んとなった。諺に、 『前門に虎を拒ぎて、後門に狼を進む』 というのは、このことかーと述べた。今日では、一つの災をのがれて、さらに他の災にあうたとえ として、「前門の虎、後門の狼」というように用いている。 代 時 の 王前門拒虎、後門進狼。 ( 『趙雪航評史』 ) ふせ ひっ ことわざ ちゅうじようじ がかい 示岩井弘光 )
281 律令支配の時代 そう 二世世宗は五代随一の名君だったが、この周王朝もまた十年で滅び、宋 ( 九六〇ー一二七九 ) にかわ っ ( 。 さて、五代初めの梁を建てた朱全忠の、唐の朝廷におけるライバル李克用は、黒衣をまとった精鋭 あぐん 〃鴉軍。をひきいる猛将として知られ、朱全忠ら唐の諸将の統帥として「黄巣の乱、を平定するとい う勲功をたてている。 すがめ この克用は、片方の目が眇であったという。トルコ系の出身で、『五代史』に びよう りあじ 克用少くして驍勇、軍中号して李鵄児という。その一目眇なり。その貴となるに及ぶや、又″独 眼竜〃と号す。 とある。 唐室にも忠節で、唐が亡んだ後も臣節を守った人であったので、ここから勇猛で徳の高い片目の人 を″独眼竜。というようになった。李克用は唐末、朱全忠と朝廷での主導権を争ってたびたび戦い、 りそんきよく 朱全忠が後梁を建てたあと、五十四歳で陣没するが、やがて子の李存勗が後梁を倒して後唐を建てる せんだいだてまさむね おくりな と、武皇帝と諡された。わが国では、仙台の伊達政宗が有名である。 克用少驍勇、軍中号曰「李鵄児」。其一目眇。及其貴也、又号「独眼竜」、其威名蓋於代北。 ( 『五 ( 広野行甫 ) 代史』唐本紀 ) ギ、ようゆら・ ・こだいし
じゅん かんがんえん 順帝 ( 在位一二五ー一四四 ) が十一歳で即位できたのは宦官が閻氏一門を除いたためで、その功に より、宦官十九人が侯に封ぜられ、一三五年には宦官の養子による襲爵さえもが認められるにいたっ がいせきりよう た。こうして宦官の発言力が強化される一方、順帝が外戚梁氏を重用したため、朝政は混乱の極に 達した。 当時、地方巡察の命をうけた張綱が、 さいろう いずく 豺狼路に当る、安んぞ狐狸を問わん。 やまいぬやおおかみのような姦物が中央の要路にあるのをそのままにして、どうしてきつねやたぬ きのような地方の小物を追及することができようか、と宦官・外戚の専横ぶりを批判し、車を留めて 出発しなかったという話はその一端をしめすものである。 ちゅう 宦官・外戚の専横は、以後幼帝がつづくことでいっそうはげしくなった。冲帝 ( 在位一四四ー一四五 ) かん れい は二歳、質帝 ( 在位一四五ー一四六 ) は八歳、桓帝 ( 在位一四六ー一六七 ) は十五歳、霊帝 ( 在位一六七ー 一八九 ) は十三歳でそれぞれ即位しているからである。 ぜんちょうはか このうち、桓帝は一五九年に外戚梁氏を宦官単超と謀って誅滅し、その功によって宦官五人を侯に 王封じた。以来、宦官はいっそう威を振うこととなった。 たいがく 統こうした情況を不満とした、知識人・官僚は、官僚予備軍である太学の学生とともに朝廷批判を行 い、大騷動となった。一六六年のことで、宦官が支配する朝廷はこれに力で対抗し、多数の人士を罷 こり ちょうこう かんぶつ ちゅうめつ
後、ついにこれを陥落させた。 かじどう こうしゅう りんあんせつこう 当時、南宋の最高司令官として首都臨安 ( 浙江省杭州市 ) で全軍の指揮にあたっていたのが賈似道で ちょうあい ある。彼は、後宮に入った姉が理宗 ( 在位一一三五ー六四 ) の寵愛を受け、そのおかげで出世の糸口をつ かみ、またたく間に位をのぼりつめてこの頃には皇帝をしのぐ権力をもつにいたっていた。朝廷では しゅう しゅうせい もはや彼にたてつく者はひとりとしておらず、彼にへつらって、周の成王を補佐した周公になぞらえ る者すら出てくる始末であった。 めいび かつれい 彼は、西湖畔の風光明媚な葛嶺に住み、五日に一度、西湖を渡って朝廷に参内するだけだった。ま た、中央・地方にかかわらず官吏の人事は、いっさい彼を通じて上奏しなければならなかった。その わいろ ため、彼の邸宅には、よい役職を得ようとする者から贈られた賄賂がかぞえきれないほど積みあげら れていた。 も、つこ しかも、彼は、賞をおしむ一方で、将軍たちの軍費精算をきびしくしたため、前線では、蒙古側に 寝返る将軍が続出する始末だった。 けんこうナンキン 蒙古軍が襄陽から建康 ( 南京 ) 〈攻め下った報告を受けた賈似道は、ようやく重い腰をあげて諸軍を ひきいて蕪湖に進むが、将兵たちには「賈似道のために」などという考えはさらさらなく、すっかり 代 時 戦闘意欲を失っていた。 の 皇賈似道は、ここで一計を案じ、彼らの士気をふるいたたせるため、将兵の昇進を布告した。ところ 独が将兵たちは口々に叫んだ。 「今さらなにが昇進だ。お前はかって二度も昇進の約束をしながら、一度だって実行したことはなか せいこ
こらせい を攻略し、慌てた朝廷が全国に義軍の結成を呼びかけると、贖州 ( 江西省贖県 ) の知事をしていた文天 りんあん 祥は、私財を投げうって義軍をおこし、臨安の防衛に赴いた。 臨安に人った文天祥は、さっそく元軍迎撃の献策をする。しかし自重派の重臣に封殺された。その うち、朝廷内の宰相級の人物がつぎつぎと逃走し、皮肉にも元軍との講和の使者に徹底抗戦派の文天 祥が選ばれることになった。 文天祥は臨安から三十里 ( 約十六キロ ) 離れた元軍の本陣に赴いたが、抗戦派の彼のこと、降伏の使 者の役割をすっかり忘れ、元軍に撤退を要求した。元軍の司令官バヤンは文天祥を相手にせず、その まま拘留してしまった。 じようと うらもうこ 数日後、元軍は臨安に入城し、皇帝以下数千名を捕えて上都 ( 内蒙古自治区県東南 ) 〈送 0 た。 ふく ふくけん 当然、文天祥もこのなかにはいっていたが、途中でひそかに脱出、福州 ( 福建省 ) へ逃れた。福州には を、よう えき 臨安陥落直前に脱出した恭帝の兄の益王と弟の広王が亡命政権をつくっていたのである。 以後、文天祥は各地の兵を集めて元軍に抵抗をこころみるが、一二七八年十二月、広東の五坡嶺で 元軍に捕えられてしまった。 がいざん しんかい だいとベキン 翌年、大都 ( 北京 ) へ護送されたが、途中、広王が崖山 ( 島名、広東省新海県南方の海中にある ) で元軍 代 時 に敗れて亡命政権が潰えたことを知らされた。しかし元に仕えるようにうながされても首をたてにふ の 皇ることはなく、文天祥は大都の牢獄にとじ込められた。この時、彼は有名な「正気の歌」をつくる。 天地正気あり雑然として流形に賦す ろうごく こ、 ) こう カントンごはれい
260 りえん 梨園 ちょうあん そくてんぶこうけつき 長安四年 ( 七〇四 ) 一月、病床にあった則天武后は蹶起した重臣たちに迫られて退位 ( この年十一 ちゅう 月、七十六歳で死ぬ ) し、先に武后によって朝廷を追われた中宗李哲が二十二年ぶりに復位した。中宗 は長い配流生活のあいだ、何度も死のうとしたが、そのたびに皇后の韋氏に慰められ、もしふたたび 朝廷に返り咲くことがあったら何事も韋氏の思うようにしてやろうと約束した。中宗は復位すると、 まね あんらくこうしゅ 韋氏の功に報いるため国事も二人でみるようにした。韋氏は万事則天武后を真似、娘の安楽公主と一一 ろうだん 人で権力を壟断しただけではあきたらず、女帝たらんとして、七一〇年には二人にとって夫であり父 である中宗を毒殺するにいたった。 わざわい びんけいししん 唐朝にふたたび「牝鶏之晨」の禍がおとずれようとしたとき、決然立って韋后らを殺し、睿宗李 り・り・ゅうき げん りんし たん 旦を二十七年ぶりに復位させたのが、睿宗の子の臨淪王李隆基 ( 六八五ー七六一 l) 、のちの玄宗 ( 在位七一 二ー七五六 ) である。彼は睿宗の復位と同時に皇太子に立てられ、二年後に位を譲られた。彼は名宰 ただ しようようすうそうけい 相姚崇・宋璟らを起用して、則天武后治世の後期以来社会を混乱に陥れてきた弊政を匡して社会経 かいげん 済の発展をはかり、後世史家から″開元の治〃 ( 七一三ー七四一 ) とたたえられる盛代をつくりあげた。 唐朝中興の祖玄宗は英明な君主 ( 晩年は別として ) である一方、「性は英断にして多芸、ことに音律 ぎはん すがた いれい くとうじよ れいしょ に通じ、八分の書 ( 隷書のこと ) を善くし、儀範 ( 行為 ) は偉麗にして、非常の表あり」 ( 『旧唐書』玄宗 はつぶん りてつ えいり さい