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検索対象: 故事と名言でつづる中国史
319件見つかりました。

1. 故事と名言でつづる中国史

がこの地にとどまること三十世、七百年間と出ました。これは天の命であります。周の徳は衰えたり とはいえ、まだ天の命は革まっておりません。鼎の大小軽重はまだお尋ねになるべきではありますま 荘王は鼻白んで引き揚げた。 ちょうこう が、荘王は天下を制する夢を捨てたのではない。長江流域の小国を併呑して着々地歩をかためると、 わいよう えんきゅう 前五九八年、陳 ( 首都は宛丘。河南省淮陽県 ) を破って属国とし、翌前五九七年、鄭 ( 首都は新鄭。河南省 ) を降して臣従させ、かっ、鄭を奪還しに押し寄せた晋軍をしりぞけ、さらに、前五九四年、宋 ( 首都 ろうこよう じようけいかげん しようきゅう は雎陽。河南省商丘県南 ) を囲んだ。宋は籠城六か月、上卿の華元が荘王に謁して実情を訴えた。 まき 「城内では、子供をとりかえあって食い、死者の骨を割いて薪のかわりにしているありさまでござい ます」 荘王はこれを聞くと、 かがみ 「君子の鑑だな ! 」 と、その正直さに感心し、楚軍もあと三日の食糧しかなかったので、包囲を解いて帰還した。 こうして、荘王は、知仁勇兼備のひとがらを謳われ、当代を代表する″覇者〃と目されるまでにな ったのだった。 この故事から出た″鼎の軽重を問う〃という成語は、今日、当人の実力を疑い、その地位から逐お うとすることのたとえとして用いられている。 すれよう あらた へいどん しんてい

2. 故事と名言でつづる中国史

大義親を滅す えい しゅうくむほん ちょうかかなんき 前七一九年、衛 ( 首都は朝歌。河南省淇県東北 ) では公子州吁が謀叛し、兄の桓公 ( 在位、前七三五ー前 しい 七一九 ) を弑してみずから君主となった。当然″逆賊〃として諸侯の糾弾を浴びねばならない。州吁 せきしやく せきこうはか そう は、父荘公 ( 在位、前七五八ー前七三五 ) に仕えた老臣石醋とその子の腹心石厚に諮ったあげく、宋と同 ていう 盟して鄭を伐ち、〃逆賊〃の名をまぬかれようとした。 へい けいし しゅう 鄭 ( 首都は新鄭。河南省 ) は、平王の東遷 ( 前七七〇 ) 以来、卿士 ( 宰相 ) として、衰徴していく周室を そう 支えていた。その鄭で、前七一三年、「春秋の筆法」の項で述べたように、弟の段が兄の荘公 ( 在位、 そむ かっ 前七四四ー前七〇一 ) に叛いた。段は敗走し、その子の公孫滑は衛へ奔り、現に衛にいた。 せん すいよう しようきゅう 一方、宋 ( 首都は雎陽。河南省商丘県南 ) では、兄の宣公 ( 在位、前七四八ー前七二九 ) が嫡子の与夷を しりぞ ひょうしりぞ 斥けて自分に譲位してくれた恩義に感じ、穆公 ( 在位、前七二九ー前七二〇 ) が、嫡子の馮を斥けて与夷 しよう に譲位した。殤公 ( 在位、前七二〇ー前七一〇 ) である。これを不満として、馮が鄭へ奔り、現に鄭で殤 公打倒の機をうかがっていた。 乱そこで、州吁と石厚は、公子馮を討ち取って宋へ恩義を売り、公孫滑を送りこんで鄭君に据え、 ちんさい 宋・鄭の援護で″逆賊〃たることから救われようと図り、まず宋と同盟し、陳・蔡を語らって、同じ 前七一九年、鄭を伐った。 しんてい しんめつ かん よい

3. 故事と名言でつづる中国史

しようりよう 桓公は、蔡の繆侯 ( 在位、前六七五ー前六四六 ) を擒にすると、軍を召陵 ( 蔡の地。河南省郎城県東 ) に進めた。楚の国境に臨む地である。 戦をすれば楚が不利だった。楚の成王 ( 在位、前六七二ー前六二六 ) は使者を桓公の許へやった。 「君 ( 桓公 ) は北海に処り、寡人 ( 諸侯の自称 ) は南海に処りて、風する馬牛も相及ばざるなり ( あなた は北方の地におられ、わたしは南方の地におりまして、発情した馬や牛でも駈け寄れぬほど遠くへだたっておりま す ) 。当地までお越しになろうとは思ってもいませんでしたのに、どうしたわけでしよう ? 」 ほうう かんちゅう 応対に出た管仲は、楚が周朝圏に帰服しているという自認を得ようとして、楚が苞茅 ( 神酒を漉すち さいし がや ) の貢納を怠っているので、周室では祭祀に支障を来している、その催促をしに来たのであり、 いきさっ しよう かっ、昔、周の昭王 ( 在位、前一〇五二ー前一〇〇一 l) が南へ巡狩に出たまま帰らなかった、その経緯を 聞きに来たのだ、といった。使者はこたえていった。 「苞茅を滞らせたのは主人の失態。きっとお納めいたします。が、昭王の件は漢水にお尋ねいただき ましよう」 昭王は、長江か漢水で死んだとされているが、もちろん楚とはなんの関係もない。これは、苞茅と 同様、 " 尊王の大義をおしつけようとした管仲のかけひきである。使者の申し開きも立派だったと 時いえよう。桓公は、輕 ( 楚の地。召陵の東南 ) まで軍を進めて楚の地に足跡を印すと、いちおう楚を叩 ちか 乱く目的は遂げたものとし、召陵までひきあげて楚と修好の盟いをかわしたのだった。 " 風馬牛。は、今日、お互いに無関係である、とか、自分の知ったことではない、という意味に用い られている。なお、 " 風する馬牛。という語は、さかりのついた馬牛、という意味にも、放し飼いの せい とりこ かんすい えんじよう

4. 故事と名言でつづる中国史

白駒の隙を過ぐるがごとし ちょうきよういんよく しゅうこうしゅう 五代 ( 九〇七ー九六〇 ) 最後の王朝周 ( 後周。九五一ー九六〇 ) は、名将趙匡胤の補翼もあって、世 宗 ( 在位九五四ー九五九 ) の時、国威大いにあがり、周辺の十国もほぼ配下におさめることができた。 きよう が、在位六年にして世宗が死に、子の恭帝 ( 在位九五九ー九六〇 ) が即位した。わずか七歳だった。 きったん その翌年の西暦九六〇年、またもや契丹が来襲したので、これを迎え撃つべく、趙匡胤は周の軍隊を ひきいて進発した。 この日の夜、部下の将兵たちは、趙匡胤を天子とするべく衆議一決し、黄袍 ( 天子がふだん着る黄色 すいたい の上衣 ) を彼に着せかけて、天子に推戴してしまった。 そう かなんしようきゅう 幼い恭帝はやむなく位を禅り、趙匡胤が帝位についた。任地が宋州 ( 河南省商丘県を治所とした州 ) ペん かいう であったことから、国号を宋と名づけ、都を汁 ( 河南省開封 ) に置いた。これが宋 ( 九六〇ー一二七九 ) の太祖 ( 在位九六〇ー九七六 ) である。 彼の仕えた周の世宗が、ある程度周辺の小国家に圧力をかけてはあ 0 たものの、まだまだ宋の勢力 かなくちゅうげん 皇範囲は、華北・中原に止まり、他は契丹等の異民族や地方の小国家がそれぞれ独立して統治を続けて 独いた。 宋王朝安泰の独裁体制を築く上にも、これらを完全に勢力下におさめなくてはならない。それに何 たいそ はつく げき こうう せい

5. 故事と名言でつづる中国史

もうめいし せいきつじゅっはくいっへい 僕の子の孟明視・蹇叔の子の西乞術・白乙丙の三人を将として鄭へ軍を潜行させた。 げんこう 果せるかな、秦軍は、晋の属国の滑 ( 河南省偃師県南 ) で鄭の商人の弦高に発見され、意趣晴らしに 滑を滅ぼして帰途についた。 晋の襄公は属国を減ぼされたのを怒り、早馬で姜戎 ( 姜姓の西戎。晋の西方に住む ) から兵を借りる こうざん と、喪服の白衣を墨染めにし、白帯をつけて出陣するや、秦軍を ( 坏山。晋の地。河南省洛寧県西北 ) に要撃して三将を擒にした。亡き文公の夫人は秦の繆公の公女だったから、三将のために襄公にいっ ( 0 「繆公のこの三人を怨みること骨髄に入れり。願わくはこの三人をして帰らしめ、我が君をして自ら 快くこれを烹るを得しめよ ( 繆公に気がすむまで烹殺させてください ) ー 襄公は三将を釈放した。 かんげん 繆公は白衣をまとって郊外まで三将を出迎え、百里僕・蹇叔の諫言を容れず、三将にあたら恥辱を わ 被らせた不明を詫びた。 これに感激した孟明視らが、晋を撃破して君恩に酬いたのは、三年の後、前六二四年のことであっ 骰の戦は、秦が東方へ進出するきっかけをなした、という意味で重視されている。 しき 怨入骨髄。 ( 『史記』奏本紀 ) ( 0 に とりこ かっ えんし きようじゅう せいじゅう ( 常石茂 )

6. 故事と名言でつづる中国史

漢代関係地図 匈奴 玉門 ・敦煌 関 遼西 ・遼東 五原 ( 包頭 ) ・酒泉 ・張掖 朔方 沙丘 上 太原 ・鉅鹿 咸陽河東 ー 0 弘・ x ・河南 長女 農 ( 洛陽 ). ・漢中 江夏 ・武威 泰山 ・彭城 島江 隴西・ 天水 広陵 E 海 呉 会稽山 0 南郡 。成都 ・豫章 ・長沙 ・益州 南海ー 耳 珠崖 ・当時の主な都市 。現在の主な都市

7. 故事と名言でつづる中国史

せん 千里眼 よう こら・ かなんこう 北魏末の荘帝 ( 在位五二八ー五三〇 ) のとき、名門楊家の出の楊逸は二十九歳の若さで光州 ( 河南省演 川県 ) の長官として赴任した。その頃の地方長官では、彼が最年少であったという。 民衆のために心をくばり、寝食も忘れて働いた。 兵士が兵役につくときには、風雨もいとわず見送ったので、人々は、 「あんなご苦労なこと、他の人には到底できないことだ」 と感嘆した。 法を守ることは厳格だったが、いたずらに人を罪することはしなかったので、州の人たちは心服し て、あえて犯罪をおこすようなことをしなかった。 当時は連年の凶作で多数の餓死者が出ていた。楊逸は、 「国の本になるのは人である。食はその人の命をつなぐものである。人が減ってしまったら、いった いどうするのだ。かまわず倉をひらいて食糧を放出しろ。それが罪だというなら、わたしが全責任を 負う」 としぶる役人の尻をたたいて倉をひらかせ、老人や病人で、自活できない人たちのために炊き出し までしてやった。お蔭で餓死せずにすんだ人民が、数千数万におよんだというが、これを聞いた荘帝 なくぎ 、もと そう

8. 故事と名言でつづる中国史

しよう 乱後、僖宗のあとを嗣いだ昭宗 ( 在位八八八ー九〇四 ) にはすでに皇帝の権威は失われ、開封 ( 河南 りもてい 省 ) に拠った朱全忠、太原觧西省 ) の李克用、鳳翔 ( 産省 ) の李茂貞の争いとなったが、結局、運 こうが 河と黄河の接点という経済の要地開封をおさえた朱全忠が勝利を得た。 かんがん さいいん 朱全忠は、昭宗と宰相崔胤が助力を求めたのに乗じ、宦官を徹底的に殺害除去した。ここに唐朝が わざわい 長年苦しんで来た宦官の禍は除かれたが、勢いに乗じた全忠は、九〇四年に崔胤を殺し、昭宗に迫 あい らくよら・ 支って都を自分の目のとどく洛陽に移したばかりか、昭宗を殺し、代って名目的に哀帝 ( 在位九〇四ー九 律〇七 ) を立てた。 さんだっ 朱全忠は着々と簒奪の準備を進め、九〇五年、唐の主な貴族・官僚三十余人を殺して、死体を黄河 かいうかなん

9. 故事と名言でつづる中国史

196 ひにくたん 脾肉の嘆 りのうびしようれつ 後漢末に今日の四川省に蜀を建てた劉備 ( 昭烈帝、在位一三一 ー一三三 ) は、河北の農村の出身で、 ちょうひちょううん 黄巾の乱 ( 一八四年 ) に挙兵以来、戦国時代さながらの混乱期に関羽・張飛・趙雲らをしたがえて各地 の豪族のあいだを渡り歩き、その固い団結と武力によって名を知られるにいたったが、彼の最大の弱 点は根拠地を持たないことだった。 そうそう けんあん きよしようかなん 建安三年 ( 一九八 ) 冬、彼は曹操とともに下郵 ( 江蘇省 ) の呂布を平定したのち許昌 ( 河南省 ) で献帝 ・こかん こ - つきん なお、この「論文」の冒頭の一句、 文人相軽んずるは、古より然り。 かいしゃ も人口に膾災している。 蓋文章経国之大業、不朽之盛事。 ( 『文選』巻五十一 l) 文人相軽、自古而然。 ( 同 ) しせん いにしえ し もんぜん こうそ りよふ かんう ( 広野行甫 ) けん

10. 故事と名言でつづる中国史

65 分裂動乱の時代 、こつら、 といい、蜀 ( 四川省 ) を伐って勝利を得 ( 前三一六 ) 、 以後、秦は戦国の七雄第一の実力者となったとされる のがその一端である。 しかし、戦国時代に富国強兵策を行ったのは、文侯 一 ( 在位、前四四五ー前三九六 ) 時代の魏が先であった。 あんゅうさんせい 魏は、初め、都を安邑 ( 山西省安邑県 ) においた。こ こには食塩を産する塩池をひかえ、それが富国のもと 、・ツになった。加えて、文侯の用いた人士の一人李惺窄 へいてき 克ともいう ) が、平糴 ( 穀価調節の法 ) や尽地カ ( 地カを尽 せいもんひょうぎよう くす ) などといった農業振興策を実施し、西門豹が、郊 かんがい かなんあんよう ( 河南省安陽県 ) で十二の渠 ( 用水 ) を開いて灌漑を行っ 文侯はこういう富国策に加えて、すでに魯にあって ごき 「兵法家として知られていた呉起 ( 『呉子』の著者という ) せんせい を起用、西河の地 ( 陝西省東部 ) を秦から奪うという強 一、、「兵策 = も成功した。 みなお、呉起は、法律にも明るかったし、先の李惺も うけい 『法経』という成文の法律を制定したといわれている。 せいが しよくしせん りかい ぶん