つづいて本題に入り、 「今、王が本当に有能な人材を招こうとお考えなら、〃先ず隗より始めよ〃 ( まず、わたしを登用してくだ さい ) 、わたしですら重く用いられるとすれば、ましてわたしより優れた人物は、もっと優遇されると 考え、天下の賢者は千里を遠しとせずにやってまいりましようー 昭王はこの話を聞いて、早速郭隗のために宮殿を築き、師として厚遇した。 この「先ず隗より始めよ」は今日「手近な者より始めよ」の意から、「言い出した者から始めよ」 の意に使用されるが、有能な人材を求めるなら、まずわたしを優遇しなさい、と説く郭隗の言を実行 がくき しよくもん おんようか した昭王の下には、将軍楽毅が魏から、稷門の士で陰陽家 ( 天文・暦数・方位などにより吉凶禍福を占う すうえん 学派 ) の鄒衍が斉からという具合に、士人が争って集まった。 と・つこ こうして燕は有能な人材を得て、富国強兵の実があがり、北に東胡を攻めて長城を築いて守りをか ちょう さんしんかん ためる一方、前二八四年には、楽毅を上将軍に任じて、秦・楚・三晋 ( 韓・魏・趙 ) と共に斉を伐った。 りんし びん 斉の滑王は亡命し、燕兵を率いた楽毅は斉の都の臨滔 ( 山東省臨濡県 ) に入城して宝物・祭器を燕王 しようこく に献じ、その功によって昌国君に封じられた。 けい 一方、斉では、燕の昭王が死んで恵王 ( 在位、前二七八ー前二七一 l) が立っと、名将田単が離間策を施 時して楽毅を失脚させ、有名な「火牛の計」をもって燕の軍勢を大破、一挙に全失地を回復した。 先従隗始。 ( 『戦国策』燕上 ) せんごくさく さんとう でんたん ( 小岩井弘光 )
たまいだ 匹夫罪なし、璧を懐いて罪あり しゅう たん ちゅうようすえ へいりく 虞 ( 山西省平陸県東北 ) は、周の遠祖古公亶父の次子仲雍の裔が封ぜられた公爵の国である。 ぐしゆく 前七〇二年のこと。虞公が弟の虞叔の持っている名玉を欲しがった。はじめ、虞叔は惜しんで譲渡 らなかったが、やがて、これを悔い、 ことわざ へき わざわい 「周の諺に、『匹夫罪なし、璧を懐くはそれ罪なり』 ( 普通の者には禍を招くような罪はない、だが、普 たま 通の者でも、璧を持っということは、そもそも、禍を招き寄せる罪になる ) という。こんなものを持っていて、 わざわざ禍を買うことはない」 といって、兄の虞公に献上した。すると、虞公は、さらに剣を求めた。そこで、虞叔はいった。 「兄には満足するということがない。このぶんだと、いずれは命までも寄越せというだろう」 こうち 虞叔は虞公を攻め、虞公を洪池へ奔らせた。 虞叔が名玉や宝剣を持っていさえしなければ、命を狙われることもなく、従って、兄に叛くという 時大逆の罪を犯すこともなかったのである。 今日では、通常、「匹夫罪なし、璧を懐いて罪あり」といい、もともと善良なものでも、不相応な 物を持っと、罪禍を招きやすい、という意味に用いられている。 さんせい ねら なみ そむ
108 他山の石 かぐめい 小雅の「鶴鳴」の詩に見える、 他山の石 以て玉を攻くべし ということばは、他国の山から出る粗悪な石でも、それを砥石として自分の宝玉をみがくことがで きる、という意味であり、詩句としては、賢者を用いるのは領内のものばかりとは限らない。他邦の 者でも賢才をそなえた人物であれば、その人を用いて自国を治めるのに役立たせるという意味である が、同時にこの句は、石を小人にたとえ、玉を君子にたとえ、君子も小人によって修養をつみ、学徳 をつんでゆけることをいい、また他人の不善な言行は、それ自体は何の価値のないものであっても、 わすことばとして、「深淵に臨む」「薄水を履む」という成語もでている。 不敢暴虎、不敢馮河、人知其一、莫知其他、戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷。 ( 小雅・小旻 ) みが ( 巨勢進 )
燔た。今回の攻撃は、その数から推定して、ただしやにむに日本を攻撃し、元の力を誇示し、日本を征 服しようとしたものであった。 きたきゅうしゅう 鎌倉幕府は北九州に防塁を築き、元軍と激しい戦いが行われた。しかし今回も、八月一日の台風 小いめつ こうあん によって元軍は潰滅した。いわゆる″弘安の役〃である。 この二度にわたる戦いで鎌倉幕府はその寿命を縮めることになったが、鎌倉幕府が元に対して強硬 な態度で臨んだのは、日本への国書の末尾の一句に起因するという。それが、「兵を用いるにいたる たれ は、それ孰か好む所ならん」である。 兵など用いたくはないのだが、出方によっては : : : という一種のおどし文句であり、武家政権であ こうむ る鎌倉幕府は屈服することができなかったのであろう。元はこの一句で少なくない損失を蒙った。 げんし 以至用兵、夫孰所好。 ( 『元史』外夷伝一 ) 終わる所を知らず げん 強大なる武力をもって中国に君臨し、不減の感を抱かしめた元朝も、第二代の成宗 ( 在位一二九四ー 一三〇七 ) が亡くなると、はやくもかげりが現われた。 せい ( 竹内良雄 )
れた竹簡の整理にも加わり、成果を挙げた人物である。なお、古代の編年史として有名な『竹書紀 年』もこの時発見されたものである。 しくうちょうかみいだ この束晳は著作郎となる前、司空の張華に見出されたのであるが、その時、農業政策について進一言 ようへいさんとう して、魏の時に陽平 ( 山東省 ) に入植した人々を、改めて西辺に移住させようと説き、それにともなう 処置、成果について、 もっ 其の十年の復 ( カ役免除 ) を賜い、以て重遷の情を慰むれば、一挙にして両得、外実にして外寛、 窮人の業を増し広め、以て西郊の田を鬮く、此れ又、農事の大益なり、 と論じている。 「一つのことをして二つの利益を収めること」の意に用いられる「一挙両得」のはじまりはここにあ 、類語には「一石双鳥」などがある。 このように、晋は民を移住させ、農地の拡大をはかっているが、この時代、農業労働力に北辺の異 こら・と・つ 民族を用いることも多かった。識者の中には、こうした異民族の増加に将来を憂え、その一人、江統 代 ごと しじゅうろん 時 は『徙戎論』を奉呈して警告した。しかし為政者は一向に重大性を覚らず、八王の乱の如き対立抗争 の 対をつづけていたのである。 南 しんじよ 一挙両得。 ( 『晋書』束晳伝 ) ねん そ こ さと らくしよき
肪だすことだけだ、と笑った。 だんどうせい この″檀公〃というのは、前代の宋初の名将檀道済のことであり、彼が北魏と戦った際に、ただむ やみに敵に当るよりも、いったん退くことを上策とする計略を用いたことに由来する。 この「三十六策、走るを上計と為すーとは、「三十六計、逃ぐるにしかず」と同じで、かれこれ計 画するより、逃げるべきときは逃げて、身を全うすることが最上の策であることをいい、転じて面倒 なことを避ける時に用いる。 三十六策、走是上計。 ( 『南斉書』王敬則伝 ) 飛んで火に入る夏の虫 しようえん 五〇一年二月、雍州の軍団長をしていた蕭衍は、暴虐のかぎりをつくす宝巻を打倒する軍をおこし、 けんこう けい ほうゆう 首都の建康をめざして南下を開始した。これと前後して雍州のとなりの刑州にあった宝巻の弟の宝融 なんこう ( 南康王 ) が和帝と称して自立したので、蕭衍はこれと連合して建康を囲み、宝巻はこの年の暮、臣下 と、つこん に殺された。宝巻は東昏侯 ( 昏とは、おろかの意 ) と呼ばれる。 斉の軍政を手中に収めた蕭衍は、翌五〇二年四月に和帝を廃し ( いわゆる′褝譲により位をゆずられ せい わ よら・ なんせいしょ くぎ うかん ( 巨勢進 )
ッテを求める。門前で鞭をふるって追っ払われても平気な顔で、なお諦めようとしない。そこで当時 の人々は、 「光遠の面の皮の厚さは、まるで十枚重ねの鉄の甲のようだ」 といったという。 この話から、つらの皮が厚く恥を知らない者を「鉄面皮ーという。 しかし、本来〃鉄面〃とは必ずしも否定的な評価の意味に用いられることばではなく、逆に公平剛 直で権勢をおそれない人を誉めていう場合に、しばしば用いられることばである。その例をいくつか あげてみよう。 でんちゅうこぎよし 宋の趙抃という人は、殿中侍御史 ( 検察官 ) になると、相手が権力者であろうと天子のお気に入りで そうし あろうと、不正をびしびしと弾劾したので、都では「鉄面御史」といわれた ( 『宋史』趙抃伝 ) 。 ふくけん らト、うども すうあん せ 0 を - にうろう 宋の趙善郎は、宣教郎に任じられ、福建省の崇安県の知事になったが、法律を厳しく守って県政を ふくけんつうし おこなったので、人々は「趙鉄面」とよんだ ( 『福建通志』 ) 。 これらはいずれも、恥知らずの意味ではない。 代 時 さて、神宗が在位十九年、三十八歳の若さで没すると、長男の哲宗が即位した ( 在位一〇八五ー一一 の せんじんたいこう 皇〇〇 ) が、まだわずか十歳であったので、祖母の宣仁太后がその摂政になった。 げんゅう 独そして、元祐と年号が改まった翌一〇八六年、旧法党に動かされた太后は新法の全面廃止にふみき り、司馬光らの旧法党が政権を握ったが、この年のうちに多くの諸問題を未解決のままに残して司馬 し・はこう らようべん しん むら かぶと てつ あきら
ようよ 様に依りて葫蘆を画く 一網打尽 ずさん・ 6 杜撰 書を読めば万倍の利あり四 しゅんしよういっこくあたいせんきん 0 -0 春宵一刻直千金 てつめんび 鉄面皮 へきれき 青天の霹靂 竜頭蛇尾 一利を興すは一害を除くにしかず 0 鑼を鳴らすこと一声 わ 吾が事、畢れり 兵を用いるにいたるは、それ孰か好む所ならん 終わる所を知らず 8 湖広熟すれば天下足る 心中の賊を破るは難し 北虜南倭 ・ 4 九千歳 ら くりよなんわ ここ・つ おこ おわ えが たれ 509
なったおり、便所の中の鼠が糞を食いながらも、近づく人や大にびくびくしている一方、倉庫の中の 鼠は貯蔵米を食べ、悠々としているのを見て、 じゅんし ・こと たと 「人の賢不肖は、譬えば鼠の如し、自ら処る所に在るのみ」と悟り、以来、荀子の門にはいって法治 かんび 主義の影響をうけた。相弟子に韓非 ( ? ー前二三一一 l) がいる。 ろう きやくけい その後、秦に赴き、呂不韋の推薦で秦王政の郎 ( 侍従官 ) から客卿 ( 外国出身の大臣 ) となった。 ちくかくれい 呂不韋が相国を免ぜられた前二三七年、秦王政は逐客令を出した。 かんがい いすい 秦は隣国韓の水工鄭国の言を用い、渭水の北に大灌漑網を造った。これが後に秦の富強のもととな るが、鄭国がこの工事を進言した真意が、工事に多額な経費を支出させて秦を疲弊させ、それによっ て韓への圧力をけずらせることにあったことが判明し、秦王政は、一切の外来者を追放しようとした。 しようおうちょう 当然、李斯も該当することになる。その時、李斯は、今まで秦に役立った他国者として、商鞅・張 ぎ はんしょ さんとう たい 儀・范雎らの例をあげ、その功績をのべて、「太山 ( 泰山。山東省中部にある名山、五岳の一つ ) のような 高山も、わずかな土くれも惜んで積み重ねたので、大をなし、黄河や海も、小さな流れも捨てなかっ たので、あのような大をなしたのだーと説いた。 秦王政はこれを聞き人れて逐客令を沙汰やみとした。一方、李斯はその後いっそう重用され、秦の 代 時統一に貢献したが、「太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す」は、以来、度量の大きな人物は、 蝣些細な意見もよく受けいれて大をなすの意に用いられるようになった。 分 太山不譲土壌。 ( 『史記』李斯列伝 ) かん ていこく ねずみふん お よ こうが ( 小岩井弘光 )
すでに、蘇秦は合従を説いて趙にいたが、秦が趙に攻め込む動きを阻むため、策を用いて張儀を秦 に仕えさせ、張儀に恩を売って秦の攻撃をやめさせた。 けいぶん 張儀は蘇秦の存命中は行動を慎むと約束したといわれるが、秦の恵文王 ( 在位、前三三八ー前三一 はたん きやくけい に信任されて前三二八年、客卿 ( 他国出身の大臣 ) となり、六国側の合従に破綻がみえると、秦と和睦 れんこう し、個々に横 ( 東西 ) に結ぶべきだという連衡策 ( 衡は横の意 ) を説いてまわり、見事成功して、前一一三 二年、魏の宰相となり、いっそう秦の利益のために働いた。 張儀は魏王にこう説いた。 かん 「大王のためにお計りするに、秦に事えるのが一番です。秦に事えれば、楚も韓もあえて動きますま うれい い、楚と韓の患がなければ″大王枕を高くして臥し、国に必ず憂いなけん ( 大王は枕を高くしておやす みになれ、お国も心配ありますまい ) ー 今日、「枕を高くす」で、高枕で眠る、転じて安心するの意に用いられるが、その後、枕を高くし て安心したのは実は秦であった。 こうして連衡に成功した張儀は秦に帰り、ふたたび宰相となった。 元来、張儀は楚で鞭うたれ、含むところがあった。斉・楚の同盟を破ろうと、前三一三年、楚の懐 しようおせんせい 王 ( 在位、前三二九ー前二九九 ) に使いした際、商於 ( 陝西省南東部 ) の地六百里を献上するといって、懐 王に斉との交りを断たせた。その後、言を左右にして約束を果そうとしなかったので、怒った懐王は 秦と戦端を開くが、かえって敗れてしまう。張儀は怒る懐王をさらに手玉にとり、結局、楚を秦に和 えん 親させ、引き続き韓・斉・趙・燕をも秦と結ばせ、ついに蘇秦の死後、合従の体制を打破して、連衡 ちょう せい わく かい