一衣帯水 ずいぶんようけんほくしゅう ちんせん 隋の文帝楊堅が北周を滅ぼして北朝の王者となった翌年 ( 五八一 l) 、南朝では陳の宣帝が在位十四年 ちんしゆくう えんさ で死に、子の陳叔宝が立った。いわゆる陳の後主である。陳叔宝は人民の怨嗟の声もよそに酒色に明 け暮れ、政治をまったくかえりみなかった典型的末代皇帝の一人である。 隋の文帝楊堅は即位したときから南朝を滅ぼして天下を統一することを考えていたが、五八七年、 こうりよう こうわ・よら・ しようそう ちょうあん 今日の湖北省江陵に都していた後梁の後主蕭琮を隋の都長安に呼んだ。その際、文帝は陳に虚を衝か ぶきよら′ さいこら・ど れて要地江陵を奪われるのを恐れ、武郷公の崔公度を派遣して守備を固めさせることにした。ところ りゅうしゅ しようぎこう しようがん が、江陵の留守をしていた蕭琮の叔父蕭巌や弟の蕭義興らは、崔公度が同地を奪いに来たものと誤解 ちょうこら・ へいどん し、人民十万をひき連れて長江を渡り、陳に降服してしまった。怒った文帝は後梁を併呑すると同時 に、南征の決意を固めた。かくて翌開皇八年十月、文帝は陳攻略作戦の開始を宣言した。 代 あに 時 我は百姓の父母為り、豈一の衣帯の水を限りて、之を拯わざる可けんや。 の 支 令 - っと - っ 律わしは即位以来、ひたすら陳と事を構えぬよう心掛けてきたが、今や陳の主は放蕩無頼、民は塗炭 の苦しみにある。「わしは民の父母としてこれを無視することはできない。あの着物の帯ほどの長江 かいこう これすく
歯牙の間に置くに足らず だいたくきよう准うき ちんしようごこう 前二〇九年、大沢郷で蜂起した陳勝・呉広らの農民軍が快進撃をつづけて、たちまち陳を占領した とき、この事態は、早速二世皇帝に報告された。 代 はんぎやく 「叛逆者が蜂起して荒らしまわっています」 王と最初に報告した出張がえりの役人は、二世皇帝に、不愉快な奴だとばかり、獄につながれてしま 統った。 次に報告したのは使者として都へ上ってきた者である。 たんそく と歎息したという。 つばめすずめ くぐい 燕や雀のような小人物には、鴻や鵠 ( 白鳥 ) のような大人物の遠大な理想はわかりはしない、の 意である。 嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉。 ( 『史記』陳渉世家 ) 王侯将相寧有種乎。 ( 同 ) かんじよ こうをきでんさん 斬木為兵、掲竿為旗。 ( 『漢書』陳勝項籍伝賛 ) しが おおとり ちんしようせいか やっ ちん ( 広野行甫 )
とう、もん どと これは、鄭の東門で戦われたので、 " 東門の役という。勝った鄭の荘公は、「火の原を燎くが如 りようげん さでんいん しよきようばんこう く」 ( 燎原の火、の出所。『左伝』隠公六年の項。この語は、『書経』の盤庚篇から出たもの ) 勢威を伸長し、前 ちゅうげん 七〇一年に没するまで、春秋初期の二十年間、中原の諸侯を統率する " 鄭時代。をつくった。 秋時代は、周の天子に代って、覇者が諸侯を支配したが、その風はここに興ったといえよう。 敗れて帰国した州吁は、石厚を、隠棲している父の石硝のもとへやって訊ねさせた。 「州吁さまが″逆賊〃視されぬ方法はありますまいか ? 」 石碚は、さりげなくいった。 「陳侯が天子のお気に入りだ。陳侯に請うて、諸侯として天子にお目見えするがよい」 石厚が辞去すると、石碚は直ちに陳侯へ使者を送った。 あや 「近く貴国〈参る州吁と石厚は、主君を害めた逆臣でございます。厳しくご処断くださいますよ 陳の桓公 ( 在位、前七四五ー前七〇七 ) は、州吁と石厚が来るや否や、州吁は捕えて殺し、石厚は石硝 の手のものに殺させた。時の心あるものがこれを評していった。 「大義親を滅す ( 大義のために骨肉の私情を顧みない ) 、とは石醋のことだ ! 」 大義滅親。 ( 『な伝』隠公四年 ) 如火之燎于原。 ( 同、隠公六年 ) かん いんせい ( 常石茂 )
和平使節が東魏に派遣されることになったが、これを聞いた侯景は不安になった。東魏にそむいて梁 をたよってきたのに、その梁が東魏と和平を結べば、自分の立場はどうなるか。 侯景はひそかに準備をととのえた。そしてついに五四八年八月、首都の建康をさして進撃を開始し た。この年の十月から、翌年の三月までのほぼ半年間、壮絶な首都攻防戦が展開されたあげく、結局 は建康は陥落し、八十六歳の武帝は幽閉されたまま死に、皇太子の蕭綱が帝位をついだが、この新帝 の簡文帝も、二年あまりののち侯景に殺された。 こうりよ、つ しようえき この時、江陵にいた簡文帝の弟の蕭繹はただちに侯景討伐軍をおこし、五五二年に侯景をうちとっ げん て江陵で帝位についた。これが元帝である。この戦いには広東方面から北上してきた陳覇先が貢献し ている。 五五四年、梁の混乱の虚をついて侵入した西魏に元帝が殺害されたため、翌五五五年、陳覇先は元 しようはうち 帝の子の蕭方智をたて ( これが敬帝である ) 、建康の軍権を手中におさめ、その権力を背景として五五 ちん 七年、みずからが帝位について、陳王朝をたてた。 ずい 陳王朝は、五八九年に隋によって滅ぼされるまで、一応は五代三十年あまりの命脈を保つが、もは こうなん やその威令のおよぶ範囲は、ごく限られたものであり、江南には無数の軍閥が乱立するという状況で 代 のあった。 立 対 南 嘗於金陵安楽寺画四竜、不点目瞬、謂点之則驤騰而去。 ( 『琅邪代酔編』巻十八、張僧緜 ) かんぶん けい せいぎ しようこ、つ けんこう ちんはせん ( 巨勢進 )
蛇足 ようすこう 楚は揚子江中流域を基盤として、春秋時代に荘王 ( 在位、前六一三ー前五九一 ) が覇者となって以来、 戦国時代中葉まで大きな勢力を保っていた。 れいいん ちゅうげん この国は中原諸国と人種や文化を異にするが、政治面でも、宰相に相当するものに令尹があった。 しようよう せい 懐王 ( 在位、前三二九ー前二九九 ) 時代の令尹昭陽が、前三二三年に魏を破り、さらに斉に兵を進めよ ちんしん うとしたことがある。斉王はこれをやめさせようと陳軫を遣わした。 陳は昭陽に会い、次のように説いた。 「こんな話があります、あるとき、酒がありましたが、皆で飲むには足りませんでした。そこで、蛇の 画を一番早く描いた者が飲むことに決めたのです。一人が真先に描きましたが、ふと、足も描こうと もとよ これ これ 時筆を加えました。その間に別の一人が描き終えて、『蛇固り足なし、今之が足を為す、是蛇にあらざる なり』 ( 蛇にはもともと足がないのに、足をつけたんでは、蛇ではないよ ) 、といって酒をせしめたのです」 これが、「あっても益のないもの」、あるいは「益のない余計な行為」の意に用いられる「蛇足ーの 話であるが、陳軫はさらに言葉をつづけて、 道不拾遺。 ( 『史』商君列伝 ) だそく そう ( 小岩井弘光 )
118 ー宀 「王侯貴族や将軍大臣だって同じ人間じゃないか。お れたちがなっていけない道理はなかろう」 と呼びかけて護送役人を殺すと、農民たちは、「木 さお を斬りて兵となし、竿を掲げて旗となし ( 手近の木ぎれ けつき を武器とし、むしろ旗をかかげて ) ー蹶起したのであった。 いっき これから、農民一揆のことを「竿を掲げて事を起こす」 といい、物事のきっかけをつくることを「陳勝、呉広 をなす」というようになった。 この陳勝は若いころ地主のところで日傭取りをして いたが、仲間に、 「将来、偉くなっても昔の仲間たちのことを忘れない ようにしような」 といって、 みずの 「おれたち水呑み百姓になにができるか」 と冷笑され、 嗟乎、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。 ああ びよう
117 統一王朝の時代 まから ぼんご 「バカーは、梵語の Moha,Mahallaka ( 無知 ) が″慕何〃〃莫迦〃〃摩訶羅〃と音訳されたのに由来する ともい、つ。 趙高は後に、胡亥を弑し、扶蘇の子の子嬰を立てて秦王としたが、逆にこの子嬰に殺される。 謂鹿為馬。 ( 『史記』奏始皇本紀 ) こうこ / 、 えんじゃくいずく 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや ちんしよう・ここう こがい しんしこうてい 紀元前二一〇年、秦の始皇帝が死に、二世阜帝胡亥が即位した年の七月、陳勝・呉広のひきいる農 なうかい だいたくきようあんき 民軍が大沢郷 ( 安黴省宿県東南 ) で挙兵し、秦朝崩潰のロ火を切った。 ぎよようか度く みつうん 陳勝ら九百人は、このとき国境守備兵として徴用され、漁陽 ( 河北省密雲県 ) へ送られる途中だった が、大雨に阻まれて期日通り目的地に到着することはできず、かりに向うまで行っても処刑されるこ とは明らかだった。そこで、この農民の隊長に推されていた陳勝と呉広が、 しようしようなんしゅ 王侯将相、寧ぞ種あらんや しゆく しい しえい ( 広野行甫 )
250 畜生 ぶんようけん 隋をおこした文帝楊堅は、自己を律すること厳しく、政に励んだので、法令は徹底し犯罪も少な くなった。金には細かいところがあったが、功績を上げた者には惜しみなく賞をあたえ、農業振興事 ぶえき 業を盛んにする一方で、夫役や租税を軽減し、みずからも質素な生活をした。この結果、建国当時、 民間の戸数が四百万にも満たなかったものが、在位二十四年のあいだに倍増、八百万戸を越えたとい う。さすがは天下統一の威業をなしとげた名君である。だが、この名君楊堅にも致命的欠陥があった。 ざんげん 疑い深く、讒言を信じやすかったということで、彼はそのために命を落すことになる。 よら・ゆら・ 楊堅は、はじめ長子の楊勇を皇太子に立てていた。楊勇は温厚篤実な人だったので、父楊堅や百官 を恐れて、民を見殺しにできるものかー 「一衣帯水」とは、一筋の着物の帯 ( 衣帯 ) ほどの狭い川の意で、長江の険なぞ恐るるに足りぬといっ しんようこう ようだい たものだが、この気宇壮大なることば通り、文帝は次子の晋王楊広 ( のちの隋の煬帝 ) を総指揮官とす けんこう る五十一万八千の大軍を長江北岸数千里に集めて侵攻作戦を開始、翌年 ( 五八九 ) 正月、陳の都建康を 占拠、陳叔宝を捕えて、天下の統一をなしとげた。 我為百姓父母、豈可限一衣帯水不拯之乎。 ( 『』陳本紀下 ) まつり・こと ( 立間祥介 )
先んずれば人を制す 代 ちんしようごこう 時 秦の二世皇帝の元年箭二〇九 ) 七月、雨の大沢郷で蜂起した陳勝・呉広ら九百の農民軍は、雪だる の かなんわいよう 王まのように成長しながら西進し、五つの県城を連破、陳県 ( 河南省淮陽 ) を占拠して、張楚の建国を宣 統言、陳勝は自立して楚王となった。 はんらん 各地の地方官は、手を束ねて叛乱軍の到来を待つより、反秦陣営に身を投じたほうが有利とみて、 ただの盗賊かこそ泥のたぐいでございます。なにも歯牙の間に置くには足りません。やがて捕縛され ることでしよう。ご心配なさるには及びません」 びき 二世皇帝は大いに喜び、彼を博士の官に取り立てると同時に帛二十疋等の褒美をあたえた。彼はこ かんこうそ うして二世皇帝の信任をかちえておいた上で、滅亡に瀕した秦を脱出して帰郷し、後に漢の高祖に仕 えて、漢の儀式・制度の整備につくした。 歯牙の間に置くに足らず ( 歯牙に懸くるに足らず ) とは、「間題にする必要もない」「ロの端にのぼせ るほどの価値もない」といった意味に使われる。 何足置之歯牙間。 ( 『史記』叔孫通伝 ) しん だいたくきよううき ちん きぬ ちょうそ ( 広野行甫 )
編集委員 尾崎秀樹 駒田信二 司馬遼太郎 陳舜臣 常石茂 装幀 荒川じんべい