世の中には神経質とは逆に鷹揚な人もいて、スラン。フで勉強できなくなると、アッサリと遊 び出す。そして遊んでいるうちに自分がスラン。フだということを忘れてくる。自分がスランプ だということさえも忘れて遊んでいれば、やがて気がついたらスランプは脱していて、また爽 快に勉強はできるようになっている。 要は、スランプそのものが問題なのではなく、スラン。フを苦にするか、苦にしないかが問題 なのである。スランプそのものがわれわれを苦しめるのではなく、スラン。フに対するわれわれ の反応がわれわれを苦しめるのである。 鷹揚な人が、スランプを忘れるのとは逆に、神経質な人は片時も自分がスラン。フであること を忘れない。そしてああしようか、こうしようかと心配しながら生きている。 神経質な人は、自分は神経質なんだと諦めてしまうことである。自分が男であることがどう しようもないように、自分の神経質な性質はどうしようもないのだと諦めることである。 自分が女に生まれれば女として生きていくより仕方がない。それは諦めである。しかし人間 諦めることができるためには決断ができなければならない。諦めようとして諦められない人は、 決断のできない人なのである。決断と諦めは表裏一体をなしている。それが悟りであろう。 自分が神経質なのに、なんとかして鷹揚になろうとしてもそれは無理である。神経質な人は、 その自分の神経質を生きようと決心することである。自分の神経質という苦しみと一体となっ て生きていくより仕方がないのである。ジタ・ハタしないことである。
意欲を自ら求めよ さて、前節でも述べたような自己卑下もせず、ドンファンにもならず、自分が自分を好きに なるためには、次のようなことが必要であろう。 第一には、元気な人とはっとめてつきあう、ということである。個人的なっきあいにおいて、 活力のある人とつぎあうことは大切なことである。ことに自分が落ちこんでいるときは、活動 的で元気な人と接することである。 というのは、元気な人と接することで人間は元気になる。無気力な人と一緒にいると、たと えこちらが多少元気であっても、次第に気力を失ってしまいがちである。 いつも文句ばかりいっている人間と一緒にいるという義務は、われわれにはない。また、い こうすれは空しさの蟻地獄から脱け出せる ″自分が自分を好きになる〃ための四大法則 4
す。それは、偉大なる使命ほど、自分の存在感を高揚させてくれるものはないからである。 まず救われるべきなのは ? 劣等感でノイローゼになった者が、ある時「オレは世界の悩める者を救いたい」などという ことをいいだすのも同じである。自分が劣っているといってノイローゼになるほどの人間が 「世界の悩める者を救いたいーなどと大きなことをいうのはおかしいと感じる人もいるであろ しかしそれは逆で、自分が劣っているといってノイローゼになるほどの人だからこそ、その 苦しみを一挙に解決してくれるものとしての偉大なる使命が必要なのである。 劣等感は、その意味では使命感と結びつきやすいのである。ことにケタはずれの使命感とは 結びつきやすい カウンセラーについて、「まず救われるべき人は、自分なのか、他人なのか」と自問すべき であるといわれる。つまり自分が救われていないのに他人を救うということは難しいというこ とである。 これはカウンセラーばかりではなく親についても、いや親についてこそいわれるべきことの ように思われる。親自身が救われていないと、子供の人格を歪めてしまうことは間違いない 劣等感を持ったり優越感を持ったりしている人は、他人を「救いたがる」傾向が強い。これ
しまう。 それでいながら、置いた人にむかって「その置き方は何だ」とはいえない。それは、自分は そんなことで怒るような人間であっては・ならないからである。 したがって、慣れないうちは周囲の人間には一体その人が何で不機嫌になったのだか理解で きない。 普通の人なら無頓着でいられることが、どうしても無頓着でいられない。不機嫌な人という のは、それだけもろい基盤の上に生きているのである。自らの生の基盤がもろくて、ちょっと したことで、その根本の基盤が崩れてしまう。したがって機嫌のいい時でも何か不安定な明る さしかない 無頓着でいられるためには、他人と自分との間に一定の距離がなければならない。一定の距 離があるということは、自分の立場がなければならない。自分の立場がきっちりとしている者 のみが他人の些細な行動に対して無頓着でいられる。 自分の根拠が自立していないから、他人の言動が、ストレートにその根拠をおびやかしてし まう。自分の存在の基本的基盤が確立していないために、何事にも無頓着になれないのである。 自分の存在の実感が確実なものは、他人の行動をそのままにしておくことができる。赤の他 人より近い関係の人の行動によって不機嫌になるのは、近い人とのほうが距離を保ちにくいか らである。
そのような自明性こそが、実はわれわれの生をきつばりと支えているものなのではなかろう 基盤の強固な人は、べつにやろうとしなくてもできてしまうことがある。しかし基盤の弱い 人は、そのようなことでも意識し、努力しないとできない。したがって疲れやすい 人に会って、何か中心に力がなく、頼りないという印象を与える人もいる。また逆に、何か 迫力のある人もいる。それは、その人の生を支えている基盤の強弱によるのではなかろうか。 他人と気まずくなるのを避ける心理 今の若い人がよく自分を出して他人と気まずくなるよりも、相手に合わせていたほうが気が 楽だ、という。 気まずさを避ける、いさかいを避ける、それを第一にしている人によく出会う。しかし、こ れも自我の基盤が脆弱であることを示しているのではなかろうか。 何かをいい、何かを行動する時に、その言動を決定する中枢に自信がないのではなかろうか。 だから、他人とずれてしまうことを恐れるし、ずれてしまった気まずさに耐えられない。気ま ずさとは、何か自分と他人の感情の位置が微妙にずれてしまった時の気分であろう。 気まずさは、自分と他人の感情の位置が明確である時にはおきてこない。自分の言動の正当 性について確信がある時、気まずさは出てこないのではなかろうか。気まずさとは、同調でも
ろやってみたけれど、自分にはこれしかないんだ、というようなものにつき当たる時がくる。 それこそ自我の基盤が強化された証拠であり、またこれしかないということをやることによっ てますます自我の基盤は強化されていく。 自分のやっていることが高級だとか、低級だとかいうことではなくて、自分のやっているこ とは、自分にとって必要なことだ、という認識ができるようになる。そして必要なことだ、と いう感しは、よりよくやることによってしか生じてこない。 必要か必要でないか、という感覚は、いかにやるか、ということにかかっている。背のびす ることと、上手にやろうと努力することの違いはここにある。 まえに述べた自分を嫌いになる行動というのは、ことごとく自分と直面することを避ける行 動なのである。そして自分を好きになる行動というのは、自分と直面していくことを促進する 行動なのである。 モラトリアム人間というのは自分に直面することのできない人間ではなかろうか。 自分が自分に直面していく時、すべてはひらけてくる。もはや自分の人生において、自分が 価値あるかどうかを決めてもらおうと、他人のほうを見る必要がなくなるからである。 最後に、この本を書くに当たって大和書房常務の谷井良氏と青泉社社長小林伸一氏に大変お 世話になったことを記し、感謝の意を表したい。 228
運命にたちむかう強靱な意志 ギリシャ時代のソボクレスが最も円熟した時代に書いた最大の悲劇「オイディ。フス王」はさ まざまな人によっていろいろに語られてきた。 人間の運命と意志の対立を描き切ったと絶賛される。僕もそれはそれとして正しいと思う。 主人公が自らの破減へと一歩一歩進んでいくその姿は、読む人の体を固くし、興奮させる。 運命の悲惨を予感しながらも、それにむかって雄々しく歩んでいく人物は、読む人の心をと らえ、息つくことも許さない。一気に読んで、読み終わってフーツと気が抜けて、それまで自 分の体がいかに固くなっていたか、と気がつくような偉大な作品である。 オイディ。フス王は、自らの父を自らの父と知らずに殺し、自らの母を自らの母と知らずに妻 とする。 最後にそれらの事実を知って、母であり妻である人が身を飾っていた黄金の留針を着物から かけ値なしの自分をみつめていくこと オイデイプス王にみる″逃げない生き方〃 21 2
今までいろいろな行動をしてきていながらも、いまだに自分が一体何を真に望んでいるのか わからない人は、今まで自分が考えていたほど自分は立派ではなかったということである。 しかし、決して自己卑下することはない。われわれは可能性の存在であって、生まれつき立 派でもなければ、生まれながらに駄目でもない。 今まで自分が社会を非難したり、他人を倫理的に非難したのは劣等感があったからだとわか ること自体が、自分の偉大な可能性を示している。 他人依存の心理をどう克服するか さきにあげた恩きせがましい甘えた自己中心的な父親は、おそらく周囲の人間を非難するだ ろう。 「俺がこんなに皆のことをやってやっているのに 「俺は自分を儀牲にしてここまで家庭のことをやってきたのに」 この父親は、自分がまさに子供にしたことによって子供が自分を恨むようになる、などとい うことが考えられないのである。 このさきにあげたケースの場合は、子供はやはりノイロ】ゼになり、病院に入った。やがて 出てきたが、父を憎んだ。それはまさに父が子供に″自己犠牲的に″したこと、そのことのた めに父を憎んだのである。 21 0
たのである。 ところが求婚されたとウソをついたことで、求婚されていない自分が無価値に感じられてき たのである。 そして人間はウソをつくと、 いよいよそのウソのイメージに価値をおいてしまう。彼女とて はじめから、求婚された女か、されない女か、などはさして問題にしていなかったのである。 女の価値は、もてるか、もてないかによって決まるものではないと、その女性も最初は思って いたのである。 ところがウソをつきつづけると、次第に心理的な変化が起きる。そして、いつの日か、女の 価値は、もてるか、もてないかによって決まるように感じてしまう。そしてウソをついた時か から不安と苦しみがはじまる。 る 切本当の自分を知られまいとする抑圧心理が働きだす。本当の自分は価値がないのだという劣 等感がはじまる。他人の眼を意識して長いこと、本当の自分を隠しつづけると、はじめは不安 におののいて激しい行動をするかも知れない。自分をとりつくろうことに必死になって動くか を も知れない。しかしやがて何をするのもおっくうになる時がくる。無気力である。 根 の 己不幸の流れをどこで変えるか ー目 ここにあげた三つの恋愛のケースはいずれも失敗に終わっている。 193
とが余計彼の内心のみじめさを刺激していた。 そこで彼は自分を救う方法として、母親の過ちを探しだして、あざけることにしていたので ある。面接の結果、そのようなことがわかってきた。 さて、私たちが何だかわからずいらだっ時、それは実ははっきりした原因がある場合が多い。 ところが自分で自分に眼をふさいでいるのでそれがわからないだけである。 ことに、上役や友人や先生や有名人などをことさらに「あいつは馬鹿だよ」などといってあ ざける場合はそうである。自分の一番奥深いところでは、その自分の痛いところを知っている のである。しかしそれを意識するのが嫌で、自分から眼をそむけているのである。そして他人 の過ちばかりかき集めているのである。 かしかし、もし不愉快ないらだちから解放されたいなら、勇気を持って自己認識し、自分の人 切生に正面から挑戦していくしかないであろう。 他人を非難することは最もてっとりばやい自己救済の方法である。しかし、安易ではあって も、自分の傷を深くしていくだけである。それは自分が変わろうとしないで、他人の自分に対 根する扱いを変えてくれといっているだけだからである。 悪何事も本質的には自分自身が変わらなければ解決しない。 己他人をいたずらに非難することで何か自分にとって素晴らしいことがあったかどうか、ノー トとペンを持って考えてもらいたい。何かノートに書くことがあるだろうか。 179