人生 - みる会図書館


検索対象: 自分の構造
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1. 自分の構造

ある。したがって彼らの生活は、一年の頃からの生活が反映されてくる。 意欲的な年度のゼミは教室に入っていくと、学生が「今日は〇〇君はかくかくしかじかの理 由で欠席しますーと欠席する学生のことを報告してくれる。そして仲間の学生が運動部のどこ に属しているか、文化部のどこに属しているかについてよく知っている。 誰それは今おふくろが田舎から出てきているとか、誰それは現在何のアル・ハイトをしている 、、仲間うちでよく知っている。 一口にいって仲間意識が強いのである。四年生になるまでにそれだけの交流があったという ることだろう。 出ところが無気力な学生の集まりの年度というのは、お互いがまったく知らない。教室に入っ 脱ていって、「今日は〇〇君はどうしたの ? 」と聞いても、「そんな人がいるの ? 」という顔をす かる。大学生活四年目に入っても、お互いにほとんど顔と名前も知らないし、いわんや仲間意識 地など全然ない。そういう年度のゼミは学生の研究発表もお粗末になる。 の さ つまり僕がいいたいのは、人間の意欲の源泉のひとつは仲間意識、所属感、連帯感、参加の 空実感等であろうということである。 ん空しさと孤独は背中あわせなのである。人間は自分の人生の意味を自分一人の上に築くこと うはできない。・ とんな成功もそれを共に喜んでくれる人がいない限り空しいものであろう。 他者との交流が個人に安心感と意欲を与える。勉強する気にならないのも、仕事をする気に 133

2. 自分の構造

他の人間はを価値あると思い、はさして価値がないと思っているなどということは考え もっかない。もしそう思っている人がいれば、そう思っている人自体が程度の低い人間と信じ ることになる。 親への心理的依存の強い人間は、自分と同じ価値の序列観を持っている人のみが立派な人と 思っている。つまり、その人にとって世界とは、さまざまな価値観を持った人によって構成さ れているのではなく、正しい特定の価値観を持った人と、それ以外の程度の低い人とによって 構成されていることになる。 そして自分はその特定の価値観を持った人々、つまり自分の親と同じ価値観を持った人々、 いいかえれば自分と同じ価値観を持った人々に受け入れられなければ、生きている価値がない と感じる。 その人にとって、世界とは自分と同じ価値観を持った人々のことなのである。その人にとっ て世界は実に狭い。親への心理的依存の強い人ほど世界は狭いものである。そういう人はどん なに出世しても世界は狭い。その人にとって世界は所詮、同じ価値観を持った人々の集まりで あり、そしてその小さな世界は外にむかって閉ざされている。 自分の好きなこと、たとえば学問であれ、スポーツであれ、商売であれ、何であれ、その好 きなことをやって成功した人は、自分の世界を持っているが、その自分の世界は外にむかって 開かれている。

3. 自分の構造

無理である。 受験勉強が、自分の生きていく精神的糧を与えなかったといって、それを百 % 受験勉強その ものの性質に帰してしまう人は、やはり大学で何を学んでも、その学問から精神的糧を得るこ とはできないように思う。 受験勉強によって、自分の生きていく精神的糧を全然得られなかった人は、まず受験時代と 同じ動機で行動することをやめることから出発しなければならない。 たとえば、人々に尊敬されたいという動機で勉強し、そして大学に入ってきた人は、まず人 人に尊敬されたいという動機による行為をやめることである。 人々に尊敬されたいという動機で勉強すれば、その勉強の結果、その人はより人々の尊敬を 精神的に必要とするようになってしまう。ノドが渇いて塩水を飲むようなものである。 そんな状態で、大学は高校と同じだった、などといっても、それは自分が悪い。他人に軽蔑 されるという恐怖感で勉強すれば、その勉強の結果、その人はより他人の軽蔑が怖くなってく 恐怖に動機づけられた行動は、その恐怖感を強めるだけなのである。 人々の尊敬をかち得るためには、多くの知識を持っていることだと、受験時代も大学時代も 同じように信じている人は、・ とこの大学に入っても、やはり、受験時代と同じような不安な気 持ちからのがれることはできないであろう。また、そう信じて知識を得ても、その知識は自分 かて

4. 自分の構造

ーのように怒って、その人を一生恨んで暮らす 笑いながら黙って無視する人から、ヒステリ 人までいるだろう。その「おまえは馬鹿だよ」という言葉で自分の一生を台無しにした人がい れば、それは自分で自分の一生を台無しにしたということである。 第一章で親の重大さについて書いたが、親がたとえどんな親でも、自分の現在の弱点をすべ て親のせいにする人は、今述・ヘたヒステリ ーの人と同じである。親に対してどう反応したかと いうことは自分の問題であり、その反応が自分をかたちづくりつづけたのである。自分に対し て自分が責任を持っ姿勢を欠く限り、ノイローゼもその一歩手前の無気力も治るまい。 劣等感は弱い自我から生まれる ある奥さんが「主人とはもう話ができないーといって相談に来た。たとえば、奥さんが路を 歩いていて主人に「あの家、素敵ね」というと、とたんに不機嫌になるという。奥さんにして というのである。そこで、主人と話をす みれば、何で主人が不機嫌になるのだかわからない、 る時はたえずビクビクしているという。自分の奥さんと路を歩いていて「あの家、素敵ね」と る ついわれた御主人にしてみれば、自分の劣等感を刺激されたのであろう。 ところ 分奥さんにしてみれば「あの家は素敵だ」ということ以外の何ものも表現していない。 いが御主人が、この言葉に反応して、自分で自分を苦しめ、かっ奥さんを苦しめたのである。 強 「あの家、素敵ね」という言葉をきいて、「そうだなあ」と一緒に感心する人もいるだろう。

5. 自分の構造

運命が恐ろしければ恐ろしいほど、それを正面から見すえなければならないのであろう。ど んなに恐ろしい運命であっても、それを正面から見すえ、その必然の運命を担おうとする時、 運命はより軽くなる。 「オイデイプス王」という人類が持ち得た最大の悲劇作品も、じつは、「運命を逃げた」こと によって起きたものであった。 神託に恐れおののいたからこそ、神託が成就してしまったというのが、この悲劇「オイディ プス王ーではなかったか。恐怖こそが、恐怖を実現させてしまったのである。恐ろしい神託を 正面から担おうと誰かがすれば、恐ろしい事件は起きなかった。 最後には、オイデイプス王はそれらのすべての人々の「逃げ」の集大成を背負って立つ。 キリストが人類の罪をあがなうべく、人類に代わってはりつけになったごとく、オイデイイ スもまた人々の「逃げ」を背負っていくのである。 ″本当の自分″を認めたくない : 人間はおそらく誰でも、自分の中ではウスウス気がっきながらも、どうしても認めることの できない何かを持っているのではなかろうか。 ヒステリー性格の人は、冷たい、という。そしてその冷たさを自分にも隠そうとしてオー ーに温かさをよそおう。 8

6. 自分の構造

人間は自分をあざむくことはできない 不機嫌な親を持った子供の悲劇について述べてきたが、最後に、親による子供の操作につい て少し考えてみたい。 親が子に期待をかけ、子がそれに反抗する。そんな場合は問題ない。問題ないというより子 の成長にとって好ましいというべきであろう。 子供の成長にとって、困るのは、親が子を操作してしまう時である。つまりまだ何も自分が と思い込ませてしまうと わからない子を、心理的に操作して、子自身が「薬剤師になりたい か、「僕はサラリーマンになりたい」と思い込ませてしまうとかいう場合が、最も子に不幸な 場合である。 たとえば小さい女の子にむかって、親が女の一生の幸せは結婚だと思い込ませるべく、結婚 しない女はどんなに不幸になってしまうかという例を次々に聞かせ、画家になろうとした女が 一生不幸であった例を、小さい頃から聞かせ、いつの間にか親の期待を子に内面化させてしま うような場合、子は成長してから不幸になるケースが多い。 子の反抗期をずらすようにして、親がうまく情報を与えていくと、子はそれが親の期待であ るにもかかわらず、まるで自分の望みであるかのごとくに錯覚する。子は自分が本当には何を 望んでいるかがわからなくなってしまう。子は親の期待に負けて、一時期自分がわからなくな ってしまう。

7. 自分の構造

ある解説によれば、「あらゆる人々のあらゆる善意の行為が一つ一つ積み重ねられて、恐ろ さま しい悲劇への進行する様はまことにすさまじいものがある」 ( 前掲書・二四頁 ) ところが僕から見れば、はたしてこれは善意なのだろうか、と首をかしげる。実は善意であ りながらも、皆が運命と正面きって対決していくことを逃げまわった人々である。そして、そ の善意もさらに本当に善意の名にあたいする善意であるかどうかもあやしい もし本当の善意であるなら、最後までロを割るべきではなかったろう。登場する人物は善意 ではあるが、別の面からいえば、その時、自分がそのように行動するのが一番楽だった、とい うにすぎない。 AJ だからこそ、最後には、ロを割り、あるいは自分の利益を求める使者となる。最後のオイデ イプスのみが、毅然として運命を正面から見すえてはなさない。 てオイディ。フス「おお、すべては明らかとなったようだな。おお、光よ、これが見おさめだ。 っ生まれるべきでない人から生まれ、交わってはならぬ人と枕を交わし、害すべきでない人の血 をを流したこのおのれ ! 」 ( 前掲訳書 ) ・目 ここにおいて、自らの意志によって自らを罰していくというすさまじい意志を見せる。ここ の なでも逃げようとすれば逃げられた。しかし逃げなかった。 け最後のほうに「使者」の言葉がある。 「 : : : 自ら招いた苦しみはいちばん痛いものだ」 217

8. 自分の構造

ることが学問への第一歩であろう。 「友達が大学に行くから」とか、「親に、大学に行かないといい出せなかったから」とか、い ろいろあるだろう。 もし親に「大学に行かない」と怖くていい出せなかったから大学に来たのなら、そのことを まず自覚し、親から精神的離乳をしなければと努め、そのことを求めて教室に出ること以外に 道はない 親から、出来の悪いダメな子供と思われる恐怖感から出た行動と、親への愛情から出た行動 とは、その行動そのものは同じでも、動機は決定的に違う。恐怖感に動機づけられた行動から、 愛情に動機づけられた行動へ、自分を導くことができるかどうかがわれわれの別れ路のような ん気がする。 ち人々から尊敬されたいという欲求から出た行動、軽蔑されまいという恐怖感から出た行動と、 ど人々への愛情から出た行動では、たとえその行動が同じでも、動機は決定的に違う。 る前者はその行動によってその人をいよいよ恐怖感におとしいれ、後者は、いよいよその人に 暖かい安らぎの気持ちを与える。 プ受験時代から大学時代へ、それは恐怖に動機づけられた人間から、愛情に動機づけられた人 ラ間へと変化する時代でなければならない。 ス 自ら変わろうとしない人間を、大学は変えることはできない。今までの勉強は辛いだけだっ

9. 自分の構造

もある。 劣等感のある人間、不機嫌な人間を言葉で説得しようとすることはやめたほうがよい。黙っ てその人のそばを離れること、それが最大の。フレゼントである。 マイナスになる人間関係・プラスになる人間関係 何かをしたいけれども何をしたらよいかわからない、という人は、まず今まで接してきた人 間と違った人間に接することである。 意気沮喪している人は、今までせいいつばい生きている人たちと接した経験が少ないのでは る 出なかろうか。せいいつばい生きている人は、接する人に生きる意欲を吹き込み、その人になす 脱べきことの指針を与えるものである。 ら 意気沮喪している人は、何をなすべきかを知らない人たちのさわがしいおしゃべりに参加す 地ることをやめることである。そして何をなすべきかを知っている人の人間的な温かさに接する のことである。何をなすべきかを知っている人は、人間的な温かさを持っている。 し 今まで接してきた人々、まず家庭、小学校、中学校からはじまって今の人間関係まで、無気 空 扣力な人もいろいろな人と接してきているであろう。その今まで接してきた人々をようく考えて うみることである。家で親は必死で生きていたか、愛情はあったのかなかったのか、家族愛は家 族一点ばりの息づまるような歪んだ愛だったかどうか、小学校の先生はせいいつばい生きてい ー 29

10. 自分の構造

何のために勉強するのか サラリーマンであれば自分が働く動機を反省してみる必要がある。学生であれば自分が勉強 する動機を反省してみる必要がある。 今の大学生は一体何のために今まで勉強してきたのであろうか。 ある人々は、自分を立派そうに見せるためではなかろうか。自分を立派そうに見せる学問 ( ? ) をすればするほど、実は本当の自分はどこか冫し 本当の自分とは、ものごとに感動することのできる自分、張り切っている自分である。そう した自分から学問することでどんどんと遠ざかってしまったのではないか。 「俺たちにとって、張り切っているってことはマンガなんだよな」といった学生がいる。 たしかに燃えてる若者はマンガにしか登場しなくなったのだろう。燃えてる人間を見て「あ いつはマンガだよーとその学生はいった。 スランプを意識するほど落ちこんでいく どうすれば新しい活路が開けていくのか こ、ってしまうのである。