次 かけ値なしの自分をみつめていくこと オイデイプス王にみる″逃げない生き方″ 運命にたちむかう強靱な意志 悲劇は何からはじまったか すべての人々の″逃げ″を背負う ″本当の自分″を認めたくない : 現実と直面する以外に活路はない ″自分の人生に何があったか″を考え直せ エピローグ・自分を直視することで道は開ける 他人に振りまわされない強い自分をつくるために 幻 2
人間のなかには自分の弱点を長所としてしまった人もいれば、一生涯自分の弱点にとらわれ て悩みつづけて自分の人生を台無しにした人もいる。 北風で自分をきたえた人もいれば、一生北風にさらされる自分を憐れみつづけた人もいる。 自我の基盤が強固である人と脆弱である人との違いである。 自我の基盤が強固である人は、何もしないのにやたらに疲れたりはしない にところが、自我の基盤が脆弱である人は、何もしないのにすぐに疲れたり、いつも退屈した たりしている。自我の基盤ができてなければ、避けられぬものを避けようとして一生無益なあが くきをしつづけるに違いない。そういう人は過ぎてしまったことを悔いて悩んで健康を害するこ をともあるだろう。取りかえせないものを取りかえそうとしてイライラして過ごすこともあるだ ・目 ろう。あるいは、決しておこりそうもない将来の事件を仮定して取り越し苦労をしてやつれる こともあるだろう。 逃 ゆずらなくてもいいことを勝手にゆずっておいて憂鬱になる人もいる。自分にできることを 逃げない自分をつくるために まえがきに代えて
人間は孤立していると社会への興味を失い、参加への意欲を喪失する。 参加しないことでさらにあらゆることへの意欲を喪失するという悪循環におちいる。人間の 意欲をかきたてるのは集団活動である。 人生が空しいと感じた時、何より大切なのは元気な人々の間に入っていくことである。その 元気な人々が自分に生きる新鮮な意欲を吹き込んでくれる。 空しさを味わっている時、人を避けることだけは避けなければならない。 第ニの法則どんなときにも希望を持ってあたること ″どうせ結果はわかっているのだから″という言いわけ 第二に、希望という前提に立って行動すること。「どうせやったって、駄目に決まっている」 というような考え方は、人間をいっそう受動的にしてしまう。 人間は、希望を持っているから人間なのである。人間のひとつの定義は、ホモ・エスペラン ス (Homo es rans ) ーーー希望する人ーー・であろう。 「やったってしようがない」と思いはじめると、何をやってもしようがなく思えるものである。 「ごちそうを作ったってしようがない」と思える時がある。同じように、部屋をきれいにした と、何事に対してもやる気がな ってしようがない、身なりをきちんとしたってしようがない、 くなってくる時がある。 142
睡眠薬をやめたということは、この欲求を断念したことである。欲求の断念とは、その欲求に とりこまれている自分を棄てるということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄 ててしまうということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄てるということは、 その先どうなるかわからない世界へ自分を投げ出したことである。 不眠症に苦しみつつも、不眠症を治そうとしている限り未知への恐怖はない。不眠症が治っ たら、その人生はどういう人生かその人にはわかる。しかし、それ以外の人生は、一体どんな 人生なのか見当もっかない。恐ろしいほどの困難と不快の人生かもしれない。未知の世界へむ るかって自分を投げかける決断が、つまり欲求の断念なのである。 出この不眠症の人が、睡眠薬を諦めてやめてしまったのは、欲求の断念でもあり、別の面から 脱いえば、未知の世界へむけての決断でもあったのである。 ら なぜ " あるがまま。に生きられないのか の ノイローゼでよくいわれる、森田療法というのがある。つまり、苦しいことは苦しいことと さ 空して怖いものは怖いものとして、そのまま受け入れていくより仕方がない、という方法である。 んそして、あるがままに人生を受け入れて、やるべきことをやっていくということが大切である、 うという療法である。 ただ、ノイローゼになりかかっている人間にしてみれば、苦悶は苦悶として受け入れる、と ー 53
今まで、自分は現実の自分と直面することを避けてきた、しかし一体それで、何が自分の人 生にあったというのだろう。今までの自分の人生に何があったか、と。もちろん、まず自分に 直面することを逃げてきた人は、逃げてきたということ自体を認められないだろう。しかし、 一体今までの自分の人生に何があったか、と考えるならば、自分に直面することを避けること の空しさを感じないだろうか。 何もなかった。だとすれば、どんな小さなことでも自分の人生に何かを持っことのほうが幸 せではなかろうか。どんな小さなことでも ししる鳥への愛情を持っことでもいい。何でもい いから、何か持っことのほうが幸せであろう。 自分には何もないのだ、ということが明らかになる機会を避けているのがヒステリー性格で ある。しかし、ヒステリー性格とは、人間の精神的成長がどこかで止まっているということに すぎない。 今までの人生を振り返り、自分を実際以上に見せることで一体、自分の人生に何があった かを考えてもらいたい。 224
その野望の実現なくして人生はないと思っているのだから。 明治以来、末は博士か大臣か、と少年は野心を持った。そして戦後は、逆にそのような立身 出世主義はよくないと批判された。そのために、青年は今ここにある自分の野望を否定する。 そんなことはくだらないことだと世の人はいう。 しかし、野望を否定することと、野望を相対化することとは違う。この点は大切である。青 年は野望を持って しししゃ持ったほうがよいかも知れぬ。自分の野望を否定する必要などど こに、もない 大切なのは、その野望の実現だけが人生だと信じないことである。その野望を実現しなけれ ば生きている意味がない、 と思わないことである。社長になることだけが人生ではない。「俺 には俺の人生があるーこのように自分の野望を相対化することが大切なのである。 かっての立身出世主義の批判の風潮は、いっしか、社長への野望の否定になってしまった。 そんな野望を持たないことが、まるで立派な人であるかのごとくである。 俺は社長になりたい、と青年は願えばいいのである。ただし、社長にならなくて何の人生、 と思ってはならないということである。 青年は野望を持つのがよい。しかし条件はその野望を決して主観化、絶対化してはならない ということである。 社長になりたいという欲求を主観化、絶対化した時どうなるか。もしその人が社長になれな ー 62
あるとは、そのことのほうが、より生きることを辛く重くしてしまうということである。ギリ シャ悲劇「オイデイプス王ーの中の一節に「みずから招いた苦しみはいちばん痛い」という名 言がある。 われわれは他人の軽蔑よりも自分で自分を軽蔑することによって、より不幸になる。よそお えばよそおうほど、人生は重苦しく不安になっていく。それはよそおうことで実際の自分を貶 めているからである。他人にむかって実際の自分を隠すことで、実際の自分を不必要に卑しめ ることになってしまう。 自分を実際の自分以上に見せようとする行動は、他人は実際の自分を受け入れてくれない、 好いてはくれない、尊敬してくれないということを前提にしている。そしてそのような行動は れその前提を、より人に確信させることになってしまう。 ら 純そのことが何十年もつづけば、まるで自分は生きるに値しない生命であるかのごとく感じは けじめたとしても無理ないであろう。 実際の自分を隠しつづける人は、自分が感じる喜びさえも、「くだらないことを喜ぶ」とい 分 自 う理解の仕方をし、自分が喜んでいることさえ他人に隠そうとする。 の ま何かを隠している人は、自分に自信がないからたえずォズォズビクビクしている。実際の自 る分が人前に明らかになれば、自分は他人に受け入れてもらえないと錯覚しているのだから、ビ クビクしているのは当然である。 おとし
「商売っていうのも大変だよ、わずかのお金のために頭下げて : : : 」 ーとロではいうのだが、実際の行動は決して大学の先生の仕事 「そこいくと大学の先生は : 。そして大学の や同僚は困っているといったほうがいし を熱心にやっているわけではない。、 中で何か嫌なことがあれば「どこにだってこの位の嫌なことはあるさーということになる。 実はこの人、自分の選択した人生の失敗に直面できないでいるのである。何とか口実をもう けて、自分の職業選択は間違いではなかったと思い込もうとしているにすぎない。 自分の犯した失敗に直面できない人間は、自分の全人生を悲劇にしてしまう。 失敗を認められないならば、抑圧と強迫との間にあって無感動な毎日を送るより仕方がない だろう。 人生は辛いことは確かである。ただ耐えに耐えていかなければならないことも確かである。 しかし、同様に人生は明るく楽しくもあり、また愉快でもある。 何か仕事のうえで辛いことがあると、それは克服しなければならないという時もある。辛い 、。どこに行っても、自分が好きになれ ことがあるたびに仕事を変えていたのでは何もできなし ない人がいる。どこへ行っても性に合わない人がいる。だから、嫌いな人がいるからといって 職場を変えているのでは、どの職場でも半年はっとまらないかも知れない。 ヒソヒソうわさ話ばかりする嫌な奥さんがいるからといっていたら、日本中どこに住んでも すぐに引っ越ししなければならない。 172
心に葛藤を持つ人は、実は内面においては囚われの人である。自分の意志に従って動けず、 自分の主人の意志に従って動く奴隷と同じであろう。現実の奴隷と違うのは、ただ、その主人 を内面化しているというだけの話である。その主人は、時に母であることもあろう。 自分の夫への期待を捨てて、自分の子供の社会的成功にすべての期待をかけた母がいたとし よう。やがてその子供はその母の期待を内面化して成功へむかって努力をはじめる。 その時その子は、自分の人生に自分は何を期待したらよいのかわからなくなる。自分の人生 でありながら自分はどこにもいない。 母に気にいられること、母とともにいることが最大の喜びである者は、心の葛藤を逃れるこ とはできない。その人にとって母を悲しませることは最大の悲しみであり、母から嫌われるこ とが最大の恐怖となる。 この恐怖こそ、その人をして何物とも出会うことを不可能にしてしまう。 自分の人生に自分が期待して何が悪い。自分の人生に何を期待するかは、自分で決めること なのである。 経験の非一貫性に苦しむ人は、自分の内面の主人にそむくことがまず第一である。それなく して苦しみからの解放はあり得ない。 自分が自分を好きになるということ ロ 6
の上で仕立てあげられているのであるから。 われわれがある人に認められたいと熱望したとする。そしてわれわれが何かの劣等感を持っ ていたとする。すると、いつの間にか勝手に、相手を決めてしまいがちである。相手は差別意 識を持った人間だと。 われわれに必要なことは、他人がわれわれに本当に感じている感じ方を知ることなのである。 過去にこだわって未来の可能性をつぶすな この長いことあることに強い感情投資をしていることの第二の危険は、視野が狭くなること である。 つまり中学校の頃からある第一志望の大学が決まって、長いことそれにむかって努力してい る 切ると、いつの間にか、そこの大学に入ること以外の人生が考えられなくなってくる。 嘶つまり人生はいつでも別のように変わり得るのである。ところが、ひとたび第一志望の大学 ~ 」が決まれば、人生はもはやそのように生きる以外に変わるはずのないものと思い込んでくる。 根四月になると第一志望の大学に入れなかった人の自殺の記事が新聞をにぎわす。また自殺し 悪なくても第二志望の大学に入った人が無気力になってくる。 己長いことひとつのことに感情投資をしていると、このように自由な考え方を失ってしまう。 自分の人生がもっと自由なのだということが、どうしてもわからなくなってしまう。そして自