価値 - みる会図書館


検索対象: 自分の構造
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1. 自分の構造

他の人間はを価値あると思い、はさして価値がないと思っているなどということは考え もっかない。もしそう思っている人がいれば、そう思っている人自体が程度の低い人間と信じ ることになる。 親への心理的依存の強い人間は、自分と同じ価値の序列観を持っている人のみが立派な人と 思っている。つまり、その人にとって世界とは、さまざまな価値観を持った人によって構成さ れているのではなく、正しい特定の価値観を持った人と、それ以外の程度の低い人とによって 構成されていることになる。 そして自分はその特定の価値観を持った人々、つまり自分の親と同じ価値観を持った人々、 いいかえれば自分と同じ価値観を持った人々に受け入れられなければ、生きている価値がない と感じる。 その人にとって、世界とは自分と同じ価値観を持った人々のことなのである。その人にとっ て世界は実に狭い。親への心理的依存の強い人ほど世界は狭いものである。そういう人はどん なに出世しても世界は狭い。その人にとって世界は所詮、同じ価値観を持った人々の集まりで あり、そしてその小さな世界は外にむかって閉ざされている。 自分の好きなこと、たとえば学問であれ、スポーツであれ、商売であれ、何であれ、その好 きなことをやって成功した人は、自分の世界を持っているが、その自分の世界は外にむかって 開かれている。

2. 自分の構造

ビクビクするのは、隠蔽した現実の自己と、見せようとする理想の自己とのギャップがある からであろう。 理想の自我像は当然、親によって形成されたものであろう。小さい頃、その理想の自我像を 実現することで親にほめられ、受け人れられるのである。幼児期から少年少女時代にかけて、 自分のすべてである親にどのように受け入れられるかは、子供にとって最大の問題である。 その時、自分が理想的である時のみ受け入れられていたとすると、自分が世界に受け入れら れるためには、自分は理想的でなければならないということを学ぶ。 現実の自我像と理想の自我像のギャツ。フは大きい。しかし周囲に受け入れられて人間ははじ めて生きていかれる。そのような親に育てられた子供は異常なまでに理想の自我像に執着する。 受け入れられないところの現実の自分をどうしても無価値に感じる。そしてその自分を隠す。 ら そのことによ 0 て現実のありのままの自分に対する無価値感は深刻化する。 けやがてそれは錯覚になる。他人もまた現実のありのままの自分を知ったら、自分を無価値と 受 が思うだろう、と錯覚する。そして他人も自分も同じ価値の序列観を持っていると信じてしまう ・目 ようになる。 の まが最も価値があり、次はに価値があり、その次に : : : そして最低のことが N であると信 3 じている。その価値の序列を他人も同じように信じているとその人は錯覚するのである。 あ 親への心理的依存が強ければ強いほど、この錯覚は完全なかたちでおきる。

3. 自分の構造

たのである。 ところが求婚されたとウソをついたことで、求婚されていない自分が無価値に感じられてき たのである。 そして人間はウソをつくと、 いよいよそのウソのイメージに価値をおいてしまう。彼女とて はじめから、求婚された女か、されない女か、などはさして問題にしていなかったのである。 女の価値は、もてるか、もてないかによって決まるものではないと、その女性も最初は思って いたのである。 ところがウソをつきつづけると、次第に心理的な変化が起きる。そして、いつの日か、女の 価値は、もてるか、もてないかによって決まるように感じてしまう。そしてウソをついた時か から不安と苦しみがはじまる。 る 切本当の自分を知られまいとする抑圧心理が働きだす。本当の自分は価値がないのだという劣 等感がはじまる。他人の眼を意識して長いこと、本当の自分を隠しつづけると、はじめは不安 におののいて激しい行動をするかも知れない。自分をとりつくろうことに必死になって動くか を も知れない。しかしやがて何をするのもおっくうになる時がくる。無気力である。 根 の 己不幸の流れをどこで変えるか ー目 ここにあげた三つの恋愛のケースはいずれも失敗に終わっている。 193

4. 自分の構造

神に悪い影響を与える。 そして、あまり自分と他人を比較しないことである。人間はそれぞれ違うのだから、「あの 人はどうだろう : などと思っていると、自分の個性に気がっかないことになる。他人にと ってつまらないことでも、自分には面白いことがあるのだから。 他人に自分の価値を認めさせようとしていると、自分にとって大切なものが見つからなくな ってしまう。他人に自分を印象づけようと熟慮していると、自分の感情は欺瞞に満ちてきて、 結果として自分の個性を見失うのである。 われわれは他人にすがるから、他人にすがらないと生きていけないような気持ちになる。 小さな子供は、実際自分にできることでも母親にやってもらうと、次には母親にやってもら わないといられなくなる。他人にすがって自分の価値を認めてもらおうとすると自分の感じ方 を発展させられなくなってしまう。他人にすがるのをやめて自分の感じ方を発展させていけば、 自然と自信もできてくる。他人に頼って自分の価値を証明しようとしなければ、自然と自分に とって大切なものが見えてくるのではないだろうか。 他人に頼って自分の価値を証明しようとしていると、他人はべつに自分にある感じ方を強制 しているのではないのに、自分で自分にある感じ方を強制することになる。 自分で自分を縛ってしまうのは、自分の価値を信じられないからである。自分で自分を縛れ ば縛るほど、自分が自分を嫌いになる。 ーラ 0

5. 自分の構造

スポーツで成功したからといって、学者のことを馬鹿にすることもなければ、商売をやって いる人とっきあわないわけでもない。スポーツをやっている人とっきあう時だって、何も自分 たちのつきあいが、最も格の高いっきあいだとも信じていない。 かたよった価値観を持った親に育てられ、その親への心理的依存を断ち切れない人は、どう しても世界が狭くなる。あるひとつの価値を信じ、そして他の価値を排除してしまう。自分の 信じる価値とそれ以外の価値が共存していかれない。 子供に自己不信を植えつける親 心理的依存の強い人は、親と共有した自我の理想像に執着する。そしてその理想像に現実の 自分が到達できない時、絶望してあたかも自分が理想像に到達しているかのごとく振る舞う。 ら れ頭のよい男を自我の理想像として持ちながらも、現実の自分がそこまで頭がよくない時、そ けの男は、あたかも自分がそこまで頭のよい男であるかのごとく他人にも自分にも振る舞う。そ 受 れが自分を実際以上に見せようとする、ということである。そして頭のよい男のごとく振る舞 分 おとし ・目 うことで、そこまで頭のよくない自分を心の中で貶める。結果としていよいよ自信を失う。 の ま頭のよい男のごとく振る舞いながら、現実の自分を貶め、頭のよくない男に出会うと激しく 軽蔑する。その軽蔑は自分の内面の不安を表している。 あ 頭のよい男のごとく振る舞うことで、一方で現実の自分を貶めながら、他方で、頭のよい男

6. 自分の構造

苦しくないようによそおっている人もいれば、たいして頭がよくないのに、頭がよいようによ そおっている人もいる。ほんとうは親戚に社会的地位の高い人などいないのに、いるように振 る舞ってみたり、ある有名人と親しくもないのに、親しそうによそおってみたりする人もいる。 いろいろなよそおい方があるが、とにかくつねによそおっている人がいる。こういう人はっ ねに、ほんとうの自分の内には価値がなく、価値は自分の外側にある、という前提で行動して いる人である。 一・かいし 、ようによそおうのは、頭が悪い自分には価値がないと感じるからである。ところが、 このように行動したり、いったりすればするほど、いよいよほんとうの自分には価値がないの だという劣等感を強めてしまう。 劣等感を持っている人は、すぐ他人の言葉に傷つく。他人はべつに傷つけようとしていった のではないのに、その人が勝手に、他人の言葉をかりて自分で自分を傷つけるのである。 自分が頭が悪いと劣等感を持っている人はたいてい、頭の悪い他人を馬鹿にする。しかし、 このことは同時に自分を馬鹿にすることでもあり、 いよいよ劣等感を強くする。 世界各国で翻訳されている精神分析の本に、ジョージ・ウ = イソ・ ( ーグという学者の書い た『自己創造の原則』という本がある。僕はたまたまこの本を訳したのであるが、ジョージ・ ウ = イン・ ( ーグは、人間の行動はその背後にある動機を強める、というのである。 よそおうのは、他人にどのようにか見てもらいたいからであろう。現実の生活が苦しくても ー 68

7. 自分の構造

考え方のクセがついてしまう。また、受験の雰囲気の中にいると、いつの間にか、現在を未来 のために犠牲にするのが何でもない価値観を身につけてしまう。未来の合格が目的で、現在は その手段になってしまいがちである。 ことに劣等感が強いと、現在を手段化してしまいがちである。現在を自分の劣等感の克服に のみあててしまうからである。どのような未来の成果も本人の劣等感を救うものではない。し かし劣等感を持っと未来の成果は自分を劣等感から救ってくれると錯覚し、現在を未来のため に捧げてしまう。そのように、現在を未来のために捧げれば捧げるほど劣等感は強まり、劣等 感が強まれば強まるほど、現在を手段化するという悪循環におちいってしまう。 今を大切にするためには劣等感を克服しなければならないが、それは現在を手段化して未来 の成果を求めることによってできるものではない。 劣等感を克服するためにはむしろ逆に今を大切にしようとっとめることである。 その場その場の衝動に身をまかせて、遂には退屈で、悲しい人生を送る人というのは、あま りにも現世の価値に背をむけすぎているのである。 そういう人も幸福を求めたのだろうけれども、あまりにも現世の価値に背をむけたのでは、 やはり現世の幸福に近づくことはできない。 また、そういう大快楽主義の人たちとは逆に、受験生はあまりにも現世の価値を求めすぎた のである。その結果として現在を未来の手段にしてしまったのである。 1 1 0

8. 自分の構造

自分を実際以上に見せようとする、つまり自己の隠蔽は、隠蔽してしまった自己を限りなく 卑下していく。したがって、そういう人はいつも他人に気がひけている。気がひける必要のな い時、気がひける必要のない所でも気がひけている。それは現実の自分は価値のないもの、と して隠蔽してしまったからである。しかしその隠蔽した自己を心の底の底でよく知っているの は他ならぬ自分である。他人の不当な要求にさえ「ノー」といえないという人は、このように 自己を隠蔽している人であろう。 彼は自分を隠すために他人の要求に「イエス」といっていなければならないのである。他人 にむかって常に「自分はこんなに価値があるのだそ」と示していないと不安になるのである。 自分を実際以上に見せようとしていた人たちは、まずノートとペンを持って、そこに、自分 を実際以上に見せようとしたことで、どのようなプラスが自分にあったか、箇条書きにしてみ るとよい 次にどのようなマイナスがあったか、箇条書きにしてみることである。たとえば、他人とい るといつも何かビクビクして疲れる、などということをノートに書いてみるとよい そのプラスとマイナスの二つを比べて、そのような行動がいかにくだらないか、自分の眼に はっきりさせることである。 かたよった価値観が生むもの

9. 自分の構造

を過大評価するようになる。いよいよ頭のよい男は価値があると錯覚するようになる。 いよいよ頭のよい男の価値を過大評価すれば、それが逆に現実の自分をいよいよ価値のない ものに感じさせてしまう。ありのままの自分として行動しないことは二重に自分を追い込んで いってしまう。 そして、ありのままの自分として行動することの最大の障害が、自分を隠すことによって内 面に住みついてしまった自己不信なのである。 そして、この自己不信への最初の第一歩は情緒的未成熟な親によってもたらされる。以後、 少年時代・青年時代を通じて、自分の周囲に対する態度によってこの自己不信を増殖しつづけ てきてしまう。 もちろん、すべての親が自分の子供に幼児期に自己不信の最初の第一歩をとらせてしまうわ けではない。情緒的に未成熟な親、つまり親でありながらも、自己のアイデンティティーが確 立していない親がそのような罪を犯す。つまり、最低の父親は感謝を要求する父親であり、最 ・低の母親は「ママのこと好き ? 」と聞く母親である、と = イルの言うあの親たちである。 な・せこのような親が最低の親かといえば、他人に感謝を要求する親、つまり恩きせがましい 親は、まだ自己が確立していないからである。自己が確立していないということは、内発的な ということを持っていない親 ということである。自分はこれがしたい、 感情を持っていない、 は、子供に何かしてやり、感謝されることで、自分の存在を確認しようとする。

10. 自分の構造

楽なように見せる行動をするのは、そのように見てもらいたいという動機があるからであろう。 そうすると、よそおうたびに、実は、そのよそおった動機を強めるのである。 よそおえばよそおうほど、他人から頭がいし 、と思われたい、とはげしく望むようになる。よ そおえばよそおうほど、生活が楽だと思われたくなる。よそおえばよそおうほど、自分の子供 は優秀だと思ってもらいたくなる。 これから豊かに生きようと思ったら、まず、よそおわないことである。よそおえばよそおう ほど、内心はつねにいらいらしてくる。 自信のないことが言いわけになる 第ニには、言いわけをしないことである。 る 切会うと、こちらが聞きもしないのに、 言いわけをはじめる人がいる。「うちの長男はほんと 断うは私立の〇〇小学校に入ったんですけれど、たまたま試験の日に風邪をひいてしまったもの ~ 」ですから」とか、「主人もほんとうはもう課長なんですけれど、上役がちょっとおかしな人で 根して : : : 」とか、つねに何か言いわけしている人がいる。しかし、言いわけすることは前項と 悪同様に、その人に自信を失わせる。 己つまり、言いわけすることの前提は何かといえば、今の自分の状態は価値がないと感じてい るからであろう。さきの言いわけは、まるで、課長でない主人は価値がないかのごとくに感じ