の動機をはっきり知らなければならない。 ところが、ここで問題なのは、誰でも自分の真の動機には眼をそむけたがるものであるとい うことである。本当の動機に眼をそむける、ということが無意識の問題なのである。 当の本人は、神のため、と思ってやっていることが、実は性的不満が真の動機である、とい うことだってある。 われわれは他人に対して立派そうに見せかけようとするばかりではなく、自分に対しても自 分を立派そうに見せたがるものなのである。したがって本当の動機が自分の劣等感であるのに、 他人への親切が動機であると思ったりする。 自分ではあることをやるのは責任感からと思ってやっていても、本当の動機は、他人に尊敬 なされたいという動機でやっている場合もあろう。 強 江まわりとのトラブルを生む行動の背景 てそこで大切なことは、真の動機をどうして見つけるか、ということである。 たとえば、大学である役職を引き受けることについて考えてみよう。たとえば、ある人が学 よ生担当教務主任という役職を引き受けたとする。学生のさまざまな不安・不満・要求はすべて この役職者のところに集中する。他の先生方が自分の研究に専念していたり、温泉に休養にい 他 っている時でも、毎日学生の非難を一身に受けて大学のために頑張らねばならない。六〇年代 207
ックスしていても、リラックスしなさいと他人にいわれるとすぐ緊張してしまう。それが神経 質な人なのである。 リラックスしなさい、といわれても、神経質な人にしてみれば、どうやってリラックスして 、いかわからない 試験の前に、他人からリラックスしなさい、といわれてリラックスでぎるくらいなら、誰も 試験であがったりすることはないだろう。″あがるまいと思って〃あがらないでいられる なら誰だって試験で実力を発揮できる。 ところが、神経質な人は、リラックスしようとして緊張し、実力を発揮しようとして、実力 を出しきれない。神経質な人は実力を出そう、出そうとしすぎるのであろう。 自分の本当の実力とは学力。フラス自分の人格の成熟度なのである。僕なども高校時代、実力 といえば、学力のみと思っていた。そして試験で思った通りの点がとれないと、実力が発揮で きなかった、と解釈した。 しかし今から考えるとこの考え方はおかしい。自分の日頃の実力を試験場で発揮できないと いうのも、また本人の大切な能力なのである。 ″鐘は鳴ってこそ鐘である 日頃自分よりできない仲間が試験の時、自分よりよい点をとると、自分は実力が出せなかっ
なかで能率の悪い勉強をするしかないのである。 今まであまりにも勉強しすぎたのだから、これからは十日間ぐらい遊ぼうと思うのもよし、 能率の上がらないことを覚悟のうえで机につくのもよし、それはその時々の状況によって選択 すべきことである。 最も悪いことは、コンディションが悪いのに、その悪いコンディションを受け入れる覚悟が できず、「あーあ、もっと快調だったら、もっとスッキリしていたら」とありもしないベスト コンディションを求めることである。ないものねだりとは情緒的未熟児のやることである。 スランプも実力のうちなのである。休養も練習のうちであることを忘れてはならない。 スランプの自分は何か本当の自分でないように感じている人がいるようである。決してそう んではない。快調に勉強している時の自分も本当の自分だし、スラン。フになっている時も本当の ち自分なのである。スラン。フも実力のうちであるのだから、スランプは仕方がないであろう。自 分の実力なのだから仕方がない。 る あるがままの自分を受け入れることのできる人ほど、やがて大きな仕事をする人である。 す 蘒すぐにあがってしまう人、スランプにおちいりやすい人、ウロタ工てしまう人、すぐにリラ ブックスしようとしてかえって緊張してしまう人は、自分が〃うぬ・ほれていることに気づかね ン ラ ばならない。 ス つまり、ウロタ工たり、あがったり、あせったりするのは、「本当の自分はこんなではない」 9
たのである。 ところが求婚されたとウソをついたことで、求婚されていない自分が無価値に感じられてき たのである。 そして人間はウソをつくと、 いよいよそのウソのイメージに価値をおいてしまう。彼女とて はじめから、求婚された女か、されない女か、などはさして問題にしていなかったのである。 女の価値は、もてるか、もてないかによって決まるものではないと、その女性も最初は思って いたのである。 ところがウソをつきつづけると、次第に心理的な変化が起きる。そして、いつの日か、女の 価値は、もてるか、もてないかによって決まるように感じてしまう。そしてウソをついた時か から不安と苦しみがはじまる。 る 切本当の自分を知られまいとする抑圧心理が働きだす。本当の自分は価値がないのだという劣 等感がはじまる。他人の眼を意識して長いこと、本当の自分を隠しつづけると、はじめは不安 におののいて激しい行動をするかも知れない。自分をとりつくろうことに必死になって動くか を も知れない。しかしやがて何をするのもおっくうになる時がくる。無気力である。 根 の 己不幸の流れをどこで変えるか ー目 ここにあげた三つの恋愛のケースはいずれも失敗に終わっている。 193
何のために勉強するのか サラリーマンであれば自分が働く動機を反省してみる必要がある。学生であれば自分が勉強 する動機を反省してみる必要がある。 今の大学生は一体何のために今まで勉強してきたのであろうか。 ある人々は、自分を立派そうに見せるためではなかろうか。自分を立派そうに見せる学問 ( ? ) をすればするほど、実は本当の自分はどこか冫し 本当の自分とは、ものごとに感動することのできる自分、張り切っている自分である。そう した自分から学問することでどんどんと遠ざかってしまったのではないか。 「俺たちにとって、張り切っているってことはマンガなんだよな」といった学生がいる。 たしかに燃えてる若者はマンガにしか登場しなくなったのだろう。燃えてる人間を見て「あ いつはマンガだよーとその学生はいった。 スランプを意識するほど落ちこんでいく どうすれば新しい活路が開けていくのか こ、ってしまうのである。
他人を非難しても心の苦しみは解決しない 第五には、欲求不満から他人を非難しないことである。 よく小さい子供が「お父さんは古い」とか「お母さんは時代おくれだよ」とかいって、親を 非難することがある。 こういう親への非難は、どうも日本だけではないようである。というのはアメリカの心理学 の本にもこういう表現が出てくるからである。 おそらく誰でも一度や二度、このように親を非難したことがあるかもしれない。 しかしよく考えて見ると、このように非難する時、本当の理由が″時代おくれであろうか。 実は本当の理山は他にあるのではないであろうか。本当の理由は「親に認めてもらいたいー 「もっと親にほめてもらいたかった」「自分の期待した通りの評価を親はしてくれなかった」と か、そんなことではないであろうか。 親に限らず、他人を非難する時は注意しなくてはならない。 本当は、「もっと相手に認めてもらいたかったー「自分の望むほど相手は自分を認めてくれな かった」そんなことへの怒りから、われわれは相手を非難することが多い。そして他人を非難 している時、人間はなぜか自分が無力である、という無力感から解放される。 正義漢のような顔をして社会を非難している人が、実は自分の無力感に悩んでいるなどとい うことがよく亠める。
「あの時、別れたのは、嫌いだからじゃないんだ」とか、「あの時、なぐったのは弱い者いじ 0 めじゃないんだ」とか、「あの時は本当に盗んだんじゃないんだ、とか、「あの時、怒ったのは、 自分のためではないんだ」とか、きりのないほど多くのことがある。 どうしても、これだけは認めたくないというものが人にはある。それを認めたら相手には許 してもらえないようなこと、しかもその相手を今自分が必要としている、そんなことが時に人 にはあろう。 自分がそんな汚い人間だとは、どうしても自分で思いたくない、そういう時がある。 しかし、そのように、本当の自分の姿が自分の前に明らかになってくることを拒否すれば、 悲劇は大きくなる。 人間は自分で自分を偽わって生きていたほうが、一見すると楽そうに見える。しかしそれこ そが人間を不機嫌と憂鬱に導くことではなかろうか。 自分がこれほど激しい復讐心を持っているなどとは思いたくない、あるいは自分は親を憎ん でいるなどと思いたくない。しし 、ろ、ろと思いたくないことは人間にはあろう。 誰も自分が卑怯な人間とは思いたくないし、自分がウソつきだとも思いたくない。 しかし、あの時自分が逃げたのは自分のたやではない、妻子のためだとか、あの時自分が ウソをついたのは、自分のためではなく、あいつを救うためだとか、本当の自分に直面する ことを避けると、不機嫌と憂鬱が待っているだけであろう。
次 かけ値なしの自分をみつめていくこと オイデイプス王にみる″逃げない生き方″ 運命にたちむかう強靱な意志 悲劇は何からはじまったか すべての人々の″逃げ″を背負う ″本当の自分″を認めたくない : 現実と直面する以外に活路はない ″自分の人生に何があったか″を考え直せ エピローグ・自分を直視することで道は開ける 他人に振りまわされない強い自分をつくるために 幻 2
若い女性の服を見て、「あの人、センスが悪いーなどと非難する年寄りの女性が時々いる。 そして自分の一緒にいる男性が、その若い女性としたしげに話でもしようものなら、「どう してあなたはそんなに浮気つぼいの」などとヒステリー気味になる。 こうして他人を非難している人は、その非難をしている時だけは、何か心の悩みから解放さ れたような気持ちになるものである。 しかし相手への非難が終わって一人になってみれば、非難する以前よりもっと深い無力感に、 自分の無価値感に苦しんでいるものである。 他人をどんなに非難してみたところで、実はその非難の本当の理山をさらに大きくしてしま うだけである。 カ 欲求不満から他人を非難する人は、一時的には不満が解消されても長期的には、より欲求不 る 切満になっている。非難の本当の理由が「本当は相手にもっと認めてもらいたい」のなら、非難 断のあと、もっと相手に認められたくなっている。他人を非難しても、心の苦しみは本質的には に解決しない。 根アメリカの例であるが、こんなのがある。僕の友人の精神分析医ジョージ・ウェイン・ハー 悪グが本のなかで書いていることであるが、一一十三歳の青年が電話してきた。 己彼は自分の母親を馬鹿だという。それは母親が彼の部屋の暖房器のうしろにマリファナを発 自 見して「おまえは堕落しているーとどなったからである。 ー 77
自分では自分が冷たい人間であるとウスウス気づきながらも、ヒステリー性格の人はそれ故 に、本当の自分から眼をそらそうとする。 運命を直視する、ということは、自分にとって自分が明らかになることを恐れないというこ とでもある。 自分の不幸の予感を持ちながらも、オイデイプスは、自分を底の底まで探って見せようとす る。この気魄こそが、人生の別れ路には必要であろう。 ヒステリ 1 性格の人にしてみれば、どうしても自分が冷たい人間とは思いたくないのである。 自分は心の温かい人間と思わなければ、生きていけないような気持ちになっている。それほど と自分が冷たい人間であると思うことは辛い。辛いからこそ、不自然に温かそうに見える行動を くとるのである。 て「ほら、自分はこんなに心のやさしい人ではないか」と自分に見せている。自分で自分に〃ふ つりをする。〃ふり″をするということは、自分に自分が明らかになってくることを拒否しょ をうとすることである。 、という性質、事情、事実 のおそらく多くの人にとって、どうしてもこれだけは認めたくない ながあるのではなかろうか。 け「あの時自分がああしたのは、決してそういう気持ちからではない」というようなことは多く 9 の人にあるのではなかろうか。 こ