世の中には神経質とは逆に鷹揚な人もいて、スラン。フで勉強できなくなると、アッサリと遊 び出す。そして遊んでいるうちに自分がスラン。フだということを忘れてくる。自分がスランプ だということさえも忘れて遊んでいれば、やがて気がついたらスランプは脱していて、また爽 快に勉強はできるようになっている。 要は、スランプそのものが問題なのではなく、スラン。フを苦にするか、苦にしないかが問題 なのである。スランプそのものがわれわれを苦しめるのではなく、スラン。フに対するわれわれ の反応がわれわれを苦しめるのである。 鷹揚な人が、スランプを忘れるのとは逆に、神経質な人は片時も自分がスラン。フであること を忘れない。そしてああしようか、こうしようかと心配しながら生きている。 神経質な人は、自分は神経質なんだと諦めてしまうことである。自分が男であることがどう しようもないように、自分の神経質な性質はどうしようもないのだと諦めることである。 自分が女に生まれれば女として生きていくより仕方がない。それは諦めである。しかし人間 諦めることができるためには決断ができなければならない。諦めようとして諦められない人は、 決断のできない人なのである。決断と諦めは表裏一体をなしている。それが悟りであろう。 自分が神経質なのに、なんとかして鷹揚になろうとしてもそれは無理である。神経質な人は、 その自分の神経質を生きようと決心することである。自分の神経質という苦しみと一体となっ て生きていくより仕方がないのである。ジタ・ハタしないことである。
くて入っていかれないから、いつまでたっても他人にチャホャされたいという欲求を断念でき ないのである。 未知の世界へ自分を投げだす決断こそが、欲求の断念に必要である。 つまり、〃あるがまま″になるために必要なことは、決断なのである。 新しい世界へ自分を投げ出す決断 人は決断を通してこそ、はじめて〃あるがままになれる。決断を通してあるがままにすべ てを受け入れることができる。 〃あるがままになろうとすること″は、″あるがままではなく、焦りである。それは、ある がままになることによって、救われようとしていることであり、いまだ、自分を苦しめている 欲求の断念ができていないからである。 この OQ にしてみれば、自分の自然な姿はそれほど朗らかで笑顔をたやすことのない性質で しし力ということになる。 はよい、と知って、ではどうすれま、 自然に朗らか つまり、つとめて朗らかにしていようとしなくてもいし あるがままでいい そうは思っても、なかなかそうはい にな、れ・はしし 、、、自然と笑顔になれる時笑顔になればいし カ十 / し それは自分が、朗らかに笑顔をつくっていない世界で、他人が自分にどう反応してくるかが ー 56
ない。つまり、欲しいものが手に入らない世界へ自分を投げ出す決断の必要はない。欲しいも のが手に入らない世界で、生きていく決断をする機会は一度もない。 ート・ハイを買ってくれないとすれば、オ 1 ト・ハイが欲 オ ート・ハイが欲しい、しかし今親がオ ート・ハイのない世界で生きる決断をしなければ しい自分を棄てなければならない。そして、オ ならない。 ート・ハイが欲しい、とゴネている ト・ハイが欲しい、オ 買ってもらえない時、いつまでもオー 1 ト・ハイを断念して、オ ート・ハイのない世界で新しい生き方を探していこうと 子供がいる。オ いう決断ができない子供である。 いつまでもグズグズしている子供は、甘えている子供と誰の眼にも映るであろう。しかし実 ート・ハイのことにかかずらわってゴネている甘えた子供と、不眠症の人 は、このいつまでもオ とは、心理的に共通したところがあることを知るべきである。 いずれも新しい未知の世界へ自分を投げ出していく決断ができないでいるのである。 このように甘やかされて育った人間は、欲求の断念を強いられる未知の世界へ自分を投げ出 す訓練をされていない。 そして大人になってしまう。環境は子供の時とは異なる。そうなればノイローゼになってい くしかないであろう。自分は昔の自分にしがみついているのに、自分をとりかこむ環境はどん どん変化しているのである。
いわれても、なかなかロでいうはやさしく、実行は難しい 苦悶を苦悶として受け入れられないから、ノイローゼになっているのである。誰も好ぎこの んでノイローゼになっているわけではない。 それは、「決断ができない」からなのである。欲求の断念と新しい世界への決断とは、表裏 をなしていることを理解することは大切である。 つまり、欲求を断念しよう、断念しようとしながら ( ⅱ眠れなくてもいいやと思おうとしな がら ) 欲求を断念でぎないのは、決断でぎないでいるということなのである。欲求の断念は、 どうなるかわからない次の広がりへ自分を投げかけていく決断でもある。 また、ノイローゼの本などで″あるがまま″でいい とよくいわれる。ところが、あるがま までいし といわれても、あるがままでいられないから本人は苦しんでいるのであろう。 あるがままでいいといわれて、あるがままになろうとすることは、すでに、あるがままでは ない。そこには″はからい〃の心理が働いている、と本に書いてある。 " あるがまま。になろうとした時、それはすでに " あるがまま。ではない。そうなれば、ある がままでいいといわれても、どうしていいかわからない。 ある朗らかな O がノイローゼ気味になった。 この O»-Äの朗らかさにはもともと、どこか不自然なところがあ 0 た。それは、このが女 性は朗らかでなければならない、朗らかでなければ嫌われる、と思 0 ていたからである。朗ら 巧 4
怖いからである。つまり、新しい自分に対して他人が新しい反応をする世界へ踏み出す決断が できないことである。 どんなに〃あるがまま″になろうとしても、あるがままになれるものではない。〃あるがま ま″に至るためには、・ とうしても決断を通過しなければならない。 そして、実はこの決断こそが、現実と自分との接触なのである。現実との接触、つまり生き 生きとして自分の生を感しることができることである。それまではナルシシズムの世界にいる にすぎない というのも同じである。 ノイローゼになる人間は、自己中心的な甘えを脱け切れていない、 る 出つまり、不眠症の人間が眠りたい欲求、不眠症を治したい欲求を断念できないのは、決断へ 脱の訓練ができていないからである。 ら ート・ハイを欲しがっ たとえば、小さい子供があるオモチャを欲しがったとしよう、少年がオ 地たとしよう。 の その時欲しいものは何でもすぐに買ってやる親もいるし、買ってくれない親もいる。必要に さ 空応じて買ってやる親もいる。 さて、今ここで、欲しいものは何でもすぐ買ってやる親を考えてみよう。子供からみれば、 す 欲求を断念する機会にはめぐりあわない。 つまり甘やかされて育っている子供である。 この子供は、欲しいものは何でもすぐ手に人ることによって、自分の欲求を断念することは 巧 7
分の人生がもっと可能性に満ちているのだということもわからなくなってしまう。 実は精神分裂病の患者にはこのような傾向がある。 われわれ普通の人間は、状況によって決断を延期したり、取り消したりする。そのように状 況を支配する自山な可能性を持っている。ところが分裂病患者にはこの自由が欠けている。 第二志望の大学に入ってきて、いつまでたっても、この過去のある時点での決断に支配され て、ブツ・フッ文句ばかりいっている人がいる。 「一つの人生が終われば、別の人生がはじまる」という格一言があるが、そのことがどうして も理解できない人は、いつもグチをこ・ほしている。 そうして嘆いていることの十分の一のエネルギーでも、何か積極的なことに取り組んだらと 思うのであるが、そういう人は決して新しいことに取り組まない。嘆いていることの百分の一 のエネルギーでも、もし地域の仕事にふりむけたり、今の勉強にふりむけたり、人を愛するこ とにふりむけたりしたらいいと思うのだが、嘆いている人は、嘆いていること以外にはなかな かエネルギーを使いたがらない。 それは第一志望の大学というようなものでなくても同じである。失われた愛にいつまでもか かずらわっている人もいる。 分裂病になる人は、失われた愛、本来不可能な愛の回復をめざしたりする。かっての決断に 支配されて不可能なことへ自分を強制していく。このように分裂病にならないまでも、われわ 186
睡眠薬をやめたということは、この欲求を断念したことである。欲求の断念とは、その欲求に とりこまれている自分を棄てるということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄 ててしまうということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄てるということは、 その先どうなるかわからない世界へ自分を投げ出したことである。 不眠症に苦しみつつも、不眠症を治そうとしている限り未知への恐怖はない。不眠症が治っ たら、その人生はどういう人生かその人にはわかる。しかし、それ以外の人生は、一体どんな 人生なのか見当もっかない。恐ろしいほどの困難と不快の人生かもしれない。未知の世界へむ るかって自分を投げかける決断が、つまり欲求の断念なのである。 出この不眠症の人が、睡眠薬を諦めてやめてしまったのは、欲求の断念でもあり、別の面から 脱いえば、未知の世界へむけての決断でもあったのである。 ら なぜ " あるがまま。に生きられないのか の ノイローゼでよくいわれる、森田療法というのがある。つまり、苦しいことは苦しいことと さ 空して怖いものは怖いものとして、そのまま受け入れていくより仕方がない、という方法である。 んそして、あるがままに人生を受け入れて、やるべきことをやっていくということが大切である、 うという療法である。 ただ、ノイローゼになりかかっている人間にしてみれば、苦悶は苦悶として受け入れる、と ー 53
次 目 - どんな人とっきあえばよいか マイナスになる人間関係・。フラスになる人間関係 空しさと背中あわせの孤独 他人との関係の中ではじめて″自己″がある 外に心を開かない自己防衛的な姿勢 失敗を恐れるから空しくなる 希望を捨ててはならない 小さな発見を一つずつ育てていく 他人にすがるのはやめよう 直面する困難を絶対視するからノイローゼになる な・せ″あるがまま″に生きられないのか 新しい世界へ自分を投げ出す決断 ″自分の願望の実現なしに人生はあり得ない【 青年は野望を持つべきだ、ただし : ・ 大切なのは″自分は正常だ″と思うこと 自己嫌悪の根をどこで断ち切るか ″自分が自分を嫌いになる″原因を追究する 自分をよそおうからいらいらする 自信のないことが言いわけになる ″どうせ結果はわかっているのだから″という言いわけ
かさへと彼女は強迫されていたのである。朗らかで明るい笑顔のたえない女性、という理想像 に彼女は執着していた。 この時、この人に、″あるがまま第でいいといってみても、この O はどうやって、あるが ままにしていいかわからないであろう。 この 0 »-a はもともと、無理して朗らかにしているのである。あるがままの朗らかさではない。 朗らかでいようというはからいの気持ちで朗らかにしているから、表面は朗らかでも内心は辛 くてしようがない る この O*-Äが、あるがままになれないのは、もともと、他人に好かれたいという気持ちが強い 出からであろう。他人に愛されるためには朗らかでなければならない。そう思ってっとめて朗ら 脱かにしている。 ら かあるがままとは、つとめなくてよい ということである。朗らかにしていなければ愛されな 地 、と信じている人に、あるがままになれ、といっても無理である。 の もちろん、この O J--Äもっとめて朗らかにしている以上辛い。そこで、できればもっと気が楽 さ 空になりたい。 、よ あるがままになれないのは、欲求が断念できないからである。他人にチャホャされたい、と す う欲求が断念できないからである。欲求が断念できないのは、決断できないからである。 他人にチャホャされない新しい世界、この o= にとっては未知の世界、その未知の世界に怖 ー 55
″自分の願望の実現なしに人生はあり得ない〃 さて、さきに情緒的に未成熟な人間 ( 神経質な人 ) は自分のさらされている苦しみを絶対 的なものとしてしまうと述べた。自分が胃の病気になれば、この世で最も苦しいのは胃の病気 るだと思う。それほどまでに苦しみは主観的なのである。頭痛に悩まされれば、私のこの苦しみ 出は味わった人でなければわからない、と例によって自分のさらされている苦しみを主観的にと 脱らえて絶対化してしまう。 ら 情緒的に未成熟な人は客観的にみれば何でもない苦しみにさらされながらも、自分ほど苦し 地い人はいないと主張する。ひどいのになれば、この世で苦しいのは自分一人であるということ のさえ主張しかねない。 このように、自分のさらされている苦しみを相対化、客観化できないの しは、未知の世界へと自分を投げる決断ができないからだと述べた。 扣さて、今ここにおいて自分のさらされている苦しみを相対化、客観化できないものは、同じ うように自分をとりこにしている欲求を相対化、客観化することもできない。 たとえば、自分は〇〇大学に入りたいという欲求を持つ、あるいは、自分は〇〇会社に就職 ノイローゼになる人間が自己中心的な甘えを脱け切っていないということは、甘えた子供は 小さい頃から欲求の断念と、新しい世界へ自分を投げ出す訓練をされていないということであ る。 ーラ 9