自分の自己中心性には気づかなかった。つまり、息子は幼い頃から親父が怖くて仕方がなかっ たからノイローゼになったのである。 父が帰る時間頃になると、緊張して「いっ玄関のベルがなるか ? 」と身構えていたのである。 そしてベルが鳴ると、脱兎のごとく玄関に走っていき、おみやげを見ては「ウアー」といって 飛び上がった。 夏になると家族旅行に出かけた。しかし、それも動機は同じである。父親が「旅行に行く か ? 」とその息子に聞けば、やはり飛び上がって喜んで家の中を走らないと、その父親は猛烈 に不機嫌になって、何日も口をきかなかったり、家の中でまた物を投げたりした、という。そ こで、その子は、いつもその父親の言葉で飛び上がって家の中を走った。 つまり、この父親にして見れば、同僚と酒も飲まずみやげを買って帰り、夏には家族旅行し ているのだから、自分で自分を立派な父親と思っても不思議はなし尸。 、。題よ動機である。 最低の父親は自分が最低であると自覚していないが、最悪の父親は自分が最悪であることを 知っている。最悪の父親とはつまり、飲んべえで、家に金もいれないで競輪や競馬ばかりやっ ている父親である。 最低の父親は、自分が自己中心的な甘えを持っていても気がっかない。それほど自分の自己 中心性には気づきにくいものである。 自分が自己中心的な甘えを持った人間であるかどうかは、自分の行動ではなく、自分の行動 206
思っているーという自分と他人への″ふり〃であったのであろう。そして、交通事故に対する ″正義の怒りの″ふり″であったのであろう。 自分が冷たい心であればあるほど、自分に対して温かい人間の〃ふり〃をする人もいる。そ の人もそうであったろう。弟の死には平気なくせに、ある時弟が病気になったら不必要なほど 看病した。医者がその必要はないというのに、講義は休み、夜中も起きていた。 ところが、それからしばらくは、今度は一年に一回も見舞いに行かなくなり、遂に病死する まで病院に行かなかった。この人のすべての行為は、自分と他人への〃ふりなのである。っ まり、自己中心性の甘えの自覚はきわめて難しい この人にしても、「自分は自己中心的ではない。見知らぬ学生の : : : ーとか「弟が病気になっ なた時は : : : 」とか思えるし、他人にもそう見える。 強 て 自分の行動の動機をはっきり知る て 親切や思いやりの心というのは、情緒の成熟をまって出てくるものだろうが、自己中心性は っ なかなか表面の行動では本人にも他人にも理解できない。 よさきに述べた父親についても同じである。子供におみやげを持って帰る父親なのである。行 ん動を見る限りよい父親である。実際この父親は「俺くらいよい親父はいない」というのがロぐ 5 せであったという。したがって、自分の息子がノイローゼになって精神病院に入っても、まだ
とがあるだろうか、と思うだろう。 今までもこの海の潮音はあった。垣根の花は咲いていた。道ばたで無邪気に遊んでいた可愛 い子どもはいた。お互いにかばいあって生きてきた隣人たちがいた。しかし、それをしみじみ と感じたことが一度だってあったろうか、とその人は思う。その時、自分の今までの人生の貧 しさを彼らは知るにちがいない。 こんなにまでかたよった価値観をうえつけた自分の親に対する憎しみを、その時はじめて感 じるに違いない 小学校以来、ただひとつの価値観を教え込まれて生きてきた自分。塾に通い、少しでもいい 高校へ、そして少しでもいい大学から、少しでもいい企業へと、追いたてられてきた自分。そ してそんな貧しい自分であったからこそ、人間関係もギスギスしていたのではなかったか、と 気づいた時、今までの自分の人生の貧しさに驚くに違いない。 そしてそれほどまでに自分の人生を貧しくしたのは一体誰か、その時子は親を憎む。 もちろんこの逆のケースもある。 一切の競争を否定し、こんな世で出世するのはくだらないのだ、馬鹿なのだ、卑しい人間な のだと徹底的に教育されて育った子も、また、いつの日か親を恨むに違いない。 まえにも触れたが、最低の父親は子に感謝を要求する父親だという。また最低の母親は子に 「ママのこと好き ? 」と聞く母親だという。
楽しいことなのか、自分の意見を持っことで、こんなに生きることが確実に感じられるのか、 と驚くかもしれない。 今までは、とにかく他人の顔を見て手を上げてきたのに、ふとしたことで自分の意見を持っ たとき、いままで味わったことのない異質の喜びが胸に湧いてくるのを感じる。そのような喜 びは、どんなに小さくても大切に育てなければならないであろう。その小さな喜びをきっかけ にして、人は少しずつ変わっていくかもしれない。 三十歳までに人生のすべての喜びや悲しみを味わいつくした、などということはけっしてあ るまい。希望を捨てたときが人生の終わりなのである。希望を捨てたとき、地獄の門に入った と思わねばなるまい 動物のなかには、動物園に入れることはできても、繁殖しなくなる動物がいるという。また、 自由なときはおとなしいのに、動物園に入れると乱暴になる動物がいるという。われわれ人間 だって、自分の欲望から性質まで、ある程度は環境によってつくられていよう。専制的な父親 に育てられたから、強度のナルシシストの母親に育てられたから、受験一辺倒の高校で勉強し たから : ・ なにかいろいろな今までの人生のなかで、自分はつくられてきたのである。専制 的な父親への反応、ナルシシストの母親への反応、受験への反応、さまざまなことに自分なり に反応して、自分をつくりあげてきた。しかし、それはあくまでつくりあげてきたのであって、 その自分は運命的に決定されているわけではない。
を過大評価するようになる。いよいよ頭のよい男は価値があると錯覚するようになる。 いよいよ頭のよい男の価値を過大評価すれば、それが逆に現実の自分をいよいよ価値のない ものに感じさせてしまう。ありのままの自分として行動しないことは二重に自分を追い込んで いってしまう。 そして、ありのままの自分として行動することの最大の障害が、自分を隠すことによって内 面に住みついてしまった自己不信なのである。 そして、この自己不信への最初の第一歩は情緒的未成熟な親によってもたらされる。以後、 少年時代・青年時代を通じて、自分の周囲に対する態度によってこの自己不信を増殖しつづけ てきてしまう。 もちろん、すべての親が自分の子供に幼児期に自己不信の最初の第一歩をとらせてしまうわ けではない。情緒的に未成熟な親、つまり親でありながらも、自己のアイデンティティーが確 立していない親がそのような罪を犯す。つまり、最低の父親は感謝を要求する父親であり、最 ・低の母親は「ママのこと好き ? 」と聞く母親である、と = イルの言うあの親たちである。 な・せこのような親が最低の親かといえば、他人に感謝を要求する親、つまり恩きせがましい 親は、まだ自己が確立していないからである。自己が確立していないということは、内発的な ということを持っていない親 ということである。自分はこれがしたい、 感情を持っていない、 は、子供に何かしてやり、感謝されることで、自分の存在を確認しようとする。
えられなければならない。その感じを失うと不機嫌になるのである。 そのような弱い自我の持ち主と共に生活している子供は、たえず父親の不機嫌の脅威にさら されている。 いつ「旅行に連れていって下さい」といい出すべきか、そのタイミングを常にうかがってい なければならない。父親が家に帰ってきた時、どう行動したらよいのか、何をいったらよいの か、たえず準備をしていなければならない。 父親が家の仕事をはじめたら、何をおいてもすっとんでいって手伝わなければいけない。し かも「こんなことにも気がっかなくてスイマセン」とあやまらなければならない。仕事が終わ れば、「住みやすくなって、ありがとうございますーといわなければならない。 たえず父親に、自分は皆のために生きているという実感を持たせなければならない。その実 感こそが不機嫌が噴出してくるのをふせぐ感情だからである。 実は父親が生きる実感を持っために子供が犠牲になっているのであるが、それが表面にはま ったく逆になって表れていることが必要なのである。父親は家族のために自分が犠牲になって いると感じることで、自分の生存を確かめているのである。 生きることだけで疲れる人間 子供はこのように不機嫌な父親の犠牲になった時、自発性の欠如、自立性の欠如、自然性の
赤の他人といる時にはかすかに感じることができていた自分の存在も、近い人が現れること によって一挙に消失してしまう。自分の存在に対する手ざわりの実感を失った時、生きている 手がかりを失って不愉快になる。 なぜ若者は自立できないのか さて、このように他人の行動に無頓着でいられない父親を中心にした家族を考えると、どう なるだろうか。 当然、子供は心の隅から隅まで干渉されることになる。家族の箸の上げおろしにまで自分の 感情の・ハランスを失う父親がいるということは、逆にいえば、箸の上げおろしまで干渉される まということである。 し て妻子の些細な言動によっても、自分の存在の基盤が危機にさらされるほど自我の弱い父親を な中心にして営まれる家庭生活というのは地獄である。 気父親はなにかを一人でやることができない。もちろん肉体的にはなにかを一人でやることが できる。しかし、そのように弱い自我は、何かを自分からやった時、やったあとで何ともいえ こない空しさを感じる。自分から何かを一人でやった時、そこに決定的な何かが欠けているので 人ある。 他 最も大切な何かを、自分から一人でやったことに対しては感じることができない。
だからこそ、〃何々をしてやった 4 という恩きせがましい行動しかとれないのである。他人 から頼まれてやったことは〃してやったということによって何かを感じることができる。 しかし、自分から一人でやったことは何か決定的なものが欠けているのである。だからこそ、 弓い立場の妻子に何かを頼ませて、そのうえで〃やってやる当ことになる。そうすれば同じこ とを行っても、決定的な何かが欠けているという空虚感を味あわなくてすむ。 すぐに不機嫌になる人は、何をするにも行動の動機づけを自分自身の中に求めることができ 何かをやって困難があると、その困難にみあう他人の反応を必要とする。そして、えてして その反応を弱い立場のものに求めがちである。だからこそ、自我の弱い未成熟な父親のもとに 育った子供は、自立性を獲得することが困難なのである。 たえず親の顔色をうかがう子供 今まで述べたことでわかるように、 このように不機嫌な親を持った子供は、内面のあり方か ら些細な行動の仕方にいたるまで、あらゆることが、自分の父親の機嫌をそこねることを感じ とる。しかも、その父親は自分の生殺与奪の権を握っている。 自分の些細な行動が予期しない父親の不機嫌さを引き出すことを知った子供は、もはや自分 の中にある自然なものを発展させることができなくなる。たえず自分の言動をチェックし、父
親の機嫌をそこねないように用心深く行動するようになる。 子供にとって悲劇は、行動の自然性の喪失である。あらゆる安定した日常性の喪失である。 つまり、どのように日常的なことであっても、ほんのちょっとした気のゆるみから態度がぞん ざいにでもなれば、たちまち父親は不機嫌になってくる。 子供は自分の内面の欲求から、些細な言動にいたるまで、全神経を集中して自分を検閲しな ければならなくなる。なにもかもが不自然になり意識的になる。 同時に、子供は自分のうちに自発性を発展させることはできなくなる。自発的に自分のため に何かをするなどというぜいたくは許されない。 まずしなければならないことは、自分の父親を喜ばすことである。自分の生存の生殺与奪の ま権を握る父親が、自分で自分を支えられないでいるのである。 て子供が意識してまずはじめることは、父親のできることを、頼むことである。そして感謝の 念を大袈裟に、しかも上手に示すことである。大袈裟にやりながらも、決して大袈裟であるこ に 気とを悟らせないように、細心の注意をはらって感謝の念を示す。 渤子供は自然に存在しているところの自分を信頼できなくなる。自然に存在しているところの こ自分を信頼できてはじめて自発性も生まれてこよう。自然な行為のくり返しから生まれる自明 人性もまた、子供は獲得することができない。 すぐに不機嫌になるほど弱い自我の持ち主というのは、たえず他人から生きている感じを与 4
″依存型人間〃が不機嫌になるとき 他者の動きによって自分の感情の・ ( ランスを失う者は、他者の動きに要求が多い。その要求 をできるのは自分より弱、 し立場にいる者である。 他者の一挙一動が自分の感情を混乱させる、ということは、弱い立場の他者に対しては、一 挙一動にいたるまで要求が出てくる、ということであろう。 そして、自分の感情を混乱させた責任はあげて他者にある、と信じている。 「君が本気でこんなことをするから . と妻や恋人や部下にむかって自分の不機嫌の原因を押し つける。そうなれば妻子や恋人や部下は、自分に自分の存在を確認させてくれるような行動を 常にしていなければならない。 たとえば、家族の者はさきの旅行のような時であれば、むしろ行きたいのは父親ではなくて、 自分たちである、という言動を父親にむかって大袈裟にしなければならない。その家族の言動 によって父親は自分の存在を確認できるのである。 〃してやる〃とか〃してもらう〃とかいうことによってしか、自分の存在を感じることができ ない人間は、「そんなに君らが望むならつれていってやろう、という恩きせがましい言動で、 自分が生きているという実感を持てる。恩きせがましくなるのは、内発的感情を持てない人間 にしてみれば、恩きせがましい行動ほど自分の存在を実感させてくれるものが他にないからで ある。