大切なのは″自分は正常だ〃と思うこと ところで、自分の苦しみや欲望を相対化するということを別の面から表現すると、自分は正 常である、と思うことなのである。 たとえば、何か悩みごとがあって眠られない時、自分だけが悩んで眠れないと思う人がいる。 つまり、苦しみを相対化できない人である。しかし、悩んでいる時は誰だって眠れないのであ る。眠れない夜を過ごすのは何も自分一人ではない。 何もこの世の中で自分一人が苦しめられているということはない。悩みごとのある時、心配 ごとのある時、眠れないからといって自分が特別な不眠症の人間ではない。 「自分は今夜、心配ごとで眠れなかった、しかし自分は正常である」 自分の苦しみを相対化できる人は、このように思う。 自分を苦しめているのは、眠れないという事実ではない。眠れないという事実を自分が不眠 症であると解釈したことによって苦しんでいるのである。 眠れないという事実を、「どうして俺は眠れないんだろうーと歪んで解釈しようとすること で苦しんでいるのである。どうして俺は眠れないんだろう、といったって、悩んでいる時は誰 だって眠れないのである。 眠れないという事実に「どうして俺は眠れないんだろうーという反応の仕方をするから苦し むのである。眠れないという事実に「自分は正常であるーと反応すれば、それほど不必要に苦
″自分の願望の実現なしに人生はあり得ない〃 さて、さきに情緒的に未成熟な人間 ( 神経質な人 ) は自分のさらされている苦しみを絶対 的なものとしてしまうと述べた。自分が胃の病気になれば、この世で最も苦しいのは胃の病気 るだと思う。それほどまでに苦しみは主観的なのである。頭痛に悩まされれば、私のこの苦しみ 出は味わった人でなければわからない、と例によって自分のさらされている苦しみを主観的にと 脱らえて絶対化してしまう。 ら 情緒的に未成熟な人は客観的にみれば何でもない苦しみにさらされながらも、自分ほど苦し 地い人はいないと主張する。ひどいのになれば、この世で苦しいのは自分一人であるということ のさえ主張しかねない。 このように、自分のさらされている苦しみを相対化、客観化できないの しは、未知の世界へと自分を投げる決断ができないからだと述べた。 扣さて、今ここにおいて自分のさらされている苦しみを相対化、客観化できないものは、同じ うように自分をとりこにしている欲求を相対化、客観化することもできない。 たとえば、自分は〇〇大学に入りたいという欲求を持つ、あるいは、自分は〇〇会社に就職 ノイローゼになる人間が自己中心的な甘えを脱け切っていないということは、甘えた子供は 小さい頃から欲求の断念と、新しい世界へ自分を投げ出す訓練をされていないということであ る。 ーラ 9
心に葛藤を持つ人は、実は内面においては囚われの人である。自分の意志に従って動けず、 自分の主人の意志に従って動く奴隷と同じであろう。現実の奴隷と違うのは、ただ、その主人 を内面化しているというだけの話である。その主人は、時に母であることもあろう。 自分の夫への期待を捨てて、自分の子供の社会的成功にすべての期待をかけた母がいたとし よう。やがてその子供はその母の期待を内面化して成功へむかって努力をはじめる。 その時その子は、自分の人生に自分は何を期待したらよいのかわからなくなる。自分の人生 でありながら自分はどこにもいない。 母に気にいられること、母とともにいることが最大の喜びである者は、心の葛藤を逃れるこ とはできない。その人にとって母を悲しませることは最大の悲しみであり、母から嫌われるこ とが最大の恐怖となる。 この恐怖こそ、その人をして何物とも出会うことを不可能にしてしまう。 自分の人生に自分が期待して何が悪い。自分の人生に何を期待するかは、自分で決めること なのである。 経験の非一貫性に苦しむ人は、自分の内面の主人にそむくことがまず第一である。それなく して苦しみからの解放はあり得ない。 自分が自分を好きになるということ ロ 6
したいという欲求を持つ、あるいは自分は何歳までに部長になりたいという欲求を持つ、ある : このように、オ いは自分は別荘を持ちたいという欲求を持っ : ート・ハイから別荘まで、さま ざまな成功への欲求を持つ。 そして情緒的に未成熟な人間は、その欲求の実現なくして、生きていくことはできないと思 ってしまう。つまり、自分の欲求を相対化、客観化できない。 不眠症で苦しむ人間は、この苦しみがある限り生きていけないように感じて、何とかして不 眠症を治そうとする。つまり、今ここにおける自分の苦しみを相対化、客観化できない。 不眠症であるなら、このさき生きていけないように感じるのは、自分の苦しみを主観的にと らえ、絶対化していることである。自分の苦しみを相対化、客観化できていないことである。 逆の欲求についても同じである。オ 、としても、 ート・ハイを欲しいという欲求を持つのはいし べつにオ ート・ ( イのない青春があり得ないわけではない。しかし、情緒的に未成熟な人間は、 オ ート・、イが欲しいと思うと、オ ート・ハイなしの青春はあり得ないと主張する。 べつにルイ・ヴィトンのハンドバッグを持って銀座を歩くことだけが人生ではない。しかし、 ルイ・ヴィトンのハンドバッグが欲しい、と願う虚栄心の強いは、銀座にある会社に勤め て、ルイ・ヴィトンの ( ンド・ ( ッグを持たなければ人生でないように思う。それでなければ生 きている意味がないと思う。つまり、自分の欲求を相対化、客観化できないのである。 人間はさまざまな欲求を持つ。しかし、その欲求の実現なしに他の人生はあり得ないわけで 160
困難をひとつずつ解決していく 情緒的に成熟した者は一挙に物事を解決しようとはしない。ひとつずつ解決していこうとす る。ひとつずつ眼の前の困難を除去しようとする。 情緒的に未成熟な者が一挙に物事を解決しようとするのは、「今という時。に落ち着いてい られないからである。現在に安住できず、内面からたえずせかされているからである。現実が あまりに脅迫的であって辛くて仕方がない。だからこそ、この苦しみから一気に脱出したいと 願う。だからこそ直面する困難をひとつずつ解決していくことができない。 情緒的に未成熟な者は一挙に困難を解決しようとするか、その困難から逃げるか、どちらか である。 深い劣等感を持つ者は、あまりにも苦しいから、 " 少しずつ。ということができない。 に自分を救 0 てくれるものを求める。それがない時絶望する。そして投げやりとなり無気力と なっていく。
圄欲望、苦痛を相対化すること 直面する困難を絶対視するからノイローゼになる たしか森田正馬の話であったと思うが、ある人が、大学の頃、不眠症にかかりいっこうに眠 れない。遂に病院に入院したが、それでも治らない。どんなに立派な睡眠薬を飲んでも駄目だ った、という。 諦めて会社に就職した。もちろんそれでも治らない。医学的に見てもらっても治らないとい るう事実は、その人にはショックだった。そして、どうせ駄目なんだからと、睡眠薬は飲まなく 出なってしまったという。 脱そして、これではどうしようもない、一生不眠症でいくより仕方がない、と諦めた時から眠 れるようになったという。 ところで、この人について少し考えてみよう。おそらく不眠症といわれる人の治り方として のは一般的なことだと思う。 空不眠症に苦しんでいる人は、自分の苦しみを絶対のもののように思っている。だいたいにお 扣いて情緒的に未成熟な人間は、自分の直面している困難を絶対的なものとして体験する。つま うりこの場合でいえば、不眠症である限り生きていけないように思っているということである。 ある良家のお嬢さんがわがままほうだいに暮らしていた。突然両親を失って働きに出たけれ
若い女性の服を見て、「あの人、センスが悪いーなどと非難する年寄りの女性が時々いる。 そして自分の一緒にいる男性が、その若い女性としたしげに話でもしようものなら、「どう してあなたはそんなに浮気つぼいの」などとヒステリー気味になる。 こうして他人を非難している人は、その非難をしている時だけは、何か心の悩みから解放さ れたような気持ちになるものである。 しかし相手への非難が終わって一人になってみれば、非難する以前よりもっと深い無力感に、 自分の無価値感に苦しんでいるものである。 他人をどんなに非難してみたところで、実はその非難の本当の理山をさらに大きくしてしま うだけである。 カ 欲求不満から他人を非難する人は、一時的には不満が解消されても長期的には、より欲求不 る 切満になっている。非難の本当の理由が「本当は相手にもっと認めてもらいたい」のなら、非難 断のあと、もっと相手に認められたくなっている。他人を非難しても、心の苦しみは本質的には に解決しない。 根アメリカの例であるが、こんなのがある。僕の友人の精神分析医ジョージ・ウェイン・ハー 悪グが本のなかで書いていることであるが、一一十三歳の青年が電話してきた。 己彼は自分の母親を馬鹿だという。それは母親が彼の部屋の暖房器のうしろにマリファナを発 自 見して「おまえは堕落しているーとどなったからである。 ー 77
睡眠薬をやめたということは、この欲求を断念したことである。欲求の断念とは、その欲求に とりこまれている自分を棄てるということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄 ててしまうということである。その欲求を離れては考えられない自分を棄てるということは、 その先どうなるかわからない世界へ自分を投げ出したことである。 不眠症に苦しみつつも、不眠症を治そうとしている限り未知への恐怖はない。不眠症が治っ たら、その人生はどういう人生かその人にはわかる。しかし、それ以外の人生は、一体どんな 人生なのか見当もっかない。恐ろしいほどの困難と不快の人生かもしれない。未知の世界へむ るかって自分を投げかける決断が、つまり欲求の断念なのである。 出この不眠症の人が、睡眠薬を諦めてやめてしまったのは、欲求の断念でもあり、別の面から 脱いえば、未知の世界へむけての決断でもあったのである。 ら なぜ " あるがまま。に生きられないのか の ノイローゼでよくいわれる、森田療法というのがある。つまり、苦しいことは苦しいことと さ 空して怖いものは怖いものとして、そのまま受け入れていくより仕方がない、という方法である。 んそして、あるがままに人生を受け入れて、やるべきことをやっていくということが大切である、 うという療法である。 ただ、ノイローゼになりかかっている人間にしてみれば、苦悶は苦悶として受け入れる、と ー 53
しむことはない。 人間は事実によって苦しめられるのではなく、事実を解釈する仕方によって苦しめられるの である。つまり、自分で自分を苦しめているにすぎない。 自分は心配ごとがあると眠れない、自分は緊張すると食欲がなくなる、それらの自分につい ての事実を歪んで解釈しないこと。「自分は正常である」という解釈をすることである。 誰だって緊張すれば食欲がなくなる。吐き気はする。吐き気がしたからといって「あーあ、 私はどうして : : : 」などと解釈しないことである。 る なかには「やつばり私は駄目な人間なんだ」と恐ろしくとっぴな解釈をする。そして、その 出解釈の結果、自分の劣等感を深め苦しむことになる。 脱もっとも、「自分は正常である」という解釈をしない人は、反省すべき点がある。第一に欲 張りのところがある。そういう人は他人と同じでは満足できないところがある。そういう自分 地の傾向が、苦しい事実に直面すると、歪んだ解釈を生みだしてくるのである。 の 人は自分の本来の傾向を発展させていなかったりすると、どうしても欲張りになったり、他 さ 空人と同じでは満足できなくなる。自分の本来の傾向を発展させるかわりに、他人と変わったこ とをやることで代理の満足を得ている者は、苦しい事実に直面した時、日頃の行動の結果とし うて「私は正常である」という解釈がしにくくなっている。 眠れない夜を持った時、「自分は正常である」と解釈しようとすることである。そしてつい 16 ラ
悟るということは、そうした意味で決して消極的なことではない。それよりも自分から去っ 冫しつまでも固執してクョクョしていることこそ、消 ていった恋人、入れなかった第一志望こ、、 極的なことである。あれこれ、いつまでひねくりまわしていても苦しさは増すばかりであろう。 無限に広がる未来の可能性を持ちながら、何をわざわざ苦しむのだろう。 ″他人の同情なしには生きていけない″ 第八には、いたずらに周囲の同情を得ようとしないことである。 時々、異常と思えるほど謙虚な人がいる。何をいうにも、何をやるにも、先ず「私なんか : といってからでないとはじまらない。通常なら自分の劣ったところを隠すのに、かえって と必要以上に、自分の家の貧しさを強 それを誇示する。「私のような貧しい家の者には : 調したりする。これを第二次劣等感という。 僕はこの第二次劣等感を持っている人は、他人からの同情を得ることだけが喜びになってし まっている人だと思う。 小さい頃、病気になると、健康な時と違ってたいていのわがままは通ってしまう。皆が、い 。その上、大切 つもより自分には気を遣ってくれる。辛いこと、嫌なことは何もしなくていい にされる。それは実に気分のいいものである。 しかし、その気分のよさは成長していく喜びではなく、退行していく生気のない喜びである。 8