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検索対象: 超バカの壁
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1. 超バカの壁

のときの都合で表現は変えても構わないのです。いちいち「自分は自分である」「俺は 区別がはっきりしているからこ 俺である」ということを一言葉で明確にしなくてもいい そ、言葉は問題ではない。だから両方の言い方ができる。 これはおそらく西洋人には通じない感覚でしよう。彼らにとっては意識的な自己だけ が自己なのですから。だからいかなるときも「—」が言葉として出てくる。日本語の文 章や会話ではいちいち「私は貴方を愛しています」というように主語を入れたりはしま せん。「愛しています」で済みます。しかし、英語では必ずコ love you 」と主語を入 れるのです。 無意識の本質的確信 「無意識の本質的確信」というと難しそうですが、そういうことは他にもあります。 『日本の無思想』 ( 加藤典洋著・平凡社新書 ) という本にこんなことが書いてありました。 ある政治家の問題発言をきっかけに加藤氏は「本音」という単語を国語辞典で調べてみ た。すると何と辞書によって、百八十度定義が違うことがわかった。 8 3

2. 超バカの壁

はずです。 その考えのもとには、肉体は自己ではないという思い込みがあります。これはキリス ト教の世界、心身一一元論の立場からすれば当然です。心身を分離して、心のほうだけが 自分だという考え方です。 肉体はいずれ滅びます。霊魂の不滅を前提にすると、肉体を自己と考えるのは具合が 悪い。それが自己のはずがない。だから小指を落としたらその分肉体は減るのだけれど も「私自身」が減るわけではないと考える。これがキリスト教に代表される西洋人の自 己についての考え方です。 しかしこ、つ尋ねたら彼らはど、つ答えるのでしよ、つか 「小指を切り落としても自分は自分なのはよくわかった。では小指の大きさ分の脳みそ を切りとったらどうなるんですか。そうすればたちまち自己は変わってしまうのではな いのですか」 そもそも自分というもののとらえ方が西洋人と日本人とでは違います。かっての日本 人と明治以降の日本人は違うといってもいいでしよう。つまり本来は西洋人の「」と

3. 超バカの壁

震災と戦争の ( 心的外傷後ストレス傷害 ) という一言葉が入ってきて特に、いのケアというよノ うな考え方が広がった。ある人が、神戸の地震とこの前の戦争とでほとんど同じような 災害をこうむっているが、今度の震災のほうが心の傷が重かったと述べていました。戦 争はだれかのせいに出来た、東条が悪い、アメリカが悪いと一一一一口えたわけだけれども、震 災はだれのせいにもできない、それが逆に心の傷につながるのだと書いていた。怒りの やり場がないから傷が残るという説です。 これを読んで違和感を覚えました。日本人は、阪神淡路大震災以前にも頻繁に地震や 噴火の被害を受けてきました。そこから「仕方がない」と諦めて「水に流す . というこ とを覚えたのです。 仮に戦争よりも阪神淡路大震災のときの方が被害者の心の傷が大きかったとしたら、 そういう伝統的な考え方が変わってきたのかもしれません。それはつまり都市化が進ん だことと関係があります。都市の人間は、物事を人のせいにしなくてはおさまらないも のなのです。都市は人間が作ったものですから、そこで具合が悪いことが起これば、だ

4. 超バカの壁

だから、逆に外部の宗教団体に預けておくのが一番安全なのです。なぜならば何か不 都合があれば、お金がないから行事をやめると教授会で決めればおしまいになる。これ がまさに政教分離でしよう。 せつかく穏便な形で外部の施設で追悼をしているのです。それなのに「無宗教ーの墓 地を作るとい、つのは考えが足りな過ぎるよと言いたくなった。 大学に抗議が来た当時は、首長がお寺でやる葬式に出ることすら遠慮したような時代 でした。差別問題と結びついてそういうくだらない運動をする人たちがいたのです。 その連中から投書が来たせいで、いわば「東大の靖国問題」が生じた。だから、「お れの目の黒いうちは今までどおりでやる」と私は結論を出しました。 ですから靖国神社の問題で、無宗教の施設を作るという今の考え方には賛成できない のです。新聞の記事でも「無宗教の施設に参拝する」という表現があります。無宗教の 施設に「参拝する」ことはできません。 それは美術館に参拝するというのと同じことでしよう。入場や観光はできても参拝は できない。この議論一つとってもいかに日本人は宗教音痴かがわかるでしよう。 114

5. 超バカの壁

う研究はその意味で重要なのです。これだけ一般化したテレビというものについての、 そ、つい、つ研究がなかったこと自体が信じられないくらいです。 すでにテレビが登場して五十年です。影響ということでいえば、俗悪番組が悪い、暴 カ描写が悪いといったことはよく言われています。しかし、実証的なデータがありませ これが悪いと言ったところでそんなも んし、基礎研究もなかった。それであれが悪い、 のは印象批評に過ぎません。まったく実証的ではない。 ではこれを実証的に調査しようとすると何がわかるか。その研究には莫大なお金と手 間かかかって大変だということがすぐにわかる。 一種の社会システムにかかわる研究です。システムをまともに研究しようとすると大 題変なことになる。きちんとデータを取ろうとすると要素が多過ぎる。調査といっても子 の供のいる家庭に、何時間、どんな番組を見ているかということや、その他の生活習慣な テ どを細かく継続的に聞いていくだけです。それを長期間、同じ子供について調査する。 ス シ こういう研究をするというと、お金も手間もかかるからきちんとした結論が出なくて 5 は役に立ちませんよというのが一般的な意見です。たとえばテレビを長時間見ている子

6. 超バカの壁

世襲のすすめ そもそも仕事は世襲でもいいのです。世襲というものは一時期、悪の権化みたいに言 われていました。封建的だとか何だとかいう批判です。でも小泉純一郎首相も三代目で すが、世襲を理由にはあまり批判されません。 医者の世界でも三代目なんてケースは珍しくありません。要するに地盤、看板が必要 な職業は世襲にならざるをえない面があるのです。「先代が死んだからもう病院を閉め ます。さようなら」では、地域が困ります。世襲ならば設備などのハードの面をスムー ズに引き継げます。 その代わり子供が幼いときから職業のことをたたき込むのです。もしも子供がいない か、出来が悪ければ、外から才能のあるやつを引き抜いて養子にすればいい。 日本の社 抛会はそうして維持されてきたのです。ある時期までは養子縁組が非常に頻繁に行われて きら 者いました。忠臣蔵でなぜ上杉家が吉良家の助つ人で出てくるか。吉良の長男を上杉家が 若 養子にするといった縁があったからです。 ささめゆき むこ 谷崎潤一郎の『細雪』のように家に娘しかいなければ、出来のいい婿を連れてきて跡 2

7. 超バカの壁

よ + なよ すると役所の返事は「これは甚だ異例の葬儀だ。まずは世間並みの葬儀を一度やれ。 というものだった。要するに葬儀を二度や あとは、本人の言ったとおりにすればよい れと言った。これもしつかり「公」と「私」を分けていることのあらわれです。江戸の 人が封建的で「個」がないなんて言ったのはだれだ、近代人は本居宣長ほどの自我も持 っていないではないか、というのが小林秀雄が書きたかったことだと思います。 近代人は、江戸時代の人なんかよりも自分のほうが自由だと思っています。実際には 会社に縛られて、組織の中にすつほり埋め込まれていても、幸せだと思っている。本居 宣長が聞いたら笑うでしよう。実はそこは今の人のほうがよっほど区別できていません。 「公」と「私」という場合に、今の人が勝手に思っている「私」は個人です。でも実は なごり 日本では「私」は「家」でしたし、今でもその名残があるのです。 へきち たとえば日本ではどんな僻地の小さな家にも塀がしつかりある。当たり前のように田 5 われるかもしれませんが、アメリカでは塀のない家も多い。日本の塀は、「この中は 『私』の空間ですーということを示すために作られているのです。 新潟県で十年近く女の子を監禁していた事件がありました。仮に周りは薄々知ってい

8. 超バカの壁

なものなのです。赤ん坊は人間社会のルールはまだ全くわからないし、その社会に入っ てきていない 次第に言葉を教えて、それから社会のル】ルに慣らしていく。赤ん坊はそれ以前の過 程の存在なのです。自然なのです。ところが意識中心の社会の考え方では、自然それ自 体に価値があるという考え方は消えてしまう。 自然保護、環境保護と、子供保護というのは同じことです。もちろん、子供が純真で 天使のような存在だというつもりはありません。とんでもないガキというのもいます。 しかし、自然は自然として認めて抱えていかなくてはいけないのです。大人にも当然 自然の要素はたくさん残っている。現に身体は自然です。ただ子供のほうがより自然度 か高いということです。 自然保護に異を唱える人は少ない。山をどんどん切り開き、裸にしていく様を見れば、 こんなに壊すことはないだろうと感じる。それと同じことで、子供をこんなに無視する ことはないだろうと思うべきなのです。 昔に比べれば子供は大事にされているというのは嘘です。それは甘やかしていること

9. 超バカの壁

番助かったのは、もうこれ以上患者が死なないということ。その点だけは絶対安心でし た。人殺しをする心配がないからです。しかし患者さんを診るという行為から逃げ出し ても、遺族の面倒だとか何とか実はもっと大変なことがありました。 社会、仕事というのはこういうものです。いいところもあれば、悪いところもある。 患者の面倒の代わりに遺族の面倒を見る。全部合わせてゼロになればよしとする。 あとは目の前の穴を埋めていれば給料をくれる。仕事とはそもそもそういうものだと 思っていれば、「自分に合った仕事」などという馬鹿な考え方をする必要もないはずで 】マンも、入社当初から大志を抱い す。 Z の「プロジェクト」に登場するサラリ ていた人ばかりではないでしよう。 合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をして はいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくう ちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりな さいよということが結論です。 最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思ってい

10. 超バカの壁

心の傷は治すべきか 心の傷という言葉をよく耳にします。 その傷の多くは肩凝りみたいなもので、そういう概念が出来たから気にしているので はないかという気もします。どこまで本気なのかなと思うのです。 私はよく父親の死について話をします。父親が死んだときの経験からあいさつができ 題 ない子供になったという話です。要するに幼少期の経験からその後の自分の行動が変わ っていった。そういうのが今風に一言えば、心の傷、トラウマということなのでしよう。 それは単に何かつらい経験があったからトラウマが残ったということではありません。 9 心の問題 125