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検索対象: 超バカの壁
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1. 超バカの壁

フラクタル理 よく似たことが数学でいうところの「フラクタル理論」でもわかった。実際の自然は わかりづらいとしても、数学ならばきちんと答えが出るだろう。皆さんそう思われてい るかもしれません。ところがそうでもない。 マンデルプロという数学者はスペインとポルトガルの国境線の長さを問題にしました。 そしてこの長さが測れないという結論が出てしまったのです。そんなもの測れないはず 題かないと普通は思、つでしよう。しかし実際にスペインかい、つ長さとポルトガルのいう長 のさが違う。なぜそんなことがあるのか。ごく単純な答えとしては、物差しが違うと答え テ スが変わってくるということです。 シ スペインは国土が大きい。ポルトガルは小さい。両国が国境線をはかるときに、自国 9 の地図を使って糸を国境線の上に重ねて測ろうとしたとします。 いう論理系があるということがわかってしまったというのが、カオス理論の一番大切な ポイントなのです。

2. 超バカの壁

う研究はその意味で重要なのです。これだけ一般化したテレビというものについての、 そ、つい、つ研究がなかったこと自体が信じられないくらいです。 すでにテレビが登場して五十年です。影響ということでいえば、俗悪番組が悪い、暴 カ描写が悪いといったことはよく言われています。しかし、実証的なデータがありませ これが悪いと言ったところでそんなも んし、基礎研究もなかった。それであれが悪い、 のは印象批評に過ぎません。まったく実証的ではない。 ではこれを実証的に調査しようとすると何がわかるか。その研究には莫大なお金と手 間かかかって大変だということがすぐにわかる。 一種の社会システムにかかわる研究です。システムをまともに研究しようとすると大 題変なことになる。きちんとデータを取ろうとすると要素が多過ぎる。調査といっても子 の供のいる家庭に、何時間、どんな番組を見ているかということや、その他の生活習慣な テ どを細かく継続的に聞いていくだけです。それを長期間、同じ子供について調査する。 ス シ こういう研究をするというと、お金も手間もかかるからきちんとした結論が出なくて 5 は役に立ちませんよというのが一般的な意見です。たとえばテレビを長時間見ている子

3. 超バカの壁

力とい、つことは数学的にはわかる。 ここでのポイントは、私たちがはっきりわかっていると思っているものが、実は物差 しによって変わってしまうのだとい、つことです。 結論は物差し次第 この考え方が複雑系と同時期に数学の世界で登場した。それまでは科学的、数学的に 正しい長さが存在しているという思い込みが何となくあったわけです。ところが、実は そんなものありやしないよと科学者、数学者が言いだした。ここが面白いところです。 あくまでも結果は物差し次第だ、大切なのはどの物差しを使うかというルールのほうじ 題やないかとい、つことです。 のスペインとポルトガルの国境線に正しい値があるというわけではない。それをはかる テ という行為については、両国が合意できるルールを作ることはできるかもしれない。で ス シ もそれで出された数値も絶対に正しい数値ではないのです。 これが暗に言わんとしていることは、つまり、学問、特に科学の世界では、ある客観 ノ 61

4. 超バカの壁

見出さないようになってきました。もっとも、「らしさ」を嫌、つのは子供に限ったこと ではありません。「男らしさー「女らしさ」というような物言いも封建的だから駄目だと いう人がいます。でも「らしさ」を認めるということは、その対象に根本的な価値を認 めているということなのです。 「らしさ」を否定されて、子供は子供らしいよりも、大人に近づいたほうがいいのだと いうことになってきた。都市化した社会は子供に対して早く大人になれと要求します。 彼らに大人予備軍としての価値しか認めていないからです。子供が子供であることに価 値があるとは、思われなくなってきたのです。 それは都市に植える際には木が真っ直ぐ生えたほうがいいというような考え方とも共 通する身勝手さです。そんなのは木の価値を認めていることにならない。人に都合のい いような生え方では本来は「木らしくないのはおわかりでしよう。 供子供が子供らしくあることの価値というのは、昔はもっと認められていました。とこ 子 ろが「子宝。「授かり物 . というような言葉は私が若い頃からもう理解されなくなって きた。それは人工中絶が公然と行われるようになったこととも関係しています。

5. 超バカの壁

自分の判断でしたのですから遺族とトラブルになってぶん殴られても、だれにも文句 は = 一一口えません。結局、その田舎の親族がやってきたときには実際に殴られました。しか しそれで向こうを追い返すことができた。それでこちらも、そこまでやれば向こうは帰 るものなんだなとい、つことがわかった。 向こうも文句を言って気が済めばそれでよかったのです。そういう事実が残れば彼ら メンツ それでこっちが別 の面子は立つ。東大の医者を殴ってやったよ、と田舎で一一一一口えばいい。 に損するわけではありません。解剖はきちんと進むし、仕事のほうも順調にいくわけで す。丸く収まれば献体を了承してくれた遺族も助かる。 もちろん、抗議を受けているときにそんなことをいちいち考えて出ていったわけでは ありません。しかしこちらが本気でやれば、自然に一番いい解決の方向に動くのです。 抛本気でやるべきときに、逃げるのが一番駄目です。面倒なことにも直面するのです。 の 本 面倒から逃げない これは若い人にはなかなかピンと来ないかもしれません。要領よくしたほうがいいの 181

6. 超バカの壁

せん。実はその言葉を意識する瞬間の一秒前に、あなたの脳はもう動き出している。意 識する前に脳か勝手に動いていると言ってもいい。実は意識してから喋っているのでは なく、その前に『は何かをいうように動きだしているのです。 こちらが意識する前に脳はどう勝手に動いているのか。それはそのときに身体が置か れた状況で決まるのです。これが「衣食足りて礼節を知る」ということです。置かれた 条件で脳の動きは決まってしまうのです。どんなに頭のほうだけで、真面目に礼儀正し くやろうとしていても、衣食が足りなければそううまくはいかない 脳が勝手に動くというのは身近な例でもわかります。火に手を突っ込んだら、反射的 に手を引っ込める。「熱い」と感じて「アチッーというのはその後です。 せきずい 手が引っ込むのは、脊髄を通った反射だから速い。同じ刺激が脳に行って、それから 「アチッ」というまでに大体一秒かかっている。 我々の意識というのは、たとえてみれば国際電話かテレビの衛星中継みたいなもので す。国際電話ではこちらが話してから向こうが反応するまでタイミングが少しだけ遅れ ます。

7. 超バカの壁

と見ていない子との間に統計的に有意な差のある結果が出ないと駄目だというような意 見がの調査の際にも出ました。 その議論の場に私もいました。私は「それはその通りなのですが、もう一つ大切なこ ともある」と申し上げました。つまりこれだけ手間とお金をかけて研究しても、結論が 出ないということがわかればそれも非常に大切なのです。 たとえば暴力番組の是非というテーマで調査をするときには、番組と子供の行動との 間に因果関係が何かっかめるはずだという前提がすでにある。しかしその前提があれば 大体、悪影響があるという方向の結論しか導かれないでしよう。暴力番組を見ていた子 供の方が元気でよろしいというような結論はおそらく出ない。 しかし、いずれにせよ、こういう調査をしてもはっきりした結論が出ないということ がわかればそれはそれで非常に大切なことなのです。システムにおいて因果関係という のはそう簡単に証明できるものではない。「よくわからない」ということがよくわかり ましたとい、つことでもいいのです。 156

8. 超バカの壁

よ + なよ すると役所の返事は「これは甚だ異例の葬儀だ。まずは世間並みの葬儀を一度やれ。 というものだった。要するに葬儀を二度や あとは、本人の言ったとおりにすればよい れと言った。これもしつかり「公」と「私」を分けていることのあらわれです。江戸の 人が封建的で「個」がないなんて言ったのはだれだ、近代人は本居宣長ほどの自我も持 っていないではないか、というのが小林秀雄が書きたかったことだと思います。 近代人は、江戸時代の人なんかよりも自分のほうが自由だと思っています。実際には 会社に縛られて、組織の中にすつほり埋め込まれていても、幸せだと思っている。本居 宣長が聞いたら笑うでしよう。実はそこは今の人のほうがよっほど区別できていません。 「公」と「私」という場合に、今の人が勝手に思っている「私」は個人です。でも実は なごり 日本では「私」は「家」でしたし、今でもその名残があるのです。 へきち たとえば日本ではどんな僻地の小さな家にも塀がしつかりある。当たり前のように田 5 われるかもしれませんが、アメリカでは塀のない家も多い。日本の塀は、「この中は 『私』の空間ですーということを示すために作られているのです。 新潟県で十年近く女の子を監禁していた事件がありました。仮に周りは薄々知ってい

9. 超バカの壁

っとしたらそんなことはないんじゃないかと思っている。 テレビの暴力番組と子供の行動には何の因果関係もないという結論になるかもしれな跖 、 0 しかし、そういう結論が出た場合、その研究が無駄だったかというとそうではない と思、つのです。 もしかするとこちらが予想もしていなかった、より高い次元でのルールが発見される かもしれない。人間は絶えすそういうことで発見をしてきたような気がする。 もしくはもっと素朴なことがわかる可能性もある。単に視聴時間と何かの関係がわか ることもあるかもしれない。暴力番組だろうが教育番組だろうが、内容と関係なく長く 見たぶんだけ影響されるということがわかるかもしれません。 もちろん研究に対して何か結論を要求すること自体は仕方ないことなのです。天気の 話にしても、「数字の取り方で結果が正反対になるから明日の天気はわかりません」と 言ったら、「経験でわかるだろう」と言われるわけです。だから現実の場面では「雨で すーというのではなくて、降水確率が xx パーセントですという。 それが長期の予報になると、とても見当がっかないという話になる。それでも長期の

10. 超バカの壁

に本当にそういう傾向があるのかどうかは実はよくわからないはずです。なぜなら統計 的に本当に暴力的な若者が増えたかどうかについて調べるのは難しい。単純に昔との比 較はできません。 考えてみればおわかりでしよう。若い者が老人に乱暴した、暴言を吐いたということ はニュースになります。しかしそもそも見知らぬ若い者と年寄りが接触する頻度は昔と 今とでは比べ物になりません。たとえば満員電車のような状態でその両者が接点を持っ 頻度は今のほうがはるかに高いはずです。 もっと根本的なことをいえば人口そのものが増えています。少なくとも老人は増えま した。昔は若い人と年寄りが接するといっても、常に同じ顔見知りが大体同じところで 接していただけです。お互いにどこのだれだかわかっていたのです。 言ってみれば老人が「あのじじい」ではなくて、「養老さんのところのじいさん」と いう固有名詞だった。それが今は不特定の人になってしまっています。その状況の違い を考慮せずにただ事件の数だけ比べても意味がありません。 ですから今の若い者が果たして逆ギレしやすいのかどうか、そこは私にはわかりませ