おけばいいのです。それで構わない。 ところが、日本の社会では東大の教授が言ったから正しいというような言い分が通用 するところがある。ものを書くときには自分の中に何らかの原則があって書いている。 書き続ければどこかで世間とぶつかることが出てきます。頭の中が全部東大の原則通り ということはないわけで、自由に書いていくと、当然、そういう事態が起こってきます。 そこには二通りの考え方があって、それでも自分の考えを通すのが言論の自由である と考えて気にしないというのが一つの考え方。 もう少し穏当な考え方は「私」に帰ることだと思います。自分の発言が東大という世 間で問題になった。学問をする、つえで自分が正しいと思、つことを言わざるをえないか、 別にもともとこちらは世直しをしよ、つと思っているのではない。もしも発一言によって世 あつれき 間で余計な軋轢を生むのならば、「私」として書いていくしかない。「私」として書いて いくぶんには、憲法で、田 5 想、信教、表現の自由は保障されているのだから、だれにも 遠慮することはない。そう思ったのです。 大学を辞めた理由のひとつはこ、ついうことでした。 ノ 78
自分とは一体何者か 「自分に合った仕事、なんてないと述べました。最近の人は「自分」について考えるの が好きなようです。だから「自分らしく」「自分探し」というフレ ] ズもよく耳にしま す。 しかし自分とは何でしようか。この問題については、詳しくは『無思想の発見』 ( ち 分くま新書 ) に書いたので、ここではごく簡単に触れておきましよう。 ー目 たとえば小指を切り落としたとします。そのなくなった小指の分だけ、自分が自分で はなくなったと思う人は少数派でしよう。自分は変わっていないと思う人がほとんどの 2 自分の問題
ぶん というのはそのル 1 ルのことです。男らしさ、女らしさ、殿様らしさ。分をわきまえる。 そういうふうにしておく分には誤解がない。逆にいうと、その範囲だけでしか行動はで きない。でも分をわきまえておけば社会的な人間としては務め上げることができる。 今はもう「分をわきまえる」という言葉自体が死語みたいになっています。そういう 役割というのはどんどんなくなっているわけです。殿様はいないし、男は男らしく、女 は女らしくと言、つと古いと言われます。 私は本を書くようになってしばらくすると、自分の倫理として公務員をやめざるを得 ないと思うようになりました。何かを書けば「東京大学の教授がそ、ついうことを言って いいんですか」という反応が起こる。たとえば私は英語で論文を書かないと書いた。す ると自分の教室の若い人たちに英語で論文を書きなさいと指導している教授から文句を 言われました。「東大の教授がそんなこと言っていいんですか。困ります , というので 気す。その人が私の真意を全く理解していないことは明らかです。しかし、それは誤解で すよとわざわざ訂正して説明する義理はこちらにはない。 その文句を言っている人は、「あの養老という奴はおかしいんだ」と教え子に言って 177
この本も新潮社の後藤裕二さんや足立真穂さんを前に話したことをもとにした。これ で『バカの壁』から三冊目、もういい加減にしろと、本人も思っている。内容の一部は、 ちくま新書の『無思想の発見』と重なる。私がはじめから自分で書いた文章と、後藤さ んが書き起こしたものをもとにした文章と、興味のある読者は比較してくだされば、ビ ミョーな違いがわかるかもしれない。筑摩のほうははじめから自分で書いたからである。 今の日本社会には、明らかに問題がある。歳をとったせいで、そう思うのなら、それ でいい。もしそうでないとしたら、年寄りが世間に対してなにかいっておく意味がある かもしれない。本を出すのは、そう思うからである。どんな問題があるか。私はものの 考え方、見方だと思っている。そこがなんだか、変なのである。その意味では、『バカ の壁』、『死の壁』から本書まで、同じことを違う例題で述べているつもりである。 いくら本を書いても、考えるのは私ではなく、読者である。私程度の考えでも、七十 歳近くまで、なんとか生き延びてきた。運がよかったか、時代がよかったか、神仏のお とかげか、それは知らない。でも私の考えが、皆さんの参考になれば幸いである。これま 9 あ での二冊で、おかげで楽になりましたとか、安心しましたといってくださる読者がいる。
中国、韓国は放っておく 靖国神社への参拝に反対している人は、中国や韓国の気持ちはどうなるのかとおっし やるかもしれません。しかし靖国問題について彼らがいろいろというのは、実は害がな いからだろ、つと思います。 彼らとしてはこの件で文句をいうのが一番都合がいい。もしも日本にまじめに抗議し て、東芝は出ていけなどと言って、本当にそうなったら彼らも困るわけです。中国のほ うが損をする。一番実害がないのがこの問題なのです。 それで彼らは日本に文句を言える。日本人も、向こうは害がないから言っているんだ ろうとニコニコして聞き流せばいいのです。それをまじめに相手にする人がいるからや やこしくなる。余計なお世話です。放っておけばいい。 だれも損をするわけでもあるまいし、得をするわけでもない もしも首相が靖国神社に行ったから損をした、という人が日本にいるとすれば、そん な商売はするなと言いたい 716
しかし長い間つき合っていくと、大抵の厄介な人でもドミノを最後まで倒すほど大変 なことは言ってこないことがわかってきます。相手の呼吸、度合いがっかめてくる。じ ゃあ絶対大変なことにならないという保証はありますかなどと詰め寄られても、そんな ものあるわけがない。その人を根本から治すことは出来ないのです。本気でその相手を しようと思うと、自分の人生を全部つぎ込んでしまうことになります。 一番大切なのはいかに被害を受けないかということです。そのためには、なまじ親切 にしてはいけないというのが私の経験から得た結論です。 ファンレターの返事 私は基本的にファンレターに返事を書きません。返事も書かないし、変なものは読み もしません。それは場合によっては非常に個人的なことが書いてあるからです。 フランスの哲学者アランは「自分は占いは読まない。なぜなら、読むと信じるから」 と書いています。占いは信じないという人も、大抵少しは気になるものです。影響され ないようにするにはどうしたらいいか。読まなければいいし、聞かなければいいのです。 142
それと同じでファンレターに書かれた個人的な事情も、まともに読むとこちらが手紙 に影響されるのです。そ、つなると無視しよ、つとしてもどこかで気になる。すると仕事の 妨害になる。だから私の本で、もしも間違っているところや、気に入らないところがあ るのならば墨で塗ってくれとい、つことです。 気に入らないところは消してくれて構いません。こっちは小学校二年生のときから教 科書に墨を塗っていたのです。 そういう立場でなければ言論の自由なんて成り立ちません。私はオ 1 プンに書いてい るのですから、向こうがオープンな場で反論すればオープンに返事をすることもあり得 るでしよ、つ。しかしオ】ブンに一言っていることに手紙とい、つ形でプライベートで反論し てくるのは変だと思うのです。 9 経験的によくわかっているのは、一回返事を書き、その相手がそれで「わかりまし 間た」となって終わりになるということはないということです。昔、「神の存在の科学的 証明」というようなパンフレットを送ってきた人がいました。それに対して、科学的に 3 証明された神なんか意味がないという返事をうつかり書いてしまった。そんなもの、面
あ」が」 こういう本を書くのは、人前でハダカになるのに近い。ついホンネが出てしまうから である。 最初から自分で文章を書けば、そこのところは表現しだいでかなり調節ができる。し かし話をもとにすると、文章を書くのと違って、感情が出てしまう。それがつまりホン ネである。 いまの若者がもつばらケータイでメールを使、つのも、わかるような気がする。言葉の 端に出てくるような微妙な感情を、もともと人は敏感にとらえるのではなかろうか。そ れに対して、どんな反応が生じるか、いまではそれがよく読めないから布い。昔と違っ て、気心の知れた相手ばかりではないからである。それならメールのほうが安全じゃな いカ、相手も即座には反応できない。当たり前だが、 そういうわけで、目の前に相手か いるのといないのとでは、話が違ってくるのである。 ノ 88
解された方が結構います。実際には、世界には脳で感じる以外のものがたくさんあると いうことを書いているのです。『バカの壁』などでもさんざん書いた通り、意識が世界 の全てではないということです。 これが非常によく誤解されました。それこそ「バカの壁」を感じました。しかし私は もうそういう誤解についてはいちいち怒らないようにしているのです。 普通、誤解されて怒っている人は、誤解されることによって損するのは自分だという 考えを持っています。でも私は誤解して損するのは相手だというふうに思うようにして いるからです。 たとえば『唯脳論』において、こちらの言ったことを誤解している人がいるとする。 それで損をするのはその人のほうだと思うのです。もちろん、おかしな解釈をしたこと ひょうたん 抛で、瓢簟から駒のように得をする可能性だってないわけではない。それは相手の自由で 気す。そう考えなくては言論が成り立ちません。 ただし、変に誤解をすると損をするのは誤解をした方だろう、といつも私は言ってい るのです。もっと厳しく一一一一口えば、それだけ真実から遠ざかっているだろう、ということ
す。要するに自分が負い目を感じていたくない。自分が潔白でありたいというのが、結 構日本人に根強い感覚です。 初めから人間は罪を背負っているものである、気がついていなくても何らかの罪を背 ししことだ 負っている、とい、つことを意識していない。腹に一物もないとい、つことは、 ) ) と思っている人が多い。そういう後ろめたさのない政治家は布い。 その後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人なのです。私 そ、つし が憲法九条改正に反対する理由もそれです。九条はそのままにしておいていい。 ておけば、軍隊を動かすのは何となく後ろめたいから、いろいろと論争が起こるでしょ う。それでいいと思っています。 題後ろめたさもなく軍隊を動かされてたまるかと思うのです。「これは実は悪いことを のしているんだよ」という気持ちがあって、はじめてああいうものが許される。正々堂々 争と人殺しをしていいと思われたら困る。 別に「日本の理想は無抵抗主義だ」と言っているわけではありません。状況によって 3 は、実際に自衛隊を動かす局面があっても、それは仕方ありません。現実には対応しな