若い人 - みる会図書館


検索対象: 超バカの壁
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1. 超バカの壁

自分の判断でしたのですから遺族とトラブルになってぶん殴られても、だれにも文句 は = 一一口えません。結局、その田舎の親族がやってきたときには実際に殴られました。しか しそれで向こうを追い返すことができた。それでこちらも、そこまでやれば向こうは帰 るものなんだなとい、つことがわかった。 向こうも文句を言って気が済めばそれでよかったのです。そういう事実が残れば彼ら メンツ それでこっちが別 の面子は立つ。東大の医者を殴ってやったよ、と田舎で一一一一口えばいい。 に損するわけではありません。解剖はきちんと進むし、仕事のほうも順調にいくわけで す。丸く収まれば献体を了承してくれた遺族も助かる。 もちろん、抗議を受けているときにそんなことをいちいち考えて出ていったわけでは ありません。しかしこちらが本気でやれば、自然に一番いい解決の方向に動くのです。 抛本気でやるべきときに、逃げるのが一番駄目です。面倒なことにも直面するのです。 の 本 面倒から逃げない これは若い人にはなかなかピンと来ないかもしれません。要領よくしたほうがいいの 181

2. 超バカの壁

す。 最近フリーターが増えたというのは、むしろ、そういうだれもが持っている気持ちが オープンになってきただけなのではないかと思うのです。モラトリアムの気分を行動に 移して現実にする人が増えた。昔はあくまでも腹の底に持っている気持ちだった。それ 1 ドクタ】です。そうい でも、ある程度行動に移す人がいました。それが留年やオー う人と、フリーターには大差ありません。 憧れのニート ニートはまたちょっと別です。でもそ、ついう人も昔からいました。フリーターとニ トの中間くらいの人です。定職に就かずたまに何かで稼いでくる程度の人はいたのです。 かってはフリーターやニートという定義、言葉がなかっただけで、、い情的に本当はそ さが んなふうになりたいという人は昔からちゃんといたわけです。これは人間の性のひとっ と言ってもいいでしよう。それを表に出す人が増えただけです。 言いかえれば若い人が自由にフリータ】やニートになれるよ、つな国になったとい、つこ

3. 超バカの壁

と、死体の展示はとんでもないというのとはまったく別次元の話です。大体、そう言っ ている人も皆死ぬのですから。彼らは死んだときの自分はこうなるということを受けい れていない。自分を受け入れていない人にあれこれいう権利はないのです。 雑用のすすめ 抗議の相手のような仕事を、人によっては雑用と呼ぶのでしよう。それを雑用だと思 うのは、自分で考えた自分の筋というものがあるからです。しかし自分の筋があるとい ししことでもあるけれど、悪いことでもあるのです。 とりあえず一度は雑用をやってみたほうがいいと思います。若いときにはいろんなこ とをやってみることを勧める。ただし、それを雑用だと軽く見て半端にやってはいけな い。それでは薬にならないから。 それは仕事の選択そのものについてもそうです。失敗しても、 しいと思って仕事をして はいけないのです。だから、逆に嫌な仕事をやるわけです。そもそもやりたくないこと だから、モチベーションを強くしなければやれないはずです。 184

4. 超バカの壁

る人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。余計な橋や建 物を作るのはまさにそ、ついう余計な山を作るような仕事です。もしかすると、本人は穴 を埋めているつもりでも実は山を作っているだけということも多いのかもしれません。 しかし実は穴を埋めたほうが、山を作るより楽です。労力がかかりません。 普通の人はそう思っていたほうがいいのではないかと思います。俺が埋めた分だけは、 世の中が平らになったと。平らになったということは、要するに、歩きやすいというこ とです。山というのはしばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれ ば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。 △聰「汁は社〈につら一つ 「会社が面白くない」というのはなぜか。それは要す 若い人が「仕事がつまらない、 者るに、自分のやることを人が与えてくれると思っているからです。でも会社が自分にあ 若 った仕事をくれるわけではありません。会社は全体として社会の中の穴を埋めているの です。その中で本気で働けば目の前に自分が埋めるべき穴は見つかるのです。 2

5. 超バカの壁

ん。暴力性で比べれば戦国時代の若い者は相当人を殺していたはずです。 昔の若者は悪かった 戦国時代と比べるのは行き過ぎだと思われるかもしれません。しかし素行の点でいえ ば私は自分の若い頃と比べても今の子はむしろおとなしい、突っ張っていないのではな いかと感じることさえあるのです。 たぐい 私が子供の頃は「予科練帰り」という類の人がいました。海軍の飛行機乗りを養成す る学校の生徒だった人たちです。戦争が終わって、彼らにはやることがなくなった。そ のせいもあって、非常にたちが悪かった。何せ鍛えていましたから、腕つぶしも強い。 実際に予科練帰りの連中が集団で二人ほど子供を捕まえて川へ放り込んでいるのを見 抛たことがあります。投げ込まれた子供は泣きながら川から上がってくるのですが、それ 者をまた放り込む。 若 こっちは見ているだけなので動機はわからないけれども、いじめている。こんな光景 を目のあたりにした身からすれば、今の若い者が乱暴だとは思えません。

6. 超バカの壁

こだわりという壁 教育で考えれば、目の前の生徒に本当に他の人と違うオンリ 1 ワンの個性があるとい うこと、お前は本当に他の人と違ってお前自身に決まっているだろうということを前提 にする。そうすればその生徒にどれだけやかましく指導してもいいのです。 厳しく強制してもいい。なぜなら本当に相手に自分があるのならば、どんなに強制し ても聞けない部分が出てくるはずです。 A 」い、つよ、つ 者ささいなことで「それは自分らしくない」「それをやると自分ではない 若 なことをいう人は逆に、自分についての確信がないのです。どうもオンリーワンを主張 している人は実はこういう側の人のような気がするのです。 錯覚をしている人は虚勢を張っているわけです。芸術家ならば、おれの作品は独特で 素晴らしいと主張する。でもその素晴らしさというのは結局、何かの展覧会かどこかの 教授に評価されないと満足できない。そうなると本当にオンリ 1 ワンの素晴らしさとい 、つものを信じているのかねと言いたくなります。

7. 超バカの壁

韓国絡みで起こってくることというのは、必ず北朝鮮と込みにして見たほうがいい ともかく対日とい、つことで、両者が合同していると思ったほうがいい。実際に統一され ていなくても同じ朝鮮という国なのです。北の気を引くためにこっちと対決しているか もしれないし、それはもうどこで話をつけているかわかったものではありません。しか もそういう事情は絶対外に漏れないようにしているわけです。 実際には韓国の人が、どこまで北朝鮮派かわかったものではありません。内部で四分 六分とか、七分三分とか、そういうふうになっているだけのことです。しかし外から見 るときは、両者を込みにして見ておくほうがまともな見方だと思います。本当に心から 反北朝鮮と言っている人が韓国にどのぐらいいるか。ここは複雑です。つまり、一人一 抛人の中の気持ちが割れてしまっている。 の だから、私は安定するためには、北朝鮮と韓国が一緒になってしまうのが一番いいと 任 争思う。多分日本の「現実派」の人たちは、北朝鮮を中国が取り込んで、韓国は日本が取 戦 り込んだら安定すると思っているけれど、そんなにちょろいものじゃないという気がす 701

8. 超バカの壁

子供の本質的価値というのはたとえば無垢であるということです。そういう子供らし さに今の人は価値を認めようとしません。何も子供を甘やかせということを言いたいの ではありません。電車で傍若無人に走り回っている子供を放っておけということと混同 されては困ります。子供と接していれば、「どうしようもないな、このくそガキ」と思 うときもあるでしよう。それはそれで叱ればいい。ただし、そんな面があることもやむ を得ないと思って根本的に受け入れることが大切なのです。 それでも若い人はこういうかもしれません。それで何かいいことがあるのか、と。こ の問題は人生の価値をどこに置くかにかかわってきます。その人が何に価値を置くかを 問うているのです。 かっての日本には家制度があって、代々家を存続させることに重きをおいていた。そ れには子供が必要です。それが今のように現世の社会のみを考えれば、大人社会から子 供は要らなくなってしまう。それでは少子化になるのも無理はありません。 おそらく、今は子供が多い人のほうが、ある意味で損をしているという面があると思 います。子供の面倒を見るぶん忙しいから出世が遅れるかもしれません。最初に述べた

9. 超バカの壁

見出さないようになってきました。もっとも、「らしさ」を嫌、つのは子供に限ったこと ではありません。「男らしさー「女らしさ」というような物言いも封建的だから駄目だと いう人がいます。でも「らしさ」を認めるということは、その対象に根本的な価値を認 めているということなのです。 「らしさ」を否定されて、子供は子供らしいよりも、大人に近づいたほうがいいのだと いうことになってきた。都市化した社会は子供に対して早く大人になれと要求します。 彼らに大人予備軍としての価値しか認めていないからです。子供が子供であることに価 値があるとは、思われなくなってきたのです。 それは都市に植える際には木が真っ直ぐ生えたほうがいいというような考え方とも共 通する身勝手さです。そんなのは木の価値を認めていることにならない。人に都合のい いような生え方では本来は「木らしくないのはおわかりでしよう。 供子供が子供らしくあることの価値というのは、昔はもっと認められていました。とこ 子 ろが「子宝。「授かり物 . というような言葉は私が若い頃からもう理解されなくなって きた。それは人工中絶が公然と行われるようになったこととも関係しています。

10. 超バカの壁

もう少し後になると、今度は若い者の集団が大学で暴れました。それと比べても今の 人は大人しいくらいです。むしろ逆に暴力なれしていないという問題が起こっている。 キレて大変なことが起こるのはそちらが原因であることもあります。 私もフリーターだった 予科練帰りには乱暴者の対極のようなタイプもいました。彼らは大抵体力もあって、 子供を川に放り込むくらい元気なのですが、なかには敗戦でがつくりきて気が抜けたよ うな人もいたのです。 無理もありません。今で一一一一口えば高校生くらいのときに「一億玉砕」と信じ込んでいた。 その前提が一瞬にしてなしになった。人生をやり直さなくてはならなくなった。しかも、 命がけの非常時だと思っていたのが、突然平時になってしまった。それで腑抜けになっ てしまったのです。一部の人は今でいうニートのような暮らしを送っていました。 最近、ニート、フリーターのことが問題にされています。しかしそ、ついう人は昔から いたのです。